水鏡甲の調律師と黒曜団 第18話「第16章」
水面が薄氷のように張った運河沿い、ランタンの橙色が静かに揺れていた。羅紗の毛布を繰り寄せた住民たちの影が、水面の上で長く、なまめかしく伸びる。律は、足元の縁石に腰を下ろし、懐中の布で右耳の周りを軽くさすった。そこにはいつもと違う空洞がある。高い金属音や子供の声の細かな「サ行」が遠ざかっていくのを感じながら、彼は息をついた。
水面が薄氷のように張った運河沿い、ランタンの橙色が静かに揺れていた。羅紗の毛布を繰り寄せた住民たちの影が、水面の上で長く、なまめかしく伸びる。律は、足元の縁石に腰を下ろし、懐中の布で右耳の周りを軽くさすった。そこにはいつもと違う空洞がある。高い金属音や子供の声の細かな「サ行」が遠ざかっていくのを感じながら、彼は息をついた。
「まだ行けますか、律さん?」
沙耶が、ランタンを胸の高さに掲げて振り返る。風に揺れる光が彼女のまぶたに一瞬キラリと映った。律は頷いた。返答ははっきりしていなかった。言葉が耳をスルリと通り抜け、腹の奥で反応してしまう。聞きたい音が聞こえない。代わりに目の前のものがくっきりと、過剰に鮮明に見える。
「私は——大丈夫。座標は合ってる。蓮、向こうの桟橋を押さえて」
蓮は無言でうなずき、夜の群衆の中へ消える。彼の動きは確信に満ちていた。律はその背中を見送りながら、自分の決断を反芻する。今夜の自治プログラムの投票は一時間後。住民たちは初めて、灯りの下で手を挙げ、声を上げ、互いの意思を示そうとしている。黒曜団は、その「選択する力」を潰そうと動いた。彼らの介入は小規模だが、狙いは明確だ。恐怖で議論を止めさせ、強制で決着をつけさせる。
「律、聞こえてるか?」
声は近い。律は振り向く。市原代表が、震える手でランタンを抱えていた。彼女の口から出る言葉は欠けて、律の耳に届くのは母音だけだった。「……あなたが、全部やってくれれば、みんな安全に——」
「全部、というのは?」
律はぶっきらぼうに返した。痛みを伴うからだではない。選択を奪うことの重みを知っているからだ。水鏡甲は、彼が前世で支えた危険現場で磨かれた能力の残滓だった。水鏡は、共有された作戦――仲間たちが意志を合わせて描いた図――を媒介し、物理的な『実現』へと一度だけ変える。だがそれには条件がある。仲間の合意がなければ、鏡は狂い、受け手を問わずに作用を落とす。さらに、律が単独でそれを行使すれば、身体は代価として何かを失う。最初は数分の耳鳴り、次は高音域の欠落。何度も繰り返せば、感覚は戻らない。
市原は目を潤ませる。「私たち市民は、今も怖い。でも……でも、あなたが一度で終わらせてくれたら——」
「それは違う」と律は言った。彼の声の末端が欠け、はっきりとは聴こえない代わりに、彼の表情は固かった。「あなたたちの選択を奪うことは、――私が守るってこととは違う。君たちが選ぶ瞬間を、私は守る側でありたい。決めるのは市民の側だ。」
市原は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。背後で、子どもたちが寝息を立てる音が水面へと零れる。律は自分の口元に指を当て、無言で蓮と沙耶を見た。二人はすぐさま近づき、隣に立つ。これは「共有しない」ことを軸にした防衛だ。完全な作戦を一度で片づけるのではなく、合意形成を優先する代わりに、仲間の自律で防衛線を張る施策だ。
黒曜団の接近は静かだった。鉄製の船体が波間を忍び寄せると、水面は小さな爪痕を残して光を裂いた。敵は遮断薬や催涙を用いるかもしれない。だが今彼らが突き出してきたのは、もっと下品な手口だった。小舟の側面に二人の影が立った。彼らは白っぽい包帯で顔を半分隠し、細い箱を手渡している。箱の中からは小さな箱が飛び出し、羽根のような金属片が薄く光を帯びた。
