深海槍の修理師と天井評議会 第2話「第1章」
鋼鉄の塔が、夕暮れの水面に針のような影を落としていた。狭い運河は人の額ほどの幅しかなく、波紋は低く、規則正しく波立つ。鉄の足場を伝う足音と、遠くで報告をやり取りする端末の電子音──それだけが、避難区「水塔区」を包む沈黙を切り裂いていた。住民たちは足元の合板にへばりつき、子どもは母親の胸に顔を埋め、男たちは無言で空を見上げていた。空を覆うのは査察隊の軽装機甲と、塔のてっぺんに付いた小さな監視ユニットだ。通告の三分の表示が、さらに近くで点滅している。
鋼鉄の塔が、夕暮れの水面に針のような影を落としていた。狭い運河は人の額ほどの幅しかなく、波紋は低く、規則正しく波立つ。鉄の足場を伝う足音と、遠くで報告をやり取りする端末の電子音──それだけが、避難区「水塔区」を包む沈黙を切り裂いていた。住民たちは足元の合板にへばりつき、子どもは母親の胸に顔を埋め、男たちは無言で空を見上げていた。空を覆うのは査察隊の軽装機甲と、塔のてっぺんに付いた小さな監視ユニットだ。通告の三分の表示が、さらに近くで点滅している。
レンは深海槍を背にして、運河の端に立っていた。槍は長く、濃い藍色の金属を中心に、表面に海底の採取器具のような突起が並んでいる。夕陽を受けて刃端は青白く光り、その反射が通路に並ぶ人々の表情を冷たく照らした。触れると冷たい。握り直した掌に、わずかな潮の匂いが滲む。
「査察だ。強制移送。三十分後、移送開始──」
端末の声が淡々と告げる。レンは視線を巡らせた。屋根に寄り添っている老夫婦、合板の下で震える子ども、荷車に一抱えの荷物を積んでいる若者。彼らには逃げ場がない。水塔区は外から孤立している。塔の鉄骨が囲う輪は、物理的な柵だけではなく、制度的な圧力の網でもあった。
「レン、ここで何をするつもりだ」ユラが言った。黒髪を後ろで束ね、眼差しはいつも冷静だが、今はわずかに震えている。レンとユラは、合板の端で背中を合わせるように立っていた。ユラの手には医療キットがある。背後にはカイがいて、彼の表情は憤りで固まっていた。カイは拳で鉄柵を叩き、金属の低い音が波紋と混ざる。
「守る」レンはそれだけ言った。言葉に重さを込めると、深海槍がわずかに振れて、青い光の粒が水面を走った。
「守るって、どうやって? 正面切って対抗するつもりか?」カイの声には苛立ちがあった。彼は生存の現実を見据える男だ。戦うために斧を持つより、偽造の身分証を作る方が確率は高いと計算する。移送リストに載らないこと、目立たないこと。そうすれば生き残る可能性は上がる。
「正面じゃない」レンは背負っている槍の柄を少し押し、握り手の感触を確かめた。「深海槍を使う。ここにいる人たちを、一度だけ、違う場所へ──安全な隙間を作る」
ユラが眉を寄せる。「レン、それは──」
「一度きりだね」カイが遮った。「そんな道具、あんた一人の判断で使えるのか? うちの三人でさえ同意しなきゃ駄目だって、前に言ってただろ」
レンの肩が小さく震えた。口元に、誰にも見せない古い痕がある。彼は昔、深海槍を独りで扱って代償を払ったときの記憶を、胸の奥で抑えようとした。それは皮膚が痺れるような痛みと、世界の輪郭が一瞬溶けるような感覚だった。だが今、止める余裕はない。
「条件は知ってる。仲間と共有した作戦だけを、槍は一度だけ現実にする。合意がなければ、効果は制御されない。単独で使えば、反動で感覚の一部を失う。──それでも、選択肢があるなら、試す価値はある」
ユラが低く吐いた。「誰のための選択なんだ、レン。あなたのため? 住民のため?」
レンは周囲を見る。住民たちの目がこちらに集まる。老婦人の指先が合板の断面に食い込み、爪に白い線が走っていた。子どもはレンを見上げる。選択は、すでにレンの内側で重くなっていた。
