月刃機の巡回員と魔導庁 第23話「第21章」
薄暗い倉庫の空気は、まだ鉄と塩の混じった匂いを残していた。木の床板が沈むたびに小さな軋みが響き、窓の外で時折、魔導庁の巡回ドローンが低く唸る声を落としていく。ルイは息を吸った――いや、吸えたつもりだった。視界の周縁が黒く滲んで、中央だけがぼんやりと残る。明かりは歪み、輪郭は溶け、そのぼやけた中央を通して世界がすり抜けていくようだった。
薄暗い倉庫の空気は、まだ鉄と塩の混じった匂いを残していた。木の床板が沈むたびに小さな軋みが響き、窓の外で時折、魔導庁の巡回ドローンが低く唸る声を落としていく。ルイは息を吸った――いや、吸えたつもりだった。視界の周縁が黒く滲んで、中央だけがぼんやりと残る。明かりは歪み、輪郭は溶け、そのぼやけた中央を通して世界がすり抜けていくようだった。
「ルイ、しっかりして」ミナが膝を折り、顔を覗き込む。彼女の瞳はいつもよりきっぱりとしていた。ミナは仲間たちの中でも戦術と調整を担う存在で、今は手の甲でルイの頬を触れて確かめる。触感が答える。温かさがある。生きている。
「大丈夫だ」ルイは言おうとしたが、言葉がゆがむ。舌先に苦み。くぐもった音が返ってくる。視界のぼかしにより、ミナの顔はマスク越しの人形のようだった。ルイは無意識に右手を伸ばし、胸に帯びた月刃機の小さなリングへ触れた。金属の冷たさが、皮膚を刺した。
「また使ったのか」サイゴウが肩越しに呟いた。大柄な男が腕を組む。彼の声には怒りではない、掠れた哀しみが混じっている。仲間たちは皆、知っていた。ルイは単独で月刃機を作動させた。誰の同意もとらないまま、ただ一人で――。
ルイは目を細め、歯を食いしばって答えた。「避難路を塞がれてた。あのままじゃ人が死ぬ。手を出す時間がなかったんだ」
倉庫の扉が軋み、外から足音が近づく。誰かが来る。皆の体が一斉に硬直する。扉が開き、黒いコートに銀の飾りを付けた魔導庁の監査官が入ってきた。名札には「高辻」という文字。彼は帳簿と薄いタブレットを片手に、事務的な笑みを浮かべていた。
「やっと会えましたね。非公式の介入がありましたと報告を受けています。被保護者の保護者同意がない介入は……手続き違反です」高辻は皮肉に満ちた声で言った。部屋の中に一瞬冷たい風が走る。彼の背後には二人の市政監査員が控えていた。官僚の足取りは軽く、だが目は獲物を見る鋭さを持っていた。
「私たちを攻めるつもりか?」サイゴウが低く言う。彼の拳が机の角を握りしめる。だが監査官は肩をすくめるようにして、丁寧に続けた。
「責任は共有されるべきです。巡回員の規約に反する行為があれば、保護が受けられない場合もある。被救助者を適切な手続きで庇護施設へ収容する――それが我々の役割です」
言葉は柔らかいが、意味は明確だった。魔導庁は制度として、選択の余地を奪うことに慣れている。命を守る名目で、個人の判断を剥奪する手続きの網はいくらでも張れる。
「ルイは違反を犯した」ミナが言った。「でも、その理由は――」
「理由だけでは済みません。規約に従えば――」高辻はタブレットをスライドさせ、薄い唇を引いた。「該当する被保護者の一時保護を求める。立ち入り検査も必要です」
そのとき、ルイは立ち上がろうとした。視界の黒い縁が波打ち、床板が天井に近づくような錯覚で眩暈がした。手を伸ばす。リングが重く感じられる。月刃機は、彼の掌の中で微かに振動を続けていた。前の行為の余韻だ。冷たい銀色の虫食い光が指先に這う。
「やらせないでくれ」ルイの声は低かった。彼はもう一度、リングを握ると、無意識につぶやいた。「ここで……一度だけ、あの子たちを返す。もう二度と、独りでは使わない」
ミナの目が瞬時に光る。彼女はルイの腕を取り、強く引っ張った。「ルイ! 聴いて。もうやらないって誓ったはずだ」