「同意の模造具か」蓮が低く呟く。蓮は元傭兵の顔をしていた。彼の目は狩人のように険しく光る。「票をかき集める奴らだ。偽の賛成印を押して回るつもりだな。見つけたら容赦するな」
沙耶が小さく船首に口笛を吹いた。それが合図になって、住民の列から軽やかな物音が立ち上る。縄梯子のように人が繋がり、短い、防御の輪が速やかに形成される。ランタンは手から手へ受け渡され、人々は遠い位置へと移動していく。律はその連なりを目で追った。光がすべての顔を平等に照らす。投票所のように整然とした不器用さが、逆に美しく見えた。
黒曜団の小舟が岸に近づく。彼らは投票箱を抱えたふりをして、住民の会話に割り込むつもりだった。だが住民たちは事前に声合わせをしていた。合図が出れば、すべてのランタンを同時に水面へ落とす。水面が一斉に破れ、夜の鏡が波紋を描く。波紋は反射を乱し、光の矢じりとなって相手を惑わせる。それは古くから伝わる町の知恵を応用したものだった。律は口を開こうとしたが、自分の話は必要なかった。
「今だ」沙耶の指先が短く動いた。全員が同時にランタンを沈めた。
水面が破れる音は、律には完璧には届かなかった。代わりに、光が一斉に消え、顔が蒼白になる様子が視界に鋭く刻まれた。小舟の上で黒曜団の顔色が変わるのが見える。彼らは岸に跳ね返される波しぶきを浴び、器具のひとつが水に滑り落ちた。蓮が飛び出し、波間に手を延ばしてそれを掴む。鉄の冷たさが彼の指に伝わる。人々の足は不安定な岩場で滑るが、誰も倒れなかった。連携はうまくいった。
敵はそこで引き下がらなかった。散発的な火炎瓶や小型の煙弾が投げ込まれる。息の詰まる匂い、アルコールの臭いが夜の空気に濃く混じる。誰かが叫ぶが、その言葉は律にとっては輪郭のない衣擦れのようにしか届かない。彼は深く息を吸い、視界の縁で起こる全ての動きを拾おうとした。触覚が研ぎ澄まされる。体の重心、服の擦れる音、木の板の軋み。これらだけが、彼の新しい「会話」になった。
律は一度だけ、水鏡甲に手を伸ばした。甲は薄い液体の層のように撓み、ランタンの灯りを受けて細かな光の鱗を作る。しかし彼は鍔迫り合いの直前で手を止めた。水鏡は、彼が一人で作動させれば、確実に作戦を完遂させる。その代価として彼は聴覚の一部を永遠に失う。さらに、もし仲間の本当の合意がないまま彼が一方的に「共有」を謳えば、その作用は味方だけでなく敵にも等しく降りかかる。彼はその危険を目の当たりにしたことがあった。敵もまた、合意の偽造を行う。そうなれば、水鏡は誰の意図を反映するのか判然としない。最悪の場合、彼が与えようとした「守り」は、逆に住民を縛る道具になる。
「律!」誰かが叫んだ。だが彼は返事を返すより、手を下に置いた。冷たい石の縁を触れて、彼は自分の手の震えを確かめた。触覚が強まった分、心得違いの間違いは許されない。
防衛線は、完全ではなかったが機能した。黒曜団の小舟は二艘を失い、残る者たちはいったん退いた。煙が薄れていくと、ランタンが水面に戻され、弱い光がふたたび群衆の顔を照らした。誰もが安堵のため息をつき、子供たちが布団からむくりと起き上がった。律は、その光の揺れを長く見つめた。水面に並んだ小さな灯籠が、まるで点々と並んだ眼のように見える。人々の影がゆらりと揺れ、まるで水面そのものが呼吸しているかのようだった。
だが勝利の後、律は自分の耳に変化があることを確信した。高い音の輪郭が細く、細くなっている。沙耶が隣で笑ったとき、その笑い声は簾の上から漏れる低い風のようにしか感じなかった。律は膝に手を置き、指先で耳の内側を圧した。そこには、痛みのようなものがあった。彼は思い出す。前世での一度の“完全共有”の代償を。耳鳴りが、今は常に残っている。消えたり襲ってきたりする。だが今回のそれは、以前より根深い。何かが定