黒潮砲の潜水士と錆びた王国

黒潮砲の潜水士と錆びた王国 第19話「第17章」

潮風がまだ冷たさを残す朝、海緒は畑の端に置かれた一台の古い背負いポンプを握っていた。鉄の柄は塩気でぬるりとし、爪の間に泥が入っている。雲間から差す光が、黒潮砲の長い銃身に付着した貝殻と赤錆をきらりとさせた。砲身は浜に突き出し、漁網の切れ端と古い旗が風に揺れる。作業着の袖をまくった慧が、土の塊を指でほぐしながら言った。

潮風がまだ冷たさを残す朝、海緒は畑の端に置かれた一台の古い背負いポンプを握っていた。鉄の柄は塩気でぬるりとし、爪の間に泥が入っている。雲間から差す光が、黒潮砲の長い銃身に付着した貝殻と赤錆をきらりとさせた。砲身は浜に突き出し、漁網の切れ端と古い旗が風に揺れる。作業着の袖をまくった慧が、土の塊を指でほぐしながら言った。

「供給が止まって、買い支えも続かない。種と水さえ確保できれば、少しは自前で回せる。若い連中でまず種を分け合って、交換のルートを作る。海緒、あんたの潜水での経験、役に立つはずだ」

海緒はポンプの脇に膝をつき、湿った土の匂いを深く吸い込んだ。潜水士として潜った海の匂いに似ていた――鉄と藻と、圧力が加わって濃くなるあの匂い。手の平に残る微かな振動が、深潜りのときに感じた機材の鼓動を思い出させる。

「いいよ。まず井戸の掃除と、配水路の復旧を手伝う。黒潮砲は……なるべく使わない方針でいこう。あれは便利だけど、頼りすぎたら、守る側の選択肢まで奪われる」

慧は一瞬、遠くの海を見やった。波間に錆色の艀がちらりと見える。彼の額に汗がにじんだ。

「わかってる。だけど実際、食料を運んでくるのに砲を使えれば一回で随分助かる。あいつら(錆びた王国の巡回)は海路を封じてるから、直接運ぶのも危ない。若者の何人かは、もう我慢の限界だって言う」

畑仕事の合間に、小さな集会が開かれた。古屋のような年寄りが膝を抱え、数人の母親が子どもをあやしながら声を潜める。緊張は空気を重くし、口々に案が出る。中央に置かれた地図に、供給船の航路や監視の目が赤いマークで記される。ある者は「強奪してでも取ってこい」と言い、別の者は「そんなことをしたら、王国の報復が来る」と反対した。

そのとき、颯が立ち上がった。年齢は十九。顔は日焼けて、指先にまだ土と油が残る。

「うちは今、選択肢が少なすぎる。議論してる間にも、子どもは腹を空かせてる。黒潮砲があるなら使おう。俺がやる。同志の同意なんて待ってられない」

言葉は軽やかに出たが、空気は鋭くなった。慧が額にしわを寄せ、海緒の目が瞬時に顎へ向いた。海緒は颯の姿勢の中に、自分の若かった頃を見た。急いで、間に入った。

「颯、待て。黒潮砲は単独で作動させられるものじゃない。使い方を間違えれば代償が出る。君一人でやったら、身体に戻らない反動があるってこと、忘れないで」

颯は笑って首を振った。

「そんなの、昔話だろ。見せてみる。ほんの小さな調整だけで、近くの潮流を利用して補給船を誘導できる。気取った協議はもう必要ない」

彼は黒潮砲へと駆け出した。砲座は潮に半ば埋まりながらも、木製の台座にしっかりと固定されている。砲身に近づくと、そこには長年の塩分でこびりついた結晶と、無数の擦り傷がある。海緒は慌てて颯の腕を掴んだが、若者の力は鋼のように固く、手首はすり抜けられてしまった。

「颯、触るな! 手順を追わないと――」

だが颯は既に起動石と呼ばれる小さな丸い装置に触れていた。黒潮砲を媒介にするための同調盤だ。海緒にはそれが、一度に仲間の意思を束ねるための鍵だと教えられていた。通常は幾人かが同調して、作戦を共有しなければ砲は最大出力を出さないはずだ。だが彼は単独で、かすかな意図だけを込めて同調盤を弾いた。

