水鏡甲の調律師と黒曜団 第24話「第22章」
日差しが硬く、広場の空気を浅く切り裂いていた。金属の匂いと、群衆の湿った呼吸が混ざる。中央に据えられた装置は黒曜色の鏡面を持ち、低いうなり声を立てている。並んだ窓口の後ろに黒曜団の制服が無表情に立ち、窓越しに示された書類を指さすたび、列の中からため息が生まれた。
日差しが硬く、広場の空気を浅く切り裂いていた。金属の匂いと、群衆の湿った呼吸が混ざる。中央に据えられた装置は黒曜色の鏡面を持ち、低いうなり声を立てている。並んだ窓口の後ろに黒曜団の制服が無表情に立ち、窓越しに示された書類を指さすたび、列の中からため息が生まれた。
「次の方、次の方―」
受付の声は機械のように冷たく響く。列の端、母親が肩でぐっと息をつめ、幼児の頬を指で押さえていた。子どもは小さな手で母の裾をぎゅっと掴んでいる。母親の瞳は、何度もその装置の黒い円盤を見た後で、諦めと決意が混じった色になっていた。
律は広場の外側に立ち、水鏡甲を左腕にかけたまま群衆を観ていた。水鏡甲の表面は薄い水の膜のように生きていた。外界の光を取り込み、そこに人々の顔を映す。映り込みはいつも律を迷わせた——他者の表情が自分の胸に波紋を立てる。
「律、来てくれないか?」と旧友の紬が手招いた。紬は紺のマントに小さなバッジを付け、周囲に説得の声を掛けている。彼女の声には通常の折衝だけでなく、個人の痛みに寄り添う柔らかさがあった。
だが視界の端で、古い男が列に並ぼうとしているのを見た瞬間、律の胸に熱が走った。男は前に進む足取りが速く、手には古ぼけた紙袋。彼の目はどこか遠くを見ていた。黒曜団の受付が紙袋を受け取ると、男はためらわずに装置の前に立った。観衆が息を呑む。
律の指が水鏡甲の縁を押した。冷たい感触が皮膚を伝い、膜の中で――人々の顔がいくつも重なって揺れる。もし今、俺が一人で決めてこの波を起こせば、状況をまとめて押し留められるかもしれない。だがその代償は――
「律!やめて!」紬の声が割り込む。
彼女の顔に浮かんだ焦りは本物だった。隣の航が律の肩をつかみ引っ張る。航の手は冷たく、指の力は現実を持っていた。律は一瞬、掌の中で全てを実行する触手を探した。水鏡甲に触れれば、調律は可能だ。水鏡甲は媒介する。仲間と“共有された作戦”を一度だけ、完全な形で現実にする力。だが、条件があった。合意の波が不在のままで起動すれば、その波は周囲の意思を無視して作用し、場合によっては敵対者にも働く。さらに、単独使用は反動として感覚の一部を奪う。
律が膜に触れた瞬間、周囲の音がふっと遠のいた。遠くの呼び声が綿に包まれていく。それは目の前で起きている出来事を遠ざける祈りのようで、同時に恐怖だった。彼は自分の右耳がぼんやりとしていくのを感じる。音が消えると心の奥底にぽっかりと穴が空く。過去の夜の静けさと同じ感触。指先が震えた。
「律!」航がさらに強く引く。紬がその腕を掴み、目を真っ直ぐに合わせる。「一人で決めるな。彼らは、されるがままにされた『被保護者』じゃない。説得しよう。話し合わせるんだ。あなたの力を『押し付け』に使うな!」
律の頭の中で、波が二つに分かれた。ひとつは迅速で確実に皆を装置から遠ざけられる解。もうひとつは薄くて不確かな、人々自身の手による選択。胸の奥で鼓動が速くなる。耳鳴りがさらに強くなった。彼は水鏡甲から手を離す。
その瞬間、装置前で登録手続きが進んだ。黒曜団の職員がボタンを押し、古い男がうなだれながら受け付けを終えた。群衆の中から小さなすすり泣きがあがる。誰かが「どうして…」と呟いた。
「彼はもう長くないんだ、きっと」と背後から聞こえる女性の声。女性は灰色の帽子を深く被り、目を赤くしていた。彼女の言葉には諦めと共に、一筋の理性があった。「でも、それは彼の選択だった。私達の説得で揺らぐものじゃない。」