誓い。皆で交わしたはずの言葉があった。前回の成功は、救出を可能にしたが、代償は残酷だった。ルイの視界を一部奪い、身体のどこかに取り返しのつかない影を落とした。仲間たちは自分たちを止められなかった自責を抱く。ミナたちの手は、ただ止めるためではなく、その罪悪から逃がさないために伸びていた。
「覚えてるか、ルイ?」イズミが囁く。小柄で眼鏡の女性は慎重に言葉を選ぶ。「一人で使うと感覚を失う。それに、同意を無視すると力は予測不能に広がる。敵に作用することもある。だから駄目だって、私たちは決めたんだ」
言葉の届き方が鈍い。ルイは安全を示す輪郭を掴みたくて、ふたたび手を月刃機のリングに滑らせた。指先に伝わる微かな温度変化が、まるで月光を飲み込むように冷たかった。そこから聞こえるのは、紙が擦れるような、金属の薄い歌。ルイは思い出す。月刃機は共有された作戦を「一度だけ」現実化する。しかしその現実化は、仲間の合意という燃料を必要とするのだ。合意の無い燃焼は、歪な反動を生む。
「お願いだ」ルイの声が震える。「守るべき人がいる。あいつらを連れて行くつもりだって知れば、魔導庁はもっと厳しくする。こっちが一歩でも引いたら――」
高辻は書類の端を指で押し、にやりと笑った。「それでも、手続きは手続きです。違反者には罰則が科されます。保護者の同意なしに行われた介入により、被保護者の心理的負荷が増大したことが判明すれば、あなた方の保護は取り消される可能性がありますよ」
言葉は冷たい。だがそれ以上に重いのは、その裏にある論理だ。魔導庁は秤を持っていて、「秩序」と「手続き」を常に秤にかける。秤の片方に命が揺れても、もう一方に制度の重みが載ると、しばしば命は押しつぶされる。
「じゃあどうするんだ」サイゴウが床に拳を叩きつける。力が抜けて床に小石のような音が響く。「皆でやる。協力して月刃機を使えば、問題ないって言いたいのか?」
ミナは即座に首を振った。「魔導庁が認めるわけない。利用規約がそう簡単に覆るものなら、最初から我々はこんな目に遭わない。だが……」彼女は仲間たちを見回し、声を落とした。「でも、私たちが守る人たちに選ばせることはできる。彼らが自分の意思で動くなら、制度に対抗できる形を作れるかもしれない」
イズミが眉を寄せる。「投票するの? そんなことを、魔導庁が許すと思う?」
「許すかどうかは関係ない」ミナは冷たく言った。「我々が選択の余地を作る。正式な承認がなくても、被保護者が自らの意思で移動を望むなら、それは何かを変える。問題は、どうやって彼らに投票の機会を与えるか、そしてその意志をどのように守るかだ」
ルイは肩で息をする。視界の黒縁がじわりと迫る。手はまだリングを掴んでいた。月刃機は重い刃の音を立てずに、ただ待っている。力を使うことが可能だという誘惑は、いつも簡単にやってくる。だが今は違う。仲間たちが、静かにだが確固たる決断を育てているのが分かる。
扉の外で、低いエンジン音が近づく。魔導庁の巡回隊がこちらへ向かっているのだ。時間はない。高辻は小さな端末を叩き、冷徹に宣言した。「検査開始まで五分です。立ち合いの準備を」
誰かが囁いた。「五分でどうやって……」
その瞬間、カエデが立ち上がる。緊張で手が震えているが、その瞳は揺れない。カエデは医療と心理支援を担う女性で、避難民の信頼を一番に受けている。「ルイ」彼女はそっと近づき、彼の手を取る。「あなたがいなくなったら、私たちがやるべき話は何も始められない。あなたの代わりに、私たちでやる。それを、皆に示すのよ」
ミナの顔に、やっと柔らかな表情が浮かんだ。「私たちは、一度だけじゃない。制度と戦うには、ひとりの犠牲だけでは駄目だ。みんなの意思で動けば、月刃機だって本