水鏡甲の調律師と黒曜団

水鏡甲の調律師と黒曜団 第6話「第5章」

雨の匂いが夜を洗い流す。瓦礫の上、薄く光る水たまりに泡紋が揺れて、小さな鏡のように街灯を砕いていた。律は地面に膝をつき、冷たい泥を指先で掬った。指先に伝わるのは湿りと、まだ消えない微かな振動——鼓膜を貫く高い鳴りが、耳の奥で継続している。呼吸ごとに世界が少し遠くなる。視界の端で、通りの明かりが波を打った。

雨の匂いが夜を洗い流す。瓦礫の上、薄く光る水たまりに泡紋が揺れて、小さな鏡のように街灯を砕いていた。律は地面に膝をつき、冷たい泥を指先で掬った。指先に伝わるのは湿りと、まだ消えない微かな振動——鼓膜を貫く高い鳴りが、耳の奥で継続している。呼吸ごとに世界が少し遠くなる。視界の端で、通りの明かりが波を打った。

「律、聞こえてるか?」ミコトが膝をついて顔を覗き込む。彼女の声はいつもより近く感じられるはずなのに、律の耳にはシャワーの逆流のようにこもってしまう。言葉は届くが輪郭がぼやけ、母音が水に溶けているみたいだ。

律は右手を差し出してミコトの手を掴んだ。冷たい掌の感触が、まだ自分がここにいる証拠だった。「……大丈夫だ。胸は動く。視界が、──」律が言いかけた瞬間、視界の中央にきらりと裂け目が走った。まるでガラスが引き伸ばされるように、世界が縦に薄く裂け、周囲の光が泡紋の輪になって増幅した。痛みが目の奥を刺す。律は咄嗟に手で顔を覆った。指の隙間から見える水鏡甲の残痕が、まだ淡く波打っている。

「短調律を……無理に入れたな」ミコトの声に怒りと恐れが混ざる。彼女は律の肩を叩いて起こそうとする。律は力を振り絞って立ち上がると、背後のバリケードの方へ目を向けた。避難民たちが押し込められた小さな広場から子どものすすり泣きが聞こえる。音は断片的にしか入ってこないが、その断片が胸に刺さる。

あの夜、律は単独で短調律を差し込み、制圧づくりの時間を稼いだ。仲間たちと練った作戦ではなく、目の前の子供たちを守るという本能に任せた行為だった。水鏡甲を媒介に、味方と共有した作戦だけを一度だけ実現する──それが律の術式の本則だ。共有のないまま自らで潮目をねじ伏せれば、代償が術者へ跳ね返る。律はそれを知っていたが、選んだ。今、その代償が冷たい波となって返ってきた。

「ほら、あの男は生きてる」大河が静かに指差す。黒曜団の灰色の外套を引きずる男が、バリケードの向こうに立っていた。彼の肩は浅く抉られ、血で濡れた外套の端が揺れている。顔は泥と汗で汚れているが、そこには怒りだけでなく困惑の色が残る。律はその顔を見た瞬間、胸が締め付けられた。彼の目が、律の水鏡甲の残り香を探るようにこちらを見た。

その男がゆっくりと手を挙げた。威嚇でも命令でもない、白旗のような仕草だった。律は無意識に拳を握りしめた。耳鳴りが鋭くなる。ミコトが律の腕を掴んだ。「動かないで。話をさせる。こいつは……」

男は短い息を吐いた後、口を開いた。声は低く、涸れていて、雨の音に溶けてしまいそうだった。「俺の名は塞原(さいはら)。黒曜団の──徴収員だ。だが、きさまらを殴るつもりはねぇ。今夜は……上からの命令で来た。だが、上もまた困っている」

その言葉に、避難民の一人が小さく怒鳴った。「脅しに来ただけだろうが! 協定に署名しろって──」

塞原は首を振った。「そうだ、協定の用紙は持ってる。上は取立てを定期にするってさ。だが、その協定はここを守るためのものじゃない。上は、回収班を動かす。調律師の道具、鏡甲、それを回収して軍に差し出す。そうすりゃ上は安泰だ。だが、それじゃあ、お前らの選択が消える」