紬は低く息を吐き、近くの集会用スピーカーをつかんだ。彼女は自分の体温を人々に差し出すように話し始める。言葉は鋭くなく柔らかかった。航は紙片を配り、登録の経緯や、装置がもたらす代償について事実関係を掲げる。叶は小さな箱から包帯と薬を取り出し、待合の人々に手渡していた。彼らは誰かに言われたわけではない。自分たちで動いている。
ある母親が前に出て、声を震わせながら隣の列に近づく。「お願い、うちの子と一緒に…」彼女は古い男の隣に立ち、その背に手を置いた。男は振り向きもしない。母親の手が震える。だがその触れ合いは、氷河の縁に立つように確かな何かを変えた。
水鏡甲の表面に、群衆の表情が一つずつ映る。表面に映る顔は静かに波打ち、やがて同調する。だがそれは律の意識で作る同調ではなく、ここにいる人々自身が互いの表情を見て、言葉を交わし、合意を紡いでいく様子だった。小さな合意が重なり、広がっていく。水鏡甲はただそれを写しているだけの鏡だ。律はその事実を噛み締めた。
しかし同時に、列の端で別の動きがあった。黒曜団の中佐が無線機を叩き、周辺に配置された小さな機械がスイッチの光を点滅させる。技術者の一人が携帯端末を覗き込み、眉を寄せた。律はそれに気づいた。何かが意図的に進行している。誰かが「最終段取り」を始めようとしている。
「最終段取りって…?」紬が言う。顔の血色が変わった。人々の説得の波が成長する一方で、官僚的な手順が装置を即座に活性化させ得る時間稼ぎをしている。律は頬を伝う汗の冷たさを感じた。水鏡甲のふちが、かすかに熱を帯びている。
その時だった。装置横の端末パネルに小さな光が点き、操作員の指が誤ってではなく、ゆっくりと画面を滑らせる。彼らの視線が一斉に装置へ集まり、現場の空気が凍った。古い男が装置の前で定位置に立つ。誰かが「始める」と囁く。
律の中に、使わざるを得ない衝動が再び湧き上がる。もし合意が形成される前に装置が作動すれば、登録は完了し、その人々の選択の余地は奪われてしまうだろう。水鏡甲を媒介にして、仲間と共有された作戦だけを一度だけ現実にすれば止められる。だが今、仲間の合意はまだ全員に行き渡っていない。律が単独で起動すれば、反動として聴覚の一部を失うだろう。失ったものはある意味で彼の世界を狭める。――だが、もし成功すれば、何十人の選択が救われる。
紬の手が律の腕を掴んで離さなかった。彼女の目は泣いていたが、声には揺れがない。「お願い、律。これを奪わないで。私たちがやる。あなたはそのままでいて。俺たちは…自分で選ぶんだ、ここで。」
広場の隅で、子どもたちが寄り添っている。誰もが息を詰め、時間が薄く引き伸ばされる。律はふと、水鏡甲の表面に映る自分の顔を見た。映り込みに、ほんの一瞬だけ、装置とは別のものが浮かんだ。薄い影が、黒曜団の紋章のように見えた。だがその影は、ただの影ではない。律はその膜の中に、見たことのない誰かの手を見た。手が何かを書き込み、別の文字列が装置に送られているように見える。
それは新しい事実だった。黒曜団は単に管理する機構だけではない。彼らは、同種の媒介を用いてこの装置と外部の“甲”を同期させようとしている。つまり、もし装置が起動すれば、水鏡甲が周囲の誰かと自動的にリンクし、選ばれた「合意」を外部から強制する可能性がある。被保護者の意志を取り戻すための合意さえも、外部で乗っ取られる危険がある。
紬が律の目の奥を覗き込み、低く息を呑んだ。「律、あれを見たか?」
「見た」律は喉を鳴らした。耳鳴りが、まだ残っている。彼の右耳は部分的に遠ざかっていたが、紬の言葉は心に届いた。仲間が