星獣牙の救助士と忘却艦隊 第5話「第4章」
焚き火の橙が揺れ、夜風が水たまりの上に薄い膜をはりつける。避難キャンプの広場には人影が列を作り、古い毛布と段ボールで作られた窪みに囁き声が波打っていた。星獣牙は木箱の上に無造作に転がり、暗闇のなかで薄い青白い光を吐いている。表面は骨のように硬く、細かな刻みが牙に沿って走る。触れると冷たい──だが、そこには同時に、遠い潮騒のような低い唸りが混じっていた。
焚き火の橙が揺れ、夜風が水たまりの上に薄い膜をはりつける。避難キャンプの広場には人影が列を作り、古い毛布と段ボールで作られた窪みに囁き声が波打っていた。星獣牙は木箱の上に無造作に転がり、暗闇のなかで薄い青白い光を吐いている。表面は骨のように硬く、細かな刻みが牙に沿って走る。触れると冷たい──だが、そこには同時に、遠い潮騒のような低い唸りが混じっていた。
「広めるべきだ、リオ」セナは焚き火のそばで腕を組み、息を白く吐いた。医療担当らしい疲労が表情に刻まれている。彼女の声には切迫と希望が同居していた。「あの力で一斉に避難できれば、死者がぐっと減る。選べるのは生きる側であるべきだって、私たちが教えるべきじゃないの?」
リオは星獣牙に目を向けた。牙の縁に、夜の空気を薄く震わせるような音が走る。彼は言葉を選んでから答えた。「その‘一斉’に、ルールがある。合意の共有がなきゃいけない。一度だけ、みんなが同じ作戦を共有した時に──それが実現する。本来は、救助計画を全員で決めてから使う道具だ。勝手に広めれば、合意の連鎖は断片化する。反動は、孤立した使用者に来る」
セナは唇を噛んだ。「孤立がどうなるか、もう一度見せてくれ」
リオは磨かれた岩のように沈黙した。説明する言葉を、彼は持っていたが、言葉は現実より鈍かった。牙の代償を説明しても、理解は実感に勝てない。だから彼は夜通し監視を続けていたのだ──だが、監視の限界は局地的だった。
列の端から、若者が駆け出してきた。薄い軍手と破れたジャケット。顔は泥に汚れて、目だけが血走っている。リオはその顔を知っていた。リク──十六歳の名が、広場の噂をかすめた。妹の名前を繰り返す人々が差し出した名札には「ミナ」とあった。リクは牙の前まで駆け寄り、周囲の注意など考えずに手を伸ばした。
「待て!」セナが飛び出す。リオも体を投げ出したが、リクの指先は牙の縁に触れた。指先が牙の刻みに吸い込まれるようにぎゅっと吸われる感覚。微かな電気のような震えが彼の腕を伝い、牙が深く低く鳴った。
触れた瞬間、リクの世界が裂けた。色が引き抜かれていく。焚き火の橙は灰色の階調になり、毛布の赤は淡い鉛色へと溶ける。空気の匂いが薄まり、遠くの話し声が白い海に溶けていく。リクは喉を掻きむしるようにしゃがみ込み、片手で顔を抑えた。
「見えない──見えないよ!」彼の声が震える。だがその声も、どこか輪郭がぼやけている。リオは両手を伸ばし、リクの腕を抱き留めた。冷たさが、皮膚の奥まで侵してくるようだった。リクの左目側、視界の半分が闇に覆われた。世界は一枚の写真から色だけが抜かれ、コントラストだけが残されたかのようだ。
「何をしたんだ、リク!」セナが歯を食いしばり、手袋を外して彼の手を押さえた。息が荒い。医療キットの中から冷却パックを引っ張り出し、リクの額に当てる。だが冷却は炎症を和らげるだけで、消えた色は戻らない。リクは指先でぱちぱちと空を掴もうとしたが、空は灰色のまま彼の手の中で滑り落ちるようだった。
周囲の人々がざわめき出した。誰かが拍手を打つように手を合わせ、誰かが坊主のように顔を背ける。だがその騒ぎの中で、もう一つの異変が起きていた。焚き火の反対側、テントの影から出てきた男が急に動きを止め、片手で額を抑えた。彼は救援服のようなものを纏っていたが、布地の破れ方や泥の付き方が他の避難者とは違っていた。混乱の中で彼は自分の名前を探すように呟いた。「──何だ、これは。私、誰だっけ」
