黒潮砲の潜水士と錆びた王国

黒潮砲の潜水士と錆びた王国 第16話「第14章」

塩の匂いが張りついた朝だった。岸壁のコンクリートは潮を吸って黒く光り、海面からは低い霧が立ち昇る。黒潮砲の砲身は半ば泥を被り、鉄皮に付いた白い塩の結晶が指先を刺すように冷たかった。海緒は指先で砲身の縁をなぞり、そこにある小さな刻印を確かめる。そこには、単なる工学記号のように見える回路図の断片が、錆に溶け込むように彫られていた。

塩の匂いが張りついた朝だった。岸壁のコンクリートは潮を吸って黒く光り、海面からは低い霧が立ち昇る。黒潮砲の砲身は半ば泥を被り、鉄皮に付いた白い塩の結晶が指先を刺すように冷たかった。海緒は指先で砲身の縁をなぞり、そこにある小さな刻印を確かめる。そこには、単なる工学記号のように見える回路図の断片が、錆に溶け込むように彫られていた。

「時間がない」。透が背負った潜水具の金具を叩きながら言った。息が荒い。彼の目には、昨夜の襲撃で負った潰瘍のような黒い影が残っている。澪は無言で地図を広げ、村人たちの顔を見渡した。小波町の広場には、避難を迷う者、渋々集められた者、そして薄い顔色で佇む徴発官の姿が混ざっている。

「合意が要るって、あんたたちも知ってるはずだろ?」澪は低く言った。「共有した作戦だけを一度だけ実現する。全員の意思を取り込まないと……」

「全員って、どこまでだ?」南が言葉を噛んだ。南は自治会長の名札を下げているが、その指は震えていた。後ろで、避難民の一人──志賀佐吉は腕組みしたまま頷かない。佐吉の目には、錆びた王国に取り込まれて働いた過去の影がうずくまっているのが、海緒にはわかった。彼は拒否の意思をはっきりさせた。

「おら、俺は関係ねえ。国の言う通りにすれば屋根も食い扶持も付く。自分たちの判断なんて、弱い者には向いてねえ」佐吉の声は乾いていた。言葉は簡単だが、そこにあるのは生存の選択を強いられた人間の本能だった。

透が歯を食いしばる。彼は海緒の側に駆け寄り、拳を握る。「ここで待ってたら、徴発官が来てこの村を片付けるだけだ。合意を待つ暇なんてない!」

澪が鋭く振り返る。「透、あんたは――」

「合意が要るのは知ってる。でも、佐吉が拒否している間にも子どもたちが消耗している。海緒、今すぐやるんだ。ここで砲を起動して合意を取れば助かる!」透の瞳は血走り、その情熱は行動にだけ向かっていた。だがその行動の先にある代償について、彼は自分の身体が払うかもしれない代価を見ていなかった。

海緒は黒潮砲の照門に手をかけた。冷たい金属が掌に食い込む。起動時の低周波の不協和音が、胸の奥で鳴り始める。それはいつも彼女を揺さぶる。海緒は思い出した。能力の条件──仲間と「共有」した作戦だけ。単独で動かせば、感覚の一部を失うこと。合意を無視すれば、力は敵にも作用すること。

「透、やめろ」海緒は声を押し殺した。だが透は、もう動き出していた。彼の手が砲の起動レバーに触れ、金属の冷たさが高鳴る。

「待って!」澪が叫んだ。だが透は振り返らず、レバーを倒す。

黒潮砲は唸った。低い圧力の波が腹に響き、海面が一瞬黒く光る。砲身の内部から温度を帯びた潮が蒸気のように噴き上がり、空気中に塩の粒子がほのかな苦味を落とす。海緒は必死で身体を投げ出し、砲の前を塞いだ。光が周囲の顔に白く反射し、村人たちの瞳が一斉に一点を見つめる。

同時に、広場の向こう岸に見えた徴発官たちのヘルメットにも、微かな振動が走った。彼らの会話は途切れ、全員が同じ瞬間に動きを止めた。透の行動は、合意を無視したために、想像していたのとは違う効果を巻き起こした。力は狭く閉じられた共同体のためだけでなく、同じ周波数を受ける存在すべてに届いてしまったのだ。

