白炎剣の交渉人と偽勇者団

白炎剣の交渉人と偽勇者団 第2話「第1章」

夕暮れの風が、破れたテントの布端を鞭のように叩いた。第七避難区画──雑多な家財と段ボールで仕切られた路地に、声が渦巻いている。篠原澪は低い台の上に腰を下ろし、両手の汚れを袖で払った。膝の上には白いノートと、彼女が前世で覚えた交渉術のメモが一本。ここ数週間で何十回と繰り返した型が、無意識に指先の震えを押さえていた。

夕暮れの風が、破れたテントの布端を鞭のように叩いた。第七避難区画──雑多な家財と段ボールで仕切られた路地に、声が渦巻いている。篠原澪は低い台の上に腰を下ろし、両手の汚れを袖で払った。膝の上には白いノートと、彼女が前世で覚えた交渉術のメモが一本。ここ数週間で何十回と繰り返した型が、無意識に指先の震えを押さえていた。

「…お願い、今回は本当に減らしてくれませんか。年寄りばかりで――」

声の主は相良かおる。避難区画の区長らしい老人で、額に深い皺を寄せている。向かいには金属の革嚢を肩にかけた男が立ち、クリアファイルを片手に淡々と説明している。偽勇者団の代表──桐生冴人だ。肩章は安っぽく光り、胸元の徽章は何度も貼り直した跡で縁が剥げかけていた。

「保護契約は標準条件だ。割愛はできない。代わりに我らの巡回、物資配分、外敵の監視。署名一つで安全を約束する」桐生は笑わない。笑わないけれど、その目は金の匂いを嗅ぎ分ける野良犬のように澪をちらりと見た。

澪はノートをめくる。ここで力ずくで突っぱねれば、団はたちまち圧力を強め、食糧や医療を止めるかもしれない。前世で危険現場の折衝を支えたときの記憶が、淡い景色となって湧いた。緊張の下、まずは「選択肢」を残すこと。彼らが自らの利得と、避難民の生存条件を天秤にかける余地を作ること──それが澪の基本戦術だった。

「桐生さん、今日の配給は三分の二で抑えます。代わりに巡回回数を減らすとか……」澪は提案を噛み砕いて差し出した。言葉は穏やかに、だが骨はある。周りの人々の視線が集まる。子供の袖を握る母親の指先は白く固まっている。

桐生は一瞬、眉を顰めた。やがて彼は紙に印鑑を押す仕草をしてから、わざとらしく首をかしげた。「その話、上の連中を通さないと。口約束じゃ意味がない。今日のところは署名してもらう。定められた形で──」

「定められた形って、誰が決めたんです?」相良が問い返す。声はかすれていた。

「上の者たちだ。国の再編とか、秩序のためとか。詳しいことはもう、みんなのためだよ」桐生は肩をすくめ、笑みを刷いた。それが虚しい笑顔であることは、澪にも分かった。だからこそ彼女は、声色を変えずに次の一手を紡いだ。

「選べるようにしましょう。今日署名するのは三分の一だけにして、保護の範囲を段階的に広げる。まずは医療、次に工事。署名は一回きりにせず、毎月の再確認を盛り込むよう、文言を変えることは可能です」澪は細かい条文の例を挙げ、桐生を牽制する。交渉の型が効くときは、必ず冷却期間が生まれる。

だが桐生は首を振った。「それじゃダメだ。騒動が起きれば我々の信頼も損なう。上が許さん。さあ、時間がない。避難区画の安全を考えるなら、今署名だ」

そのとき、遠くから鈍い轟音がした。地面が振動し、テントの中の金属缶がわずかに鳴る。人々のざわめきが大きくなった。澪は立ち上がり、視線を音の方へと向けた。

荷車が砂利を跳ねる音とともに、会場の外れにある未舗装の通りをゆっくりと進んで来た。一台の物資運搬車。帆布に「救援物資」と染めた粗末な文字。だが運転手の顔を見た瞬間、列の空気が凍った。運転手も荷役も、誰も彼もが引き攣った顔をしている。荷車の上に、黒い箱が縛られていた。箱には見慣れない金具と、薄い布で覆われた長い物が横たわっているのがわかる。

