水鏡甲の調律師と黒曜団

水鏡甲の調律師と黒曜団 第2話「第1章」

夜の避難所は、市場の残照みたいにざわついていた。ブルーシートの屋根に雨の跡が点々と残り、ランタンの光が揺れる。人々は列を作り、毛布を体にまといながら補給物資を待っている。そんな列の端で、黒い制服に黒曜の腕章を光らせた男たちがひとつの大きな箱を抱えて進んでいた。箱には薬と粉ミルク、暖かい缶詰がぎっしり詰まっている。持ち主の名前を書いた小さな紙は強引に破られ、男たちは無言でそれを車に積んでいく。

夜の避難所は、市場の残照みたいにざわついていた。ブルーシートの屋根に雨の跡が点々と残り、ランタンの光が揺れる。人々は列を作り、毛布を体にまといながら補給物資を待っている。そんな列の端で、黒い制服に黒曜の腕章を光らせた男たちがひとつの大きな箱を抱えて進んでいた。箱には薬と粉ミルク、暖かい缶詰がぎっしり詰まっている。持ち主の名前を書いた小さな紙は強引に破られ、男たちは無言でそれを車に積んでいく。

「これは…」隣にいたサカが顔をしかめる。元交渉人らしく、目は事の筋道を追っていたが、今は声が震えていた。護衛のケイは立ち上がる。筋肉の張った腕で棒切れを握りしめている。技師のミオは発電機に手をかけ、いつでも作動を止められるように指をかけたままだった。

律はその場から一歩も動かなかった。胸元で冷たく脈打つのは、水鏡甲──小さな楕円の器具だ。外見は金属の縁に収まった鏡のようだが、中身は凪いだ水のように静かで、空の色を映すとそこに重なるはずのものが透けて見える。見た目は美しいが、律の仕事では危険な道具だった。調律師はそれで「合意」を取り、味方にひとつの作戦を一度だけ実現させる。条件と代償がある。仲間の合意がなければ、効果は敵にも及ぶ。単独で使えば、反動で感覚の一部を失う。

箱から一つだけ、母親が抱えた布の端が見えた。小さな子の靴がのぞいた。律の胸が硬く絞られる。声が出なかった。サカがこちらを見て、何かを言いかける。律は指先で水鏡甲の縁に触れた。冷たい。指先の振動が、胸の中の記憶を撫でる。前世の現場の匂い、機械の金属音、そして何度も頼られた手の重さ。だが今は、目の前の子供が泣き出す寸前だった。

「短い調律だ。位置だけ共有する」律は低く言った。口に出すのは自分に対する言葉でもあった。仲間の同意を取る時間はない。列の隙間から助けを差し込めるのは、一瞬の混乱だけだ。

水鏡甲に指の節を押し当てる。律は息を整え、喉の奥で小さく音を鳴らした。調律は音と触感を合わせる行為だ。律の唇の形に合わせて器具の水面が震える。波紋が生まれると、鏡の表面にぼんやりと輪郭が浮かんだ。仲間の輪郭だ。ミオは発電機の位置、ケイは列の陰、サカは子の母の横にいる。輪郭は水の上に薄く重なり、まるで仲間たちの影が一枚の水面に映ったようだった。

だが、合意は得ていない。律は分かっている。手を震わせながらなお、調律を続ける。短く、可能な限り小さく。

効果は来た。ミオの手が一瞬震え、彼女の耳元に小さな音の帯が差し込むように、仲間の位置が直感として入った。ケイは突如として列の隙間の空気の流れを感じ取り、体を翻して隠れた。サカは相手の視線を読み、笑みを作って前に出た。三人の動きが合わさったとき、箱を抱えた一人が一瞬よそ見をした。ミオはその隙に小型の工具を投げ、発電機から小さな火花を散らす。人々の注意がそこへ向く。

だが同時に、水鏡甲の表面にもう一つの像が重なった。黒い制服の男の顔が、微かに水面に映り、反射として輪郭と重なった。律の指先から冷えが走る。合意を取っていないからだ。能力は、無差別の接続を作る。律の短い調律は、友の位置を与えると同時に、敵の視界にも何かを差し込んだのかもしれない。箱を抱えた男が顔を上げ、目を鋭く律の方に向けた。彼の視線は、まるで水面に映されたものを追うようだった。

