星獣牙の救助士と忘却艦隊

星獣牙の救助士と忘却艦隊 第29話「巻末特別章」

潮の匂いはいつもより薄かった。湿った風が波止場のコンクリートをなで、錆びたチェーンが金属音を立てる。朝の光はまだ淡く、水平線は鉛色の帯を引いている。リオは膝を抱えて座り、掌の中で星獣牙を転がしていた。牙は思ったより重く、表面はざらついている。指先に伝わるのは冷たさと、小さな振動──眠る獣が鼻を鳴らすような、低い共鳴。

潮の匂いはいつもより薄かった。湿った風が波止場のコンクリートをなで、錆びたチェーンが金属音を立てる。朝の光はまだ淡く、水平線は鉛色の帯を引いている。リオは膝を抱えて座り、掌の中で星獣牙を転がしていた。牙は思ったより重く、表面はざらついている。指先に伝わるのは冷たさと、小さな振動──眠る獣が鼻を鳴らすような、低い共鳴。

耳鳴りが、ふと強くなる。常にそこにある音。忘却艦隊との初めての戦いで残った後遺症だ。風の中の金属音がまるで遠い機械の歯車の咬み合わせのように聞こえ、会話は輪郭を失ってぼやける。リオは舌先で口の中を確かめた。塩の味が薄れているのを感じる。飲み込んだ海水の冷たさはあるが、味はそこにいない。彼女は目を細め、歯を強く噛んだ。

「リオ!」

ミコの声が背後から飛んできた。すぐにミコが寄ってきて、手には濡れた地図の切れ端を握っていた。汗と潮の水滴が彼女の髪を湿らせ、表情は慌ただしいが決意に満ちている。タオとセナも後ろに続いていた。タオの腕には簡易の通信機器が括り付けられて、画面に赤い点が跳ねている。

「避難艦隊から報告が来た。三艘の小型艇が……記憶の霧の中に入ったまま、航路を見失ってる。乗ってるのは子どもと高齢者が中心。『忘却の錨』が近海に展開されてるらしい」

ミコの言葉は短く、無駄がない。リオはすっと牙を膝の上に戻し、掌の凹みになじませた。牙がまた軽く震える。彼女の胸の奥で、決断が膨らむ音がする。

「一度に三艘全部を安全に導けるか?」タオが訊く。彼の指先は地図の赤い点を指でなぞり、そこから放射状に小さな矢印が伸びている。

「できる、けど──」リオは言葉を切った。彼女は自分が何をするのか、何を差し出すのかを考えただけで手のひらが冷たくなるのを感じた。牙は既に答えを知っているかのように静かに震え続ける。

「どういう『できる』?」セナが静かに迫る。彼女の手には包帯と消毒薬の小箱。医療の手で培った視線は、どんなリスクも正確に計測する。

リオは顔を上げ、三人の目を見た。ミコは彼女を信頼している。タオは計器と数字を見ている。セナは人の命の重さを見ている。合意が必要だという条件が、空気の中で重くなる。星獣牙は「共有された作戦だけを一度だけ現実にする」。合意なく、単独で行使すれば、代償は自らの感覚の一部を喪失する──それは彼女が忘れてきたことでもなかった。だが今回の規模は、通常の「合意」では間に合わないかもしれない。

「三艘全部を一発で実現するには、忘却の錨自体に影響を与える必要がある」タオが言う。「システムの位相を一時的にずらすような操作になる。理屈上は可能だが、そのためには──」

「単独使用に近い形での起動になるだろうな」セナが言葉を続けた。「つまり、リオ一人が大きく牙を引き絞る形になる」

ミコの眉が固まる。「それはどういうことだ?」

リオは掌の牙をぎゅっと握る。冷たさが骨に食い込むようだ。思考が透明になり、過去の断片が残像のように浮かぶ。誰かが単独で牙を触って倒れた場面。音が消えていく。同じことを繰り返したくないという恐怖。

「一度やってみる」その声は自分でも驚くほど低かった。ミコが手を伸ばし、リオの握る手首に触れる。タオが一歩前に出て、通信機を握りしめた。セナは包帯をぎゅっと握りしめたまま、表情を崩さない。

