水鏡甲の調律師と黒曜団

水鏡甲の調律師と黒曜団 第15話「第13章」

雨は細く、長く降り続いていた。プレハブの天井に打ちつける音が、薄い波紋になる。律はテーブルに置かれた水鏡甲の小さな板を指先でなぞった。冷たく、ほんの少ししなやかで、鏡面は漆のように黒く光る。指先に触れるたびに、板の表面が微かな波を描き、隣で眠るナツキの顔を一枚の皿のように映し出した。皿の縁に沿って、ナツキのまつげが薄く揺れる。

雨は細く、長く降り続いていた。プレハブの天井に打ちつける音が、薄い波紋になる。律はテーブルに置かれた水鏡甲の小さな板を指先でなぞった。冷たく、ほんの少ししなやかで、鏡面は漆のように黒く光る。指先に触れるたびに、板の表面が微かな波を描き、隣で眠るナツキの顔を一枚の皿のように映し出した。皿の縁に沿って、ナツキのまつげが薄く揺れる。

「まだ寝てるか」

ミオが声を潜めて包帯を巻く手を止め、薄明かりの下で肩越しにナツキを見た。ケイは入口の方を見張り、雨の切れ間から外の影を伺っている。三人の息遣いと雨音だけが、狭い部屋を満たしていた。

ナツキは寝言のように、掠れた声で呟いた。「従え……従えば楽になるよ……」

その言葉に、律の胸がきゅうと締め付けられる。拘束の残滓が、まだ皮膚の下で疼いているようだった。水鏡甲は、ただ映すだけではない。律はそれを知っている。だが今、どう動くべきかを考えると、手が固まる。

「律、君がやるのか?」ケイが低く言った。声に怒りはない。むしろ、冷たい計算の色が混じる。

律は鏡板をテーブルに押し付けるように置き、息を吐いた。映るナツキの顔は、薄い皿に乗った果実のように見える。唇が震え、目はまたたきしている。律は口を開いた。

「できます。けど——」

言葉にならない条件がいくつも、空気に漂う。水鏡甲を媒介にした“調律”は、一度だけ、仲間と合意した作戦を“共有”して現実へと立ち上がらせる。仲間の了承がないまま強行すれば、その作用は敵にも向かうことがある。単独で引き出せば、身体の一部の感覚が代償として失われる。律はその代償を、まだ完全には受け入れられなかった。

「合意を取らなきゃいけないんだろう?」ミオが言う。「でも、ナツキ本人は今、決められない。洗脳の残響で恐怖に流されるかもしれない」

「だからこそ、無理強いはできない」律は答える。「他人の意思を奪ってまで救ったって、それは守ることにならない。奴らと同じ手口になるだけだ」

ケイは腕を組んだまま、目だけが冷たく光った。彼は手首の端末を操作していた。小さな表示が律の視界に跳ね上がる。ナツキの腕の皮膚下に埋められた端子の振幅が、規則正しく点滅している。薄青い灯りが、まるで鼓動のように部屋の空気を刻んだ。

「再同期のタイミングが近い。五時間と少しだ」ケイの声は平坦だった。短い数字が、全員の胸に冷えた石を落とした。

五時間。時間は残酷に短い。黒曜団の同期実験は、植えつけたノードを通じて対象を一斉に結び、意思を外部から付与する。ナツキが完全に目を奪われる前に、律たちは何かをしなければならない。それが「合意を得た共有」か、「単独での強行」か——選択肢は薄く、刃のように鋭い。

ナツキが薄く目を開け、律に向かって小さく首を動かした。瞳の奥に、小さな迷いが浮かんでいる。律は膝を折り、彼女の顔と同じ高さに身を寄せた。

「ナツキ、君の意思がいる。僕は君を守りたい。だけど、君が望まないやり方はしたくないんだ。自分で選んでくれ。少しでいい、合図をくれ」

ナツキはぐらりと視線を泳がせ、喉を鳴らした。「怖い……でも、律が……」

「僕は君の意思を奪わない。だから、時間がある。僕らで方法を探そう」

律はそう言って、手の中の水鏡甲を起こした。板の縁に、ナツキの顔が拡がる。皿のように浅いその鏡面が、部屋の灯りを反射して、微かな輪郭を作る。律はそっと板の角を指で叩いた。軽い音が、鏡面から広がる。