律の胸が冷たくなる。水鏡甲の残光が雨に溶けていく。彼が一度使った短調律の波紋は、ただ時間を稼ぐだけではなかった。律の術は、鏡甲のような痕跡を残す。回収班はその痕跡を辿ってくる。塞原の言葉は、次に何が来るかを示していた。

「回収班って……誰が来るんだ?」大河が問う。彼の声は震えていなかった。しかし律には問いが届かず、返答が掠れて流れた。

塞原は目を逸らした。雨粒が彼の頬を流れ、血と混ざって線を描く。「名前は知らんが、上はプロを雇う。調律師を狩るための連中をな。だが俺は──俺には家族がいる。上に逆らえば、家族が差し出される。そいつらを守るために、俺はここに来た」

避難民の一人がすすり泣き始めた。律はその声を拾おうとしたが、断片しか入らない。いらだったように律は舌打ちをした。耳鳴りが鍵山のように響き、世界がまた一度、びりりと歪む。目の前にいる者の言葉が時折フラッシュになって切り取られる。律は自分の手を見た。指先にはまだ水鏡甲のぬくもりが残っていて、冷たさと僅かな温度が混在している。

ミコトが塞原へ近づき、低い声で言った。「なら、あなたは今、私たちの敵ですか。家族のために私たちを脅すのか?」

塞原は一瞬ためらい、そして苦い笑みを浮かべた。「敵ってのは何だ。戦場じゃ俺も人を撃った。だが、今日ここで悩んでいるのは──上が人間の選択を奪うってことだけだ。俺はそれが嫌なんだ。だが、嫌だと言って家族が死ぬなら、そいつは選択じゃねぇ」

その言葉を聞いて、避難民の一角からざわめきが走った。数人が協定署名用の箱を持ってきた。用紙には、黒曜団の印章が押されている。署名すれば徴収は定期になるが、回収班はここへ来ない可能性が高い。一方で拒否すれば、回収班は鏡甲の痕跡を手がかりに動き、律やその身に属する道具を狙うだろう。それは──律自身が選び得る問題ではない。彼の能力は、仲間の合意を媒介にして初めて完全に作用するのだ。だがその合意を得るためには、住民一人ひとりの恐怖と希望を越えなければならない。

「あんたたち、どうするんだ?」ミコトが声を張った。彼女の目は険しく、手には応急処置用の布が握られている。律は視界の揺れに必死で集中し、ミコトの唇の動きを読むようにした。彼女は続ける。「ここで生きるって言うなら、あなたたち自身で決めて。誰かに被害を押しつけるための妥協なんて、私たちは望んでない」

一人の老人がゆっくりと前へ出た。折れかけた杖を頼りにしながら、彼の声はかすれていたが強かった。「俺はな、昔から人に頼るのは嫌いだ。だがな、孫がまだ小さい。あいつの未来を守るためなら、俺は妥協もする。だがな、その妥協が孫の選択まで奪うようなら、俺はそれを受け入れられん」

老人の言葉に、広場の空気が動いた。数人の顔が緩む。別の者は眉をひそめ、握っていた用紙をぎゅっと丸めた。人々の声が交錯し、律には断片的にしか聞こえないが、その温度は伝わってきた——恐れと希望の間で揺れる小さな炎。

律は無言で前に歩いた。視界は揺れているが、足は確かだった。大河が隣で腕を出す。律はその腕にしがみつきながら、ゆっくりと声を出した。「俺が……あいつらを止める。だが、もう同じやり方はしない。勝ち方を一つに独占しない。みんなが選べる仕組みを作る。協定でも、抵抗でも、選ぶのは皆だ」

言葉は震えていたが、広場に届いた。ミコトの目が驚きと安堵で揺れる。だが老人が首を振った。「それができるのか? 君の術は一度だけの共有だろう。誰もが納得する選択を作るには、その術が要るんじゃないのか?」

律は小さくうなずいた。彼の脳裏に、短調律を押し込んだあの瞬間の感触が蘇る。術式は味方と共有した作戦だけを実現する。だがそのためには、合意が必要だ。合意を無視すれば術は敵にも作用すると教わっている——それは、他者の意思を踏みにじった瞬間に計り知れない影響が出るという戒めだ。だから律は、今度は力任せに押し通すつもりはない。だがどうやって合意を取り付けるか