だが合意は揃わない。目の前の三人のほかに、三艘の小艇の中には賛同する意思を示せる人がいない。彼らは記憶の霧のせいで、自分の意思を組み立てることができないのだ。時間はない。ミコの瞳の中に短い、鋭い問いが浮かんだ。

「君はそれでも、単独で行うのか?」

リオは牙を胸に押し当て、長く息を吐いた。手のひらで牙の冷たさがすうっと侵入してくる。指先が震え、耳鳴りが一層高くなる。判断の窓が閉じかけるのを感じながら、彼女はゆっくりと牙の根元に親指を滑らせた。脈打つような発光が掌から指先へと広がる。周囲の空気がピリリと緊張する。

「やめて」セナが叫んだ。彼女は足を踏み出してリオの腕に手をかけた。だがその瞬間、何かが弾けた。牙の光が爆ぜ、同心円の波紋のように波止場を伝って広がる。光は海面に跳ね返り、霧の中へ吸い込まれていく。波のような音が空気を削り、リオの耳鳴りは一時的に鋭く上がった。

世界から一色が抜け落ちる感覚。最初は柔らかい灰色だったものが、そこからさらに退色していく。リオは舌先で唇を確かめる。塩の味は、まるで引き潮に連れ去られた砂粒のように消えていた。次に触覚が薄くなる。左の人差し指の先がふわふわとして、何を掴んでいるのかわからない。世界が少し、遠くなる。

「――っ!」タオが歯を食いしばる。通信機が耳鳴りのために途切れ、波形が乱れる。ミコは必死にリオを引き戻そうとするが、光は既に海に向かって伸びていた。リオの掌から放たれた術は、忘却の錨の範囲に届いた。小艇の上で空を見上げる人々の瞳に、ぼんやりとした困惑が広がるのが見える。生気ではなく、空白のような顔。

だが、それは同時に別のことも引き起こしていた。遠方の一隻、忘却艦隊の偵察艇が発するホログラム表示が、瞬間的に薄れて消えた。波の向こうで、指令コードが一瞬乱れ、古い音声記録の断片が途切れ途切れに聞こえる。その乱れは、艦隊側の通信にも小さな混乱を起こした。牙は、合意のない一手を「強制的に」投げたのだ。リオが牙を単独で使えば、その影響は敵側にも届く──しかし同時に、影響は無差別で、周辺の民も巻き込む。

光が消え、波止場には重い静寂が落ちた。リオは膝から崩れるようにして座り込んだ。手の感覚がまだ戻らない。ミコが彼女をしっかり抱き寄せ、タオは通信機を必死に復旧させる。セナはすぐにポケットから冷却パックを取り出し、額に当てた。リオの目には、遠くの海上で小艇の輪郭が依然として揺れて見える。あそこにいる人たちの顔は、まだはっきりしない。

「感覚が……」リオの声はとても小さかった。味が、触覚の鋭さが、確かに一部消えている。簡単なことすら、感覚の欠落でぎこちなくなっていた。両足の裏の温度が判別できない。耳鳴りは持続的な低周波になり、言葉が引き伸ばされる。

「ごめん」リオはミコに囁いた。謝る理由はわからなかったが、言葉は自然と口を突いた。

ミコは黙って首を振った。「謝るな。私たちが決めるの、次は私たちが決める方法を、見つけよう」

タオは通信機の画面を睨みつける。赤い点はいくつかの小艇を示し、その周囲にまだ薄い霧が渦巻いている。だが、先ほどの乱れが艦隊の指令系統を揺らした短い瞬間に、群れの間で小さな混乱が生まれ、三艘のうち一艘が自力で舵を切ったのが見えた。牙の効果は部分的に届き、長時間ではないが人々の行動に「隙」を作った。

「単独での代償は、確かに目に見える形である」とタオが言う。「だがそれだけじゃない。合意を無視すると、影響範囲が変わる。艦隊になにかしらの乱れを与えることもできる。けどその反動は、私たちの側にも及ぶ」

セナは静かにリオの手をつかみ、自分の掌に牙を置いた。彼女の手は皮膚が厚く、働き過ぎた手だという匂いがする。リオはその温度を感じ、指の先が少しだけ戻るのを感じた。セナの瞳に、決断の炎が灯る。

「代償をリオ一