試したいことが一つあった。完全な調律ではない。単独使用の代償を実感するための、短い検査だ。部屋の隅に転がっている古い無線機を使えば、外部への影響がどの程度か、手短に確かめられる。律は頭の中で数を数え、軽く息を吸った。

「僕、ちょっと試すだけ」律はミオとケイに向かって言った。二人は黙って頷いた。ナツキはまだ半分眠ったままだった。

律は板に手をかけ、水鏡甲の感触を確かめる。合意の言葉はない。だからこれは“調律”ではなく、単なる触媒の検証に過ぎない——と自分に言い聞かせた。掌の熱が鏡面を伝わり、冷たい波が身体を返ってきた。水鏡甲の表面に、微かな渦が走る。

彼が意識していたのは、効果の範囲だ。短い波紋を無線機に押し付けるように板を向けると、古い機械のランプが一瞬だけ強く光った。隣のモニターに敷いてあった廃棄された監視端末が、同じように反応した。律はそれを見て、胸が寒くなった。無差別に発信が伝播した。

「やっぱり——」ミオが息を漏らした。声は震えている。

「単独じゃ、範囲が制御できない。同期の網に引っかかる可能性がある」ケイが言う。彼は端末の表示を睨んでいた。「敵の装置にも反応が出たら、向こうはそれをトリガーにしてくる。強行したら、ナツキだけじゃ済まない」

律の耳に、じんと鈍い湿りが広がった。味覚の端が、ほんの少し麻痺したような気がした。口中にあったはずの茶の渋みが、急に遠い。ほんの一瞬の痛みが、感覚の一部を濁らせたように思える。そのことに、律は驚いて手を止めた。代償の冷たさが、現実味を伴って押し寄せる。

「——わかった」律は板をテーブルに戻し、深く息を吐いた。五時間の重さが再び、胸を押した。「僕は単独で触らない。例えそれで時間を失っても、強制はしない」

ミオが膝を抱え、しばらく黙った後で顔を上げた。「じゃあどうする? ケイ、何か連絡は?」

ケイは端末を操作して、小さな地図と表示を律に見せた。黒曜団の施設の分布、同期実験の過去ログ、そして「区画七」の名が赤く点滅している。そこには、数日前から「人員の移動」とだけ記録された空白の署名がある。

「区画七。奴らは次の『大規模同期』を、そっちで試すつもりだ。ナツキの個体はその中の一つにリンクされている。つまり、もし集団を抑えられたら、逃げ場はなくなる」ケイの指が地図の一点を突いた。

ミオの口が固く結ばれた。「でも、僕らだけで止められるの? 集団の合意をどうやって作るの?」

律は鏡板を見つめ、映る自分の目を探した。夜の灯りに映る黒い瞳は、少しだけ揺れている。彼の心のなかで、ある決意が固まっていくのが分かった。合意を取る方法は、強制ではない。だが時間はない。だからこそ、仲間たちの自律した行動が必要だ。

「僕は、水鏡甲を使わずにやれることを探す。医師や技術者を当たって、外科的に摘出できないか聞く。合意が得られれば、僕らで共有して調律をかけられるかもしれない」律は言った。「ミオ、君はナツキと一緒にいてくれ。話をしてほしい。強制じゃない、ゆっくりでいい。ケイ——」

ケイの目が少し柔らいだ。「俺は外に出る。裏通りのあの場所だ。黒曜団の中にも、方法に疑問を持っている者がいる。接触できるかもしれない。だが、失敗すれば敵の耳に触れる。俺の選択だ」

ミオはすぐに立ち上がり、ナツキの手を握った。ナツキが小さく目を開け、律を見た。涙の跡が乾かない頬に、微かな安堵が差し込む。

「待ってて、ナツキ。黙って進めたりしない」ミオが言う。声は震えていたが確かだった。

ケイは外套の兜を深く被り、ドアに手をかけた。「時間は五時間だ。俺は二時間で戻る。約束はできないが、やれるだけやる」

ドアが静かに閉まると、室内に戻るのは