「君たちの判断を聞きたい」レンは言った。「槍は一度だけ。僕は、その代償を払う。だけど、使い方は僕一人のものじゃない。君たちが同意しなければ、槍は敵にも作用する。つまり、防ぐために──その場の誰かを犠牲にすることになりかねない。だから、同意が必要なんだ」
カイが指をさす。「だからダメだって言ってる! 敵にも効くって、どういうことだ。誤爆したら向こうが応じてくる。ここで火を付けたら、住民が焼かれるだけだ」
「それが嫌なら、使わない選択もある」レンはわずかに首を振った。声には諦観が混じる。「でも、別の方法があるか?」
そのとき、運河の反対側で、査察隊の一人が腕を上げて合図した。集団が動き、軽装機甲の一体が合板の上をゆっくりと進む。塔の上の監視ユニットが、青白い光を落としている。端末の声が繰り返す。「移送準備完了。三十分後、強制移送を開始致します」
ユラは住民の方に向き直り、小さな声で言った。「聞いて。今すぐでなくても、私たちが何かできるのなら、まずは住民の意思を聞く。拒否する人がいるなら、押し付けはできない。私たちはそれを尊重するべきよ」
住民の中から、年配の男がぴくりと顔を上げた。彼の顔は塩と風でガサガサしている。男はゆっくりと前に出ると、レンの手を掴んだ。掌の中の温度が、レンの冷えた指先に伝わる。
「若いの」男は声を震わせた。「あんた、槍を持ってるな。うちの子供を助けてくれるか?」
レンは言葉に詰まる。答える前に、深海槍が小さく震え、青い光が柄から水面へと這った。歩いていた査察員の一人が、突然肩を崩して膝をついた。咳が出て、ヘルメット越しに驚愕の声を上げた。機甲からライトがちらつき、操作士の報告が慌ただしくなる。だが同時に、レンの耳の中で高い金属音が鳴り、味覚が抜け落ちるような感覚が走った。右手の指先がしびれ、世界の輪郭が遠のく。
「レン!」ユラが叫ぶ。カイが叫ぶ声は届かない。レンは深く息をつき、喉の奥が渇くのを感じた。視界の端が白く滲む。あのときと同じ感覚。代償だ。だが、今回の波及は予想と違った。効果は、誰かに直接ぶつかるように伸びてしまった。怪我を負った査察員は倒れたが、攻撃的な反応はまだ始まらない。周囲の緊張は一気に高まった。
「見せたんだろう?」カイが吐き捨てる。「これが何を招くか、わかったはずだ。住民に聞くって言ったけど、もう十分に危険を作った。今さらどう取り繕うっていうんだ」
老男はレンの手を離し、ぐっと握り直して言った。「助けてくれ。判断は、俺らがする。俺はこの土地を離れたくない。お前らが何をするかを見せてくれ、若いの。だが──俺は、戦いは望まん。子を失うのはもっと望まん」
ユラは目を閉じ、しばらく黙考した。彼女の呼吸が深くなる。やがて顔を上げ、レンとカイを見た。「私が聞く。今すぐ、全員に選択を回す。移送を望む者、残る者、槍を使うことを望む者──全て、自分の声で言わせる。私が手伝う。だが、一つだけ条件がある」
「条件?」レンは息苦しさで言葉が引っかかる。
ユラは周囲を見て、静かに言った。「合意が取れたら、あなたは僕らと話し合って作戦を立てる。あなたの独断で槍を動かすな。住民が選ぶなら、それが正当な選択になる。逆に住民が望まなければ、槍は使わない。私たちは──尊重する。それが私の条件だ」
カイが口をへの字に曲げた。彼は怒りも悲しみも混じった顔で、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと背を向け、足音を残してその場を離れた。合板の軋む音が、三人の間に重く落ちる。
「カイ!」レンが叫ぶ。だがカイは振り返らなかった。彼の背中は、選択を拒否した者のように硬い。
ユラは端末を取り、避難区の中央に立つ一人一人に向けて声を張った。「聞こえるか! 移送か、残留か、援助か。あなたたちの声を聞く。順番に言え。恐れずに言え」
人々のざわめきが、集落に小さな波を作る。誰かが最初の言葉を出すまでに