白炎剣の交渉人と偽勇者団 第3話「第2章」
雨音が薄いテントの屋根を叩く。照明は古い蛍光灯で、青白い光が段ボール積みの陰を無機質に浮かび上がらせていた。長テーブルを囲んだ六つの手元だけが忙しく動き、指先と紙コップ、そして一振りの剣に視線が還っていく。白い刃身は油に濡れた銀のように反射し、刃先から覗くように白炎が揺れていた。惹かれるけれど、誰も不用意に触らない。触れると何かを始めてしまうことを、みんな知っているからだ。
雨音が薄いテントの屋根を叩く。照明は古い蛍光灯で、青白い光が段ボール積みの陰を無機質に浮かび上がらせていた。長テーブルを囲んだ六つの手元だけが忙しく動き、指先と紙コップ、そして一振りの剣に視線が還っていく。白い刃身は油に濡れた銀のように反射し、刃先から覗くように白炎が揺れていた。惹かれるけれど、誰も不用意に触らない。触れると何かを始めてしまうことを、みんな知っているからだ。
「説明する。順序を飛ばしたり、合図を無視したりしないでくれ」千尋(ちひろ)は掌で柄を撫でながら言った。声は低く、前世で培った抑えの効いた調子が身体を通っていた。彼女の左手首に薄い痕が走っている。朝から何度かその痕に視線を落としていた者がいる。
「簡潔に頼む」カルロが身を乗り出す。肩幅が広く、服の縫い目に土埃が残っている。彼は護衛だった。現場での判断に迷いはないが、説明を聞くときの無邪気さは消えない。
千尋は軽く息をつき、白炎剣の柄に手を添えた。金属は冷たく、触れると指先に細かな振動が伝わる。刃の反射がテーブル上の紙コップの縁に白い線を描く。
「白炎剣は媒介だ。――ここに触れて、合図を揃えた者たちが合意した『作戦』だけを、文字通り一度だけ現実にできる。合意の条件は二つ。ひとつ、参加する者全員が直接接触すること。手のひらでも、裏返してでもいい。ふたつ、合図を合わせること。声でも、手の合図でも、心を合わせる意味の合図だ。二つが同時に満たされた瞬間に、剣が“約束”を回収する」
「一度だけ、か」ミサキが呟く。彼女は救護班、薬の匂いが袖に残る。表情に躊躇が浮かんでいる。
「だから危険なんだ。作戦がどんなに正しく見えても、それに含まれる者全員が望んでいなければ、結果は歪む。合意のない強制は、剣にとって“汚れ”になる。合意を無視して発動しようとすると――その効果は勝手に範囲を広げ、同席する者だけでなく、近くにいる者、視界に入る者、さらには敵対する者にまで作用する。狙いが敵でも、避難民でも、その区別は保証されない」千尋の指が柄の輪に固く巻きついた。
「それはどういうことだ。――直に、見せてくれ」ソウタが要求する。青年はいつも先を急ぐ。目が悪いせいか、何でも確かめないと気が済まない。
千尋は小さく笑ってみせるが、それは笑いとは違った。合意を無視したデモンストレーションは誰も望まない。だが確信が必要だと彼女も知っている。言葉だけで人を動かすには、今は薄すぎる。
「俺に触らせろ。――千尋だけじゃ信用できない」カルロが言い、短く柄に手を伸ばした。指先が冷えた金属に触れた瞬間、剣の白炎が一瞬だけ強く光った。空気が引き締まる。外の雨音がざわつき、避難所の奥から子供の遠い声が届く。
だがそれは、合意の半分だけを満たしたときの反応に過ぎなかった。千尋はすかさずカルロの手を止めさせる。「駄目だ、触るなら全員だ。合図もだ。今はただの危険な触れ方。剣はその不完全さを罰する」
カルロの顔が硬くなる。カルロはわざと強く言い返す。「だったらこの場で決めよう。俺たちで合図をして、白炎で通路を塞いで偽勇者団の侵入を止める。避難民を出す時間を稼げる」
「それが作戦かもしれない。でも、合意は全員の心にあるか?」ミサキが言う。言葉は柔らかいが、彼女の瞳は冷たい。背後のテントの壁に、避難している親子の影が揺れる。子供の手が大人の袖をつかんでいる。目の前の議論が、彼らの安全に直結していることを、誰もが知っている。