リオはその男を見たとき、背筋が凍った。牙の力が孤立して発動したとき、守るべき‘仲間の合意’が欠けると効果は方向を失う。近くにある「他者」に作用することがある──それは理屈では聞いていた。だが現実の混乱は理屈を越えて残酷だった。リクの視界は奪われ、男は自分の存在を見失いかけている。今そこにいるのは、個々の痛みだけだ。
「やめろ、リオ!」誰かが叫んだ。だがリクは息を荒くし、歯を食いしばっている。泣きたいけれど、言葉が色のない世界に溶けていく。セナは決断した。彼女はゆっくりとリクの片手に自分の手を重ねた。「共有だよ、リク。私がここにいるって、握ってくれ」
触れると、セナの声が急に遠くなる。焚き火のはじける音、隣の子供のすすり泣き、すべてがふわりと膜をかぶったように聞こえる。彼女の世界から何か一つの感覚が薄れていくのを、セナ自身が感じた。耳鳴りのように高い音が彼女の左右をかすめ、夜の空気の冷たさが、彼女の掌にだけ鈍く残る。彼女は苦笑いを浮かべ、唇を噛んだ。「これで……一部、分け合えるかもしれない」
リクの顔から、薄く灰色の世界が少しだけ剥がれ落ちた。完全ではないが、周囲の輪郭が戻り、妹の名札の文字が読める程度にはなった。リクは震える声で「ありがとう」と呟いた。だがその「ありがとう」は、セナの耳には遠く、すでに濁って聞こえた。彼女は小さく目を細め、数歩後ろに下がって呼吸を確かめる。確かに、彼女の聴力の一部が失われた。高音域が欠け、焚き火のはぜる音は割れたガラスのように途切れる。
「仲間と共有するための『合意』って、こういうことだ」リオは冷たく言った。彼の声は強かったが、指先がわずかに震えている。彼は牙の側に手を置かず、ただ見守った。牙は青白く脈打ち、触れられた記憶を吸い上げるようにほんの一度鳴った。そこでリオは別の違和感を覚えた。牙が震えた時に、空気の中にごく短い、高周波の切れ端のような音が漂った。それは人間の耳には耳鳴りのようにしか届かない。だが彼はそれを以前、フィールドで聞いたことがある。忘却艦隊の遠隔センチネルが放つ、識別信号の一部だ。
「なに?」セナが呟く。彼女は耳を押さえ、顔をしかめる。失われた高音域の空白が、彼女にとっては新しい恐怖を孕んでいた。
リオは牙の側面に手をかけ、その冷たい表皮を感じ取った。牙はただの器具ではない。何かを吸い、何かを差し出す。孤立した使用は、吸い上げられた感覚を不安定に放出する。リクの視界は戻ったが、戻らなかった部分がどこへ行ったか──それは牙の中のどこかに留まっているような気がした。牙が吸った何かが、微かな共鳴で外の世界へと瞬間的に波及したのだ。
「使うときの合意は、人の感覚を安全に繋ぐためにある」リオは低く言った。「合意がないと、感覚が暴徒化する。近くにいる者すべてに広がることもある。忘却艦隊がこの信号を識別するなら──牙の『発動』は目印になる」
周囲に静寂が降りる。焚き火のはぜる音だけが、欠けた高音の隙間を埋めるようにする。それは小さいが致命的な事実だった。牙が発動するたび、忘却艦隊が使う同じ周波数の切れ端が空に撒かれる。敵はそれを嗅ぎ分け、やってくるかもしれない。
セナは顔を上げ、暗闇の向こうを見た。その目には決意と恐怖が混じっていた。「牙を隠すべきか──」彼女の声は震えた。「それとも、私たちが本当に教えるのか。合意の作り方を?」
リオは牙を見下ろした。牙は淡い光で静かに息をする。夜の冷気が牙の表面で踊り、彼の掌に小さな影を落とす。リクはまだ膝をつき、妹の名札を握りしめていた。セナの片耳は確かに遠くなっている。男は自分の名前を思い出し、ゆっくりと表情を取り戻し