小さな電光が指先を撫で、海鳥の遠鳴りのような低い音が一瞬、空を横切った。颯の顔が白くなり、耳の奥で高い金属音が鳴り始めた。颯は倒れ込み、口から唾を吐いた。顔をしかめ、鼻を押さえる。

「においが……しない。潮の匂いも、魚の匂いも……消えた」

颯はそう呟いて、手で鼻をこすったが空気は無慈悲だった。彼は嗅覚を失っていた。瞳には混乱と恐怖が走り、そのまま震えだす。周囲の者たちが動揺する。誰かがぶつぶつと祈るように言葉を洩らし、子どもが泣き出した。

海緒は瞬時に蹲り、颯の顔を両手で支えた。嗅覚の喪失は潜水士にとって意外なほど致命的な代償だった。海の中で微かな匂いが危険の前触れを教えてくれることがある。金属や藻の匂い、漏れの匂い。それらを失えば、彼の活動の幅は確実に狭まる。

「ごめん……」颯は小さな声で言った。彼の指先がやけに冷たく震え、口元には血が滲んで見えた。

古屋が唾を飲み、険しい口調で言った。

「あの装置は、合意を無視された。合意なき力の行使は、誰かに影響を及ぼす。外の連中に、だ。俺らはそれで一度、大きな事を招いたことがある。忘れたか」

その言葉に、場の空気が再び変わった。海の向こう、錆びた王国の巡回の目がどう動くかは、単独使用がもたらす副作用の一つだと誰もが薄々知っていた。合意を無視した力は、周囲の流れを乱し、それを受けたもの、時には敵までも巻き込んだ。あの時の記憶は、口に上らなかっただけで、誰の胸にも残っている。

海緒は颯の頭を優しく撫で、低く言った。

「あなたが感じたのは、反動の一部だ。単独であの同調盤を触れば、身体のどこかを取られる。嗅覚が消えるのは残酷だけど、それでもまだ軽い方。誰に何を取られるかは、そのときの流れ次第。だから、黒潮砲はみんなで決めるためのものなんだ」

颯はうつむき、手で目を覆った。涙は嗚咽ではなく、静かな後悔のしずくだった。慧がゆっくりと海緒の隣に座り、空を見上げた。

「このままじゃ、分裂する。供給が来ないという恐怖が、秩序を溶かす。若者は即効性を求め、年寄りは安全を求める。俺たちは、自分たちで選べるようになるための土台を作ってるはずだったんだ。これで……本末転倒だ」

海緒は颯の手から泥をこすり落とし、立ち上がった。泥のぎしぎしした感触が靴底に伝わる。潮騒が遠くで鳴り、波が浜で砕ける。彼女は黒潮砲の銃口を見つめ、軽く拳を握った。砲身の先端に、小さな穴が開いているのを見つける。そこには、細い銅の管が挿し込まれ、管の先は波打ち際の地下へと消えていた。

「これは……」慧が指差す。管には不自然な継ぎ目と、王国の刻印のごく一部らしき、薄いリングが乾いて付着している。

海緒は手で土を払いのけ、その継ぎ目をつまんだ。錆が爪に染みる。管を引くと、底から小さな音がして、湿った土が崩れた。そこに露出したのは、古い井戸の縁に埋められた金属のプレートだった。プレートの一角には、擦れてはいるが識別可能な印があった。それは、鋭角で構成された王国の紋章の一部だった。

「王国のものだ……」古屋の声が低く震えた。「こんなところに何のために」

海緒はそのプレートを指でなぞった瞬間、冷たい感触が手のひらを伝わった。プレートの裏側には小さな機械が取り付けられており、それが井戸の水位を検知するセンサーとつながっているようだった。配線は細く、取り付け部分は古いコンクリートに埋められていた。見れば、配線の先は外海へと続く銅線に繋がり、潮流や水位の変化に合わせて何らかの信号を外部へ送っている。

「水位を監視してる……だけじゃない。外部の制御に使える仕掛けだ」慧が言った。「供給をコントロールするために、わざと井戸を枯らす仕掛けを――いや、もっと悪い。必要と判断したら閉めることもできる」

集会は瞬時に静まった。海緒の胸が重く締めつけられる。これまでは、錆びた王国の支配は