黒潮砲の潜水士と錆びた王国

黒潮砲の潜水士と錆びた王国 第5話「第4章」

夜の避難所は薄く、潮のにおいをまとっていた。海に開かれた仮設テントの列は、風に揺れるブルーシートの合間からぼんやりとした光を拾い、負傷者たちの息が地面の冷たさに沈んでいくのが見えた。海緒は用意された毛布の隙間に手を滑らせ、包帯の端を固く結ぶ。手先が濡れていた。手のひらに残る塩の粒がひそやかに光った。

夜の避難所は薄く、潮のにおいをまとっていた。海に開かれた仮設テントの列は、風に揺れるブルーシートの合間からぼんやりとした光を拾い、負傷者たちの息が地面の冷たさに沈んでいくのが見えた。海緒は用意された毛布の隙間に手を滑らせ、包帯の端を固く結ぶ。手先が濡れていた。手のひらに残る塩の粒がひそやかに光った。

「医薬のストックが、もうミニマムだ」灯が低く呟く。彼女の声は疲れていて、だが確かだった。テントの中には包帯を必要とする腕や、声を失ったまま顔だけを動かす子どもがいる。灯はそれを見回し、空になりかけた薬箱を手の甲で拭った。彼女の眼差しが、海緒の顔と交差する。

「補給路は塞がれてる。錆びた王国の監視網が夜間も動いてるから、通常ルートはもう使えない」里央が帳面をめくりながら告げる。里央の指は震えていない。震えているのは帳面の端だけだ。 「食糧は三日分。負傷者の治療薬は一日分しか残らない」

海緒は銛のように冷えた空気を吸った。胸の裏にある過去の匂いが立ち返る ― 深潜のときの硫黄と、金属のはじけるような感触。そこから、黒潮砲の案が出た。誰かにとっては危険な発想だ。だが灯が目を見開き、意外なほど静かに言った。

「黒潮砲を使うのね。短時間でも、強固な補給路を押し出せれば……救える人は多い」

言葉の重さに一瞬、真砂が顔を曇らせた。真砂は夜の捜索隊長として何度も暗闇で仲間を失ってきた。彼の声には、夜に対する恐怖が芥子のように眠っている。

「闇での損失が怖いんだ。光で道を作ってくれるとしても、結局我々は見えるものしか助けられない。見えない被害が増えたら……それが俺たちの責任になる」

航が顎をさすり、反論を入れた。「でも今、見て見ぬふりはできない。黒潮砲なら供給を強引に押し出せる。一刻の遅れが死者を増やす」

海緒はテントの外に出た。風に乗った塩の粒が眉に凍りつく。遠くで波が砂を打つ音が低く響いた。黒潮砲は、彼女にとってただの兵器ではない。前世で過酷な現場を支えたときに体に染み付いた判断のひとつだった。仲間と綿密に共有した作戦だけを、一度だけ現実化する――その制約を彼女は知っている。合意がなければ、力は予期せぬ方向に作用する。無闇に押せば、敵の望むほうへも効果が及ぶかもしれない。

灯が海緒の袖を軽くつまんだ。「私たちで、やる。計画を共有して、全員が理解していることを確認して。あなた一人の判断で発動しないで」

海緒は灯の手を握り返した。手の温度が伝わって、確かに今ここにいる人々の意思が彼女の中で重なり合う感触があった。合意。言葉を交わす。計画の細部を裏返す作業は、戦場の静かな儀式のようだった。誰がどの区画を通すか、灯の指示で救護班が動く。里央と航は供給物資の優先順位を決め、真砂は夜間の影の匿い方を念入りに説明した。

「合図は三連の笛」真砂が言う。「黒潮砲の照準が定まった瞬間、我々は物資を流す。流れは一度きり。無駄は出さない」

海緒はうなずいた。「了解。全員の合意で、作戦を実行する。断られるなら使わない」

合意はそこで取れた。海緒は深呼吸をして、砂に跪き、小さな刻印石を黒潮砲の弾頭に触れさせる。装置は塩に濡れた鉄でできていて、波の匂いが機械の継ぎ目から揺らめいた。黒潮砲の内部は沿岸で拾った金属片と古い配管を寄せ集めて再構成された代物だ。派手な発射ではない。だが海緒は知っている。前世の知恵は、見た目よりも深い力を引き出す。