「何をした、透!」澪の声は驚きと怒りに震えていた。だが透はもう、聞こえないようだった。彼は砲口の近くで膝を折り、唇に泡を作る。両耳のあたりが赤く、血管が浮き出している。海緒は透の肩を掴み、無理に抱き起こした。彼の視線は遠く、そこにあるはずの音を失った瞳だった。

――単独使用の代償が、透の身体を襲った。

透は手を耳に当て、困惑の色を見せる。「聞こえない……何も……」彼は呟いた。その声はかすかで、耳に入るはずの自分の声を、もう知覚できていない。

海緒は手のひらが震えるのを抑え、深呼吸をした。視界の縁に黒潮砲が吐き出した波形が残像のように残っている。だがそれだけではなかった。共有されてはいないはずの意思が、徴発官の隊列を動かし始めた。彼らは無自覚に、広場の中央へと足を向ける。そこには――海緒たちが本来望んだ選択が、強制的に作られていた。

「やられた」澪が低く言った。彼女は拳を固める。「合意を無視した瞬間、力が拡散する。敵にも作用する。それが、錆びた王国の制度と同じ設計だと……。それがあの回路図の示すものかもしれない」

海緒は透の顔を見下ろした。透は顔色を引きつらせながらも、必死に喉を鳴らすようにしていた。それは音を取り戻そうとする努力に見えた。海緒は思った。もしこのまま放っておけば、徴発官たちと村人たちは同じ強制される行動に縛られ、選択の芽は摘まれてしまう。だが戻すためには、再び砲を使うしかない。規則は冷酷だ──共有された計画を一度だけ、確定させる力。だがいまもう「一度」は使われてしまった。

「やるなら、正しくやらないと」澪が言う。彼女の顔に決意が浮かぶ。「ごまかしは駄目だ。全員の意思を集めて、皆で決める。でなければ、同じことの繰り返しになる」

佐吉がゆっくりと歩み寄った。彼の目は、先ほどの拒否の硬さを失っていた。年老いた手が握ったのは、自治会の小さな印章だ。彼はそれを空に掲げると、震える声で言った。「俺は……間違ってたのかもしれん。弱い者は選べない、と俺は言った。だが選べる機会を奪われてるだけなのかもしれん。お前らが――いや、私たちが決めるなら、俺は――」

その一言で、広場の空気が変わった。怯えていた隣の農夫が顔を上げ、子どもたちの母親が小さく頷く。拒否の輪は、少しずつ溶けていった。澪は小走りに広場を駆け、その場で握手を交わしていく。合意を形にするための手続きは、単純だった。手を合わせ、名を名乗り、声を出して賛同を確認する。海緒はその一連を見ながら、自分が握る黒潮砲の冷たさを噛みしめた。

だが、まだ問題は残っている。透の耳は戻ったわけではなかった。単独起動の代償は、彼から取り去られた感覚の一部として残る。海緒は思い出す。自分が前世で潜水士として潜った海中では、感覚の欠落が即死に繋がることもあった。聴覚を失えば、機構の微かな警報を聞き逃す。視覚を失えば、砕ける波の角度を計れない。能力の代償は、誇張ではない現実の痛みだ。

その痛みを背負う者が、今ここにいる。

「透を連れて安全な場所へ」海緒は指示を出した。澪と南が透を支え、彼らは避難経路へと歩き出す。歩きながら透は小さな声で言った。「俺の耳が……なくてもいい。あの子たちを守れるなら……」

海緒は透の肩に手をやる。海の匂いと鉄の冷たさが混ざる。彼女はふと、砲身に刻まれた回路図をもう一度見返した。そこには、単に「同期」のための波形だけでなく、人間の意思決定に干渉するためのループが組み込まれているように見えた。目の前に垂れ下がった錆びた王国の旗の一片──澪が拾い上げていた断片──の端にも、同じ刻印が薄く見える。二つは、偶然の一致ではない。

「これが、あいつらのやり方か」澪の声は冷たい。彼女は旗の断片を海緒に差し出した。その布の繊維に、微細な電極らしき模様が浮かんでいる。海緒の掌にそれが触れると、冷たい振動が伝わり、彼女の胸を軽く圧した。制度と能