その瞬間、律の左耳から音の色が抜け落ちた。世界の輪郭は変わらないが、音の層が一枚剥がれたように消えた。風のざわめき、遠くで笑う子供の声、ランタンの中の燃える音。すべてが薄く、遠くなる。左側から入ってくるはずの低い振動が、まるで画面の色だけが消えたみたいに消え失せる。律はその場で片足を踏み外し、肩に手を当てた。

「律!」ミオが駆け寄る。しかしミオの顔もまた、驚きと怒りが混じっていた。「勝手に使わないって言っただろ! 合意なしで!」

サカはその間に男たちの視線をそらすために声を張る。ケイは護身用の棒を高く持ち、列の方へ体を振った。人々のざわめきが大きくなる。箱のうち何個かは棚から落ち、缶の音が夜に軽く跳ねた。

律はゆっくりと水鏡甲を胸元に引き寄せた。水面は穏やかに戻り、仲間の輪郭は消えていく。指先に残った冷たさが、耳の奥の抜けた感覚に火を取り戻すことはなく、律は言葉を探した。言葉はついて来ない。目の前でサカが交渉を続ける。一人の黒曜団の男──腕章に刻まれた小さな黒曜石の紋章がランタンの光を拾って光った──が律をじっと見つめ返す。彼の表情は、仕事を成すことに慣れ切っていて、慈悲の色はない。

「あなたたち、ここに関わらない方がいい」その男の声は冷たいが、場を支配するには十分だった。「黒曜団の指示だ。必要な物資はすべて回収する。ここで何かを起こせば、避難所全体が対象になる」

サカが一歩前に出る。だが律はその言葉を聞き取るのが難しかった。右耳からの声は届くが、全体の音像が欠けている。子供のすすり泣きだけは、刺すように耳に残る。律は手の震えを抑え、もう一度器具に触れたくなる自分を押し止めた。反動は怖い。だが、あの箱の中には、今夜を生き延びるための薬がある。合意を取る間の時間、逃げる余裕はなかった。

ミオが律の腕を掴む。「次は相談だ。独りで救おうなんて思うな。もし一人で使ったら、もっと大事なものを失うわよ」

ケイは低く唸った。「それでも、あの箱を全部渡すわけにはいかない。次がある。黒曜団はここだけじゃない」

サカは腕章の男の前で一礼に近い姿勢を作り、いつもの訓練で磨いた口調で言った。「困ったことになる前に、話し合いで済ましましょう。私たちにも住民の命があります」

男はしばらく黙った。律は胸の中で水鏡甲が微かに温まるのを感じた。それは器具がまだ彼女の調律を待っている合図なのかもしれない。だが今は時間がない。男の仲間が携帯灯を律の方に向け、彼女の顔を露わにした。律の左側の髪が少し乱れ、耳元が翳った。

「我々は選択の自由なんて与えられない」黒曜団の腕章の男が呟いたように聞こえた。彼の言葉に、避難所の空気がぎゅっと詰まった。人々の背中に冷たい影が落ちる。

律は水鏡甲に触れたまま、選んだ。使えばさらに多くを共有できるかもしれない。だが代償は大きい。合意を取れるかもしれない時間は、もうほとんど残っていない。周りの誰もが、次にどうするかを律に託したわけではない。サカは交渉を続け、ミオは工具を握りしめ、ケイは出口を睨む。だが、箱の中の小さな靴が誰のものかは、誰にも分からない。

律は一度、息を吸った。左耳の中で色の抜けた風が冷たく吹き抜ける。水鏡甲の水面が月光を受けてわずかに揺れる。合意を得るか、引くか。避難所を守るために、自分がどこまで賭けられるのか。

そのとき、腕章の男がふと顔を近づけ、律の胸元の器具を見て、舌打ちしたようにぽつりと言った。「それは……見たことがある形だな。黒曜団が目をつけているものの一つだ」彼の声に含まれた意味は重く、律の背筋を冷たくした。

その告白が、次に取るべき行動を突きつけた。もし黒曜団がその器具を知っているというなら、ただの徴収では終わらない。律は指先を器具の縁に回し、決断の重さを感じた。次に口を開くのは自分だ。次の一手で、仲間が動く