「俺は賛成だ!」リオが叫ぶ。彼女は短髪で、怒りの矢を放つタイプの女性だ。だがその手は震えている。リオは剣に手を伸ばし、合図も相談も飛ばそうとする。千尋の手がすっとリオの手首を掴んだ。
「やめて!」千尋の声は硬かった。「リオ、この剣は一度きりなんだ。私が一人で使えば、反動で感覚の一部を失う。——今回は、聞く耳を失うかもしれない。味を感じなくなるかもしれない。過去に一人だけで試したときに、私は右耳が三日間聞こえなかった。視界が揺れて、時間の感覚が歪んだ。もし今それを戻すことができなかったら、私はあなたたちを守れない」
千尋の声に、テーブルの上の紙コップがカタリと鳴った。誰もが彼女を見た。千尋の顔は真剣だった。薄暗い目の奥に、過去の恐怖がちらつく。
「試したって、どういう――?」ソウタが畳みかける。
千尋は息を吐き、剣の刃先を立てるように持ち直した。柄の木目が冷たく、指の腹に細かな溝が触れる。彼女はそこで一度だけ、薄い声で呟いた。「試す。短く。今のは合意ではない。証明のためだけ」
その言葉に、誰も異を唱えられなかった。合意ではない、説明のための短い示唆。千尋は剣にわずかに力を込める。白炎が鈍く瞬いた。部屋の灯りが一瞬ぶれ、千尋の世界が音の輪郭を失った。遠くの空気が引き寄せられるように静止し、彼女の右耳に重い濁音が残った。味覚が一瞬、砂になったように鋭くなり、次いで消えた。舌先の位置が薄い布越しに触れられたような感覚。顔の左半分の温度がすこし下がる。
「――っ!」千尋は呻き、刀を床に戻した。位相が戻ってくると、全ての音が少し遅れて届いた。カルロが紙コップを拾い、ミサキが彼女の肩に手を置く。リオの表情は一瞬、恐怖で固まった。
「これが代償か」カルロが低く言った。言葉に重みがある。
「どれくらい戻る?」ミサキが訊ねる。
千尋は口を開けて、何かを確かめるように舌を動かしたが、コーヒーの苦みはない。「一過性のものが多い。けれど、右耳は戻るまでに時間がかかるかもしれない。反応は個人差がある。重要なのは、私がこの状態で十分に判断できるかどうかだ」
「じゃあ使いどころは……」リオが言葉を濁す。だが外から低いエンジン音が近づいてきて、会話が遮られた。窓の向こうで、偽勇者団の紋章が雨に濡れてちらつく。誰かが外で大きな声を上げる。「避難ルート変更のお知らせ!この施設は我々偽勇者団の指揮下に入った!」
テントの外の空気が変わる。少しずつ人々の足音が近づき、廊下を走る靴底の鳴りがこちらまで届いた。全員の視線が一斉に入り口に向く。子供が泣き出し、近くの母親がひざまずいて子を抱き締める。
「彼らは制度を悪用している。許可証だ、権威だって言葉を盾にして、人を動かす」千尋は言った。「僕らだけで決められる問題じゃない。けれど――ここで彼らに奪われたままにしておくと、避難民の意志はますます奪われる」
会議室の空気が固くなる。窓の外で、偽勇者団の一人が無線で命令を下す声が聞こえた。声は演説めいていて、正当性を装っていた。「この地域は我々が保護します。避難のために全員、我々の指示に従え!」その声には、選択の余地を与えない冷たさが混じっている。
「今、決めるのか?」カルロが尋ねる。選択の余地はないように見える。部屋の奥の人々の顔が浮かぶ。誰かが外に向かって屈むようにして、何かを拾おうとしている。
千尋は白炎剣を見下ろした。刃の中で揺れる白い炎は、奴隷のようでもあり、扉のようでもある。序盤に光を見せたものが、ここで意味を変えようとしている。合意か、強制か——。そして何を代償にするのか。
「俺は反対だ。剣を今使えば、彼らに正当性を与えかねない」リオが言う。リオの