虚数弓の測候士と砂時計軍 第14話「第一部幕間」
夕焼けは砂の粒子を金色に磨き上げ、仮設のテント群に斑(まだら)な光を落としていた。風歌は古びた気圧計を膝に押し当て、指先で針の震えを追った。針の振れは小さな脈のようで、避難列の眠っている緊張を映している。耳に入る音は、以前よりも遠く、鈍くなっていた。波のようだった人声も、焚き火のはぜる音も、彼女の世界を半分だけ通り抜けていく。
夕焼けは砂の粒子を金色に磨き上げ、仮設のテント群に斑(まだら)な光を落としていた。風歌は古びた気圧計を膝に押し当て、指先で針の震えを追った。針の振れは小さな脈のようで、避難列の眠っている緊張を映している。耳に入る音は、以前よりも遠く、鈍くなっていた。波のようだった人声も、焚き火のはぜる音も、彼女の世界を半分だけ通り抜けていく。
「風歌、大丈夫か?」と、志摩が声を掛ける。戦術班の実務を担う彼は、すぐ隣に座ってテーブルに広げた地図を指差した。地図の線は、海へと続く幾筋かの避難路を赤と黒で示している。赤は安全性の高い舗装路、黒は砂の堆積で通行に危険がある。
風歌は短くうなずいた。目で地図を追い、口元で小さく息を吐く。彼女の指はひんやりとした金属と紙の境を探り、まだ感じられる方向感覚で現在地を確かめる。聴力の欠落が、彼女の「測候士」としての自負を刃のように削っている。だが、それでも彼女は虚数弓を、仲間を守るための道具として持っていた。虚数弓は決して便利な万能器具ではない。共有された作戦だけを一度だけ描いて実現させる。共有されていない利用は、代償か、歪みを生む。
「南東ルートは補給の見通しが薄い。だが、兵の検問は北側に厚い」と矢田が言う。矢田は救護を担当している。手首には救急のゴムバンドが見え、腕には泥と消毒薬の匂いが染みついている。彼女の顔に浮かぶ皺は、誰を救うかを選ぶことの重みを物語っていた。
「みんなの合意が必要だ」風歌は言った。聴力が欠けた分、言葉を慎重に選ぶ。空気が彼女の言葉を割るたび、彼女は目で相手の表情を読む必要がある。共有された作戦。輪になっている全員が、同じ線を見ていること。そこに虚数弓は初めて弦を張る。
議論が続いた。賛成者は二人、反対は一人、見解を保留する者が三人。彼らは小さな社ではない。避難者たちの生活と命がかかっている。合意までは遠い。
そのとき、派手な悲鳴が裂けた。風歌の視界の端、薄紫のテント群の影の中から、絵理の声が鋭く伸びる。彼女は走り出した。燃えるような母性の匂いが残すその足跡が、風歌の耳に断続的に届く。足音は近づくが、風歌の世界ではそのリズムが鈍く、遅れて叩きつけられる。
「結! 結が砂の下に――!」
母親、藍田絵理は掻き毟るようにして砂の中から手を伸ばし、小柄な体を抱き抱えていた。結(ゆい)は震え、顔には砂と血が混じっていた。テントの柱が崩れ、突発的な砂の崩落が起きたのだ。近くの人々が集まって声を上げる。だが、周囲の判断は割れていた。崩落の起点はまだ不安定で、さらなる崩落の可能性がある。安全のために撤退すべきか。ここで人を助けるのか。
「今、虚数弓を!」藍田が風歌の肩を掴み、目を血走らせた。「あなたは――あなたは前に助けたじゃない! お願い、風歌、使って!」
その手の強さが、風歌の腕を締め上げる。母親の目は、選択の余地を奪う。だが、この場には全員の合意がない。志摩は頬を引き結んだまま、撤退を示す手振りをする。矢田は救護キットを抱え、まだ指示を待つ表情だ。郷田が、無言で崩れかけた支柱を押さえている。
風歌の中で、前世の感覚がざわめく。危険現場での判断、生命線を引く舵取り、だが今は違う。虚数弓の弦は、皆で同じ設計を確認して初めて鳴る。合意が欠ければ、弓はひずみ、放たれた力は予期せぬ方向へ流れる。風歌は確かに以前、独りで弓を張って代償を払った。聴覚の一部を失うことで済んだ。それが彼女の胸に重く残っている。だが、目の前の子どもの顔は痛いほどに現実だった。