箱が開く音は、誰かの呟きのように柔らかかった。布が乱暴に剥がれ、薄い軋みが一瞬空気を切った。白い光が、夜の縁を切り裂いた。

剣は空に突き刺さった。正確に言えば、剣の白い炎が天を突いて、昼間のように広場を照らした。刃の部分は見えない。刃があることだけが、鋭い白の筋として空気に刻まれた。光はただ一点ではなく、広がり、群衆一人ひとりの顔に白いベールを纏わせた。誰もが目を細め、息を詰める。澪の舌先に金属の味が走った。空気は香炉の中の灰のような匂いと、雨の前の臭いを混ぜたものだった。

「な、なんだこれは……」相良が呟いた。母親の子供が叫び、何人かは膝をついた。桐生の顔色も変わった。だがそれ以上に、澪は頭の奥で何かが鳴るのを感じた。低く、規則正しい鼓動のような。彼女の体がそれに同調するのを、思わず止められなかった。

白い光は、澪の胸に触れる。触れられる、という言葉で済ませられないほど直接的で、まるで誰かに脇腹をつかまれるように強い。彼女は条件反射的に伸ばした手で、空間の一点を掴もうとした。指先が羽毛のような痛みを感じる。そこに、冷たさと熱さが同時にあるのだ。

記憶の欠片が滑り込んだ。前世の事故現場、燃える鉄の匂い、閉じ込められた声を拾う訓練。澪は交渉人としての本能で思考を整理し、すぐに「作戦」を組み立てはじめた。避難民を中央広場の下にある防空壕へ誘導し、桐生たちを手薄にし、荷車の側面を燃やして視線を逸らす。手順は鮮明だ。もしもその白い剣が「媒介」になれるのだとしたら──たった一度だけ、この作戦を「実現」してくれるかもしれない。

だが澪は知っていた。ルールは肌で感じた。白い光は誘いでもある。単独で踏み出せば――何かを失う。彼女の胸には警告のように冷たい痛みが走った。前世での代償の記憶が、断片として浮かぶ。感覚が薄れる。耳鳴りの後に来る静寂。あるいは、匂いの線が途切れること。交渉で頼りにしてきた五感が一本ずつ削がれていくのを、澪は知っていた。

誰かの声が右耳に届かなかった。左耳はかすかに風の音を伝えたが、右側は別世界のように切れている。澪は気づいた。選択は二つ。ここで単独で白炎剣に触れて作戦を実現するか、それとも仲間の合意を取るために一度引き下がるか。彼女の瞳の先、桐生はすでに何かを命じるように手を上げている。偽勇者団の若い隊士たちが、そろりと武器を手にしている。

「澪さん!」田島剛が叫んだ。彼は医療を担当していると言いながら、澪の隣に飛び込んできた。汗が額を伝う。彼の目は真剣だった。「やめろ。知らないまま触るんじゃない」

澪は一瞬ためらった。そのためらいが、自分の内側で何かを乱した。白い光が彼女の掌に引力を与え、皮膚を刺すような冷たさと熱さが同居している。彼女は深呼吸をし、ノートをぎゅっと握った。選択の瞬間、交渉人の習性が働く。意思決定を引き延ばして全員を巻き込めば、代償は違う。共同で合意を取れば、白炎剣の力は「共有された作戦だけを一度だけ実現する」働きをするはずだ。

だが、前の生活の癖が出た。澪は、先に動くことで人々を守ると信じていた。動かなければ、桐生が強硬に署名を押させるかもしれない。迷いの中、澪は足を踏み出した。木箱の破片を足元から蹴り飛ばし、白い剣の光の一本筋に手を伸ばした。

掌が光に触れた瞬間、世界は音を失った。右耳から鳴っていた田島の声は、厚底のガラス越しの遠吠えのように蹴られ、澪は一つの音を聞けなくなった。耳鳴りが羊の遠吠えのように残り、そこから先は白い海のように静かになった。指先に電気が走り、匂いは薄れていく。空気の味が消え、彼女の中の交渉の型が、ぼやけていく。

だが、同時に剣は澪の頭の中に計画を「挿入」した。彼女が組み立てた避難ルートが、五感を超えた形で周囲の者に届く。まるで誰かが彼女の口から出る前に、みんなの胸に一枚の図