合図の笛が三回、夜を切り裂いた。第一の音が骨に響くような低音で、第二は耳の奥で鈍くはじけ、第三は風に乗って消えた。黒潮砲が喉を鳴らす。

呼吸が止まるような一瞬のあと、海面が裂けた。暗闇の中、海はただそこにある青い闇から、突如として帯状の光を吐き出す。光は黒潮の名に似合わず、黒みを帯びた青だった。壁のように立ち上がったその帯は、空気よりも厚くて、触れると振動が伝わる。海緒にはそれが、古い潜水服の胸で感じた流体の圧迫と重なった。

轟音とも低鳴りともつかない音が、地面を伝って届く。耳鳴りのように高周波が混ざり、砂粒が細かく震えた。灯の息が荒くなり、里央が唇を噛む。真砂は片手で帽子を押さえ、供給箱を一列に並べる。白い粉雪のように塩が撒かれ、その向こうで黒潮の帯が接続点を作り出す。帯は空間を押し広げ、そこでのみ通れる低抵抗の「道」を一時的に形作った。

「行くぞ」海緒は低く命じた。声が震えたのは自分でも気づいていた。だが震えは決断の熱さでもある。里央は一箱を抱え、灯は担架を引きずり、真砂は影を走るようにして通路の先頭に立った。避難者たちも小さな列を作り、黒潮の帯の側面を伝って動いた。

世界が圧縮される感覚。海緒の耳に、水と空気の間で引きちぎられるような音が入ってきた。黒潮の帯の中は、外界より静かで、ほとんど無音に近い。だがそれは心地よさを約束するものではなかった。濃縮された光景は、見る者に取捨選択を強いる。見えるものだけが守られる場所。見えないものはそのまま置き去りになる。

物資は滑るようにして短時間で通過した。箱は連なり、担架は列をなした。避難民の一人が大きな息をして、泣いているのが見えた。彼らの行為は確かな救いだった。だが胸の奥で、海緒は何かが引きちぎられるような痛みを感じた。それは身体の感覚とは違う。色の感覚が、まるで布を剥ぎ取られるように薄くなる。

黒潮砲が停止する合図が出た。三度の笛が再び振られ、帯はゆっくりと消えていった。供給は成功した。歓声はあがらない。歓声の代わりに、放心したような安堵が場を包む。灯は震える指で救急箱を開け、すぐに包帯を差し出す。里央は手を伸ばして子どもの頭をなでた。真砂は黙って、足元の砂を見つめている。

だが海緒は、世界の色が揺らぐのを見た。まず赤が抜け、次に緑が褪せていく。テントの青は灰色に溶け、顔の肌色は微かな濁りを帯びた。海緒は目の端にある影の世界が、まるで写真の現像液から色が落ちるように消えていくのを感じた。視界の中央はまだ色を持っているが、左右の端から色が逃げ出している。

「海緒?」灯の声が震えた。「大丈夫?」

海緒は首を振った。返事をしようとしたが、声が乾いて出ない。彼女は手を伸ばし、灯の指先を掴んだ。触れたとき、灯の手はちゃんと温かく、色を持っていた。だがその手から見える風景は、すでにどこか歪んでいた。海緒の心臓が高鳴り、頭の中に冷たい波紋が広がる。

「代償だ」里央が小さく言った。言葉はいつもの理知を帯びているが、震えが混ざった。真砂がゆっくりと近づき、海緒の肩を支えた。

「単独で使ったらもっとひどい。視覚以外も失うかもしれないって、知ってたのか?」真砂の目が、暗がりで鋭く光った。

海緒は微かな笑みを作った。前世の記憶の断片が、薄い紙片のように脳裏をかすめる。黒潮砲は力を出すとき、代償をその出力者に捧げる。だが共有した作戦で使えば、代償は最小に抑えられる――それが彼女の理解だった。今回の代償は、確かに視覚の一部を奪った。色彩が、彼女から少しずつ流れ去っていったのだ。

灯が膝をついて海緒の顔を覗き込む。彼女の指先が優しく、だが問いを含んでいた。「戻る?色は戻るの?」

海緒は視界の端に映った星のような点を見つめた