絵理の手は震える。砂の埃が夕日を赤く反射する。彼女の唇が震え、呼吸が細く切れ切れになっていく。「お願い……風歌、ここで子どもを見殺しにはしたくないの!」
仲間たちの視線は風歌に集まった。合意を取る余裕はない。時間は砂時計の薄い砂のように落ちていく。風歌は一度深く息を吸った。空気は乾いて、刃物のように喉を擦った。虚数弓の感触を指先で確かめる。弓はいつも、胸骨の奥に冷たい重みを残していた。共有されていない使用――それは、自分の身体の一部を交換することだ。誰かの命を救うための。だが、同時に誰かの決定を奪う行為でもある。
「私、やる」風歌は言った。声はいつもよりも静かで、耳の奥で自分の言葉がこだまするのが分かる。志摩が口を開こうとしたが、藍田の目が風歌を捕らえた。母親の顔は、希求と赦しで震えていた。
風歌は虚数弓を空中に描いた。弓の形は見えないはずのものを描くとき、幻想的な重みを生み出す。細い光の線が、彼女の指から弧を描いて伸びた。光は赤砂を帯び、粒が指先をかすめる感触がした。ボウの弦を引くと、風歌の胸が鋭く痛んだ。前に失った聴力は、彼女に代償の領域を教えていた。今回は別の感覚が何かを差し出す予感があった。
弦を放す前に、風歌は辺りを見渡した。志摩の顔に怒りと恐れが混じっている。矢田の目は大きく見開かれ、郷田は無言で拳を握っていた。藍田はただ祈るように手を合わせた。
風歌は、藍田の言葉に押される形で弦を放った。光の矢が砂の壁を切り、崩落口に吸い込まれる。砂は瞬間的に固まり、空洞が形成される。小さな竜巻のような渦が手際よく砂を運び、結を包むようにして浮かび上がらせた。絵理は泣き叫びながら娘を抱き上げ、他の者も思わず拍手をしてしまう。救いは確実に、温かな実感としてそこにあった。
だが、祝福は長くは続かなかった。風歌の視界の端から、世界がかすかに欠けていく。最初は小さな影の斑点に過ぎなかった。それが瞬く間に広がり、右目の周縁が静かに溶けるように消えていった。砂のきらめきの一部が、まるで染みを引いた絵の具のように滲んだ。
「風歌!」志摩が叫んだが、声は遠く、風歌の中では厚い布がかぶさったように遠のいた。彼女は手を顔に当て、冷たい指の先で視界の欠損を確かめる。光の弦を引いた瞬間、彼女は代償を支払った。聴覚は既に部分的に失われていた。今回、彼女は視界の一部を失ったのだ。世界から、ある角度が滑り落ちていく。代償は身体の器官という形で現れる。痛みはないが、喪失の重さが胸に落ちる。
そして、もっと悪い事が起きた。遠くの砂丘の向こうで、黒い影が匍匐(ほふく)しているのが見えた。砂時計軍の偵察兵だ。彼らはいつもより早く動いていた。光の矢が発した共振の痕跡は、周囲の情報の流れに小さな波紋を作った。その波紋は、共有されなかった指令の欠片を、意思の近い別の者へと渡してしまう。風歌の独断は、無意識のうちに敵の感覚にも働きかけたのだ。偵察兵の一人が立ち上がり、無言で視界を凝らす。彼の瞳には、今しがた風歌が描いた「避難ルート」の輪郭のようなものが浮かび上がった。彼は仲間に手で合図し、歩調を合わせてこちらへ向かってきた。
「向こうから動きがある!」郷田が叫ぶ。矢田の顔が蒼白になる。藍田は抱えた娘に顔を埋め、未来への恐怖をこらえる。
風歌は震えた。助けは届いた。しかし、その行為が彼女たち全体の安全を危うくした。敵が、わずかにでも自分たちの計画を共有すれば、検問の網はあっという間に組み替えられる。彼女は一度だけ、孤独に決断した。代償は視覚の一部で、返ってきたのは敵に与えた情報のかけらだった。
「ごめん」風歌は藍田にだけ