星獣牙の救助士と忘却艦隊 第10話「第9章」
潮の匂いが混じった冷たい風が静かな停泊地を撫でる。月明かりは薄く、波は黒い布に小さな針跡をつけるように揺れている。リオは膝まで泥に沈めた手で、星獣牙を包んだ布を掴んだまま土を押し戻した。牙は重く、冷たくて、指先にほんの少し震えを残した。その表面には、夜空を切り取ったような微細な紋様が線を描いている。指の間にわずかに伝わる振動は、まるで牙が遠い鼓動を拾っているようだった。
潮の匂いが混じった冷たい風が静かな停泊地を撫でる。月明かりは薄く、波は黒い布に小さな針跡をつけるように揺れている。リオは膝まで泥に沈めた手で、星獣牙を包んだ布を掴んだまま土を押し戻した。牙は重く、冷たくて、指先にほんの少し震えを残した。その表面には、夜空を切り取ったような微細な紋様が線を描いている。指の間にわずかに伝わる振動は、まるで牙が遠い鼓動を拾っているようだった。
「……本当に、ここでいいのか?」とシンが低く訊く。声にはまだ、前の夜の告白が溶け残している。
リオは顔を上げずに答えた。「ここで止める。今は使わない。星獣牙が——私が——選択を固定してしまう可能性があるなら、使うべきじゃない。私はそれを望まない」
布越しに牙を抱えたまま、リオは最後の土を上にかぶせる。手が土に触れる瞬間、微かな冷たさが掌に走り、まるで牙が下から息を吐いたように感じた。光は少しだけ濁り、仲間たちの顔に陰が落ちる。
アマナが腕を組んで顔を背ける。「でも、リオ。避難民の列はまだ向こうだ。艦隊が来るって情報もある。牙を埋めてどうするっていうの」
「分かってる」とリオ。「分かってるから、今は選択を強制しない。私たちが守るべきは、目の前の人々だけじゃない。彼らの選択も守るべきものだ」
議論は低い声の連なりとなり、波音にかき消されそうになった。誰もが疲れている。カイトは腕時計型の端末を弄りながら、無言で海上の航跡を追っている。ミリは港の一角で折りたたみ椅子に腰を下ろし、手の甲を噛んでいる。沈黙は合意ではなかった。欠けた硝子のように誰かが小さな端を探している。
その時、カイトの端末が突然赤く点滅した。スクリーン上の地図に、連なった白い点が鋭く近づいてくる。忘却艦隊の無機質なマークが、航跡の先頭に浮かんだ。
「接近。三分後には射程内に入る」カイトの声は短く、言葉のリズムに余地がない。「避難列—五分でこの地点を通過するはずだ。向こうの防衛は薄い」
みんなの視線が一瞬で集まる。波音が急に大きくなった気がした。リオは立ち上がり、泥だらけの手をぬぐう。心臓が跳ねるように速くなる。牙を埋めた場所からは、もう扱えない。だが目の前の危機は、埋めたものを持ち上げるに足る緊急性を持っている。
「リオ、今だよ!」ミリが叫んだ。彼女の目は震えている。避難民の声が甲高く重なって聞こえる。遠くで、子供の泣き声か、爆発に反応した悲鳴か、識別できない音が混じった。
リオは唇を噛んだ。埋めた牙が内側から彼女を引っ張るような錯覚がする。使えば——誰かの選択が消える。使わなければ——人が、確実に死ぬかもしれない。正義は測りにかけるものではない。だが、彼女の内側には別の秤があった。選択という重さが、どちらに傾くかまでは分からない。
シンが前に出た。彼の表情は固かった。以前の告白で見せた不安や罪の色は、今は戦意の鋭さに変わっている。「俺がやる。リオ、止めるな。ここで何もしなければ、あの子たちはただ流されるだけだ」
「シン……」アマナが声を割った。「あなた、前に——」
「分かってる」とシンは遮った。「だからこそ。俺が単独で使う。味方の合意を得られないなら、俺が代わりになる。俺がこの害を——受け止める」
シンの手が懐から小さな包みを取り出した。包みを開くと、そこにはリオが埋めたのと同じ形をした欠片が現れた。小さく薄い破片。星獣牙の小片。それはリオの牙とは別だが、同じ冷たさと微かな振動を持っている。
「そんなものがあるのか?」カイトが吐き捨てるように言った。誰もその破片の来歴を知らなかった。シンの顔は青ざめている。彼は唇を震わせながら、かすれた声で続けた。「俺が、一度だけ。これで大気の流れを作って、避難列を安全帯へ引き込む。それだけだ。俺が一人で使うから、代償は俺だけだ」
リオの目が硬く光る。「一人で使ったら、あなたは何を失うか分かってるの?」
シンはうなずいた。「左耳の聴力を失うかもしれない。色が薄くなるかもしれない。感覚の半分が——奪われるかもしれない。それでも、今はその代償で構わない」
だが能力にはもう一つの厳しい規定がある。仲間の合意を無視して使えば、その作用は味方だけでなく、敵にも及ぶ。シンはそれを知りながらも言葉にはしなかった。彼はただ決意だけを示した。
「止めて!」リオが叫んだ。腕を伸ばし、シンの手首を掴もうとした。しかし、シンは細い拳を握り返し、そのまま包みを開いた。破片に精妙な模様が浮かび、冷たい風が一瞬にして周囲の空気を引き締めた。星のような微光が破片から波紋のように広がり、肌に触れると瞬間に熱と冷気が混ざった痛みが走った。
シンの体からは、鋭い高音の音が鳴り始めた——まるで心臓の鼓動と違う、内部から震える金属音。彼の目が一瞬だけ遠くを見る。リオはそこに、決断の一部始終が刻まれるのを感じた。
次の瞬間、世界が揺れるように変わった。仲間たちの体が一斉に動き出す。言葉は胸の奥に留まり、手足は自ら進路を描いた。リオは自分が指示を出した覚えもないのに、足が砂を蹴って走り出すのを感じる。身体が勝手に避難帯へ向かって隊列を作る。波のような連携が、言葉を経ずに成立するのだ。計画は確かに実行されている——しかし、同時に周囲の商船、避難者、港のロボット清掃機までもが同じ軌道を取るように見える。
「おい、止まれ!」カイトが叫ぶ。彼の声は届かない。リオの胸は焼けるようだ。自分の意志が他人に侵される感覚、あるいは自分の身体が誰かの設計図に書き換えられていく感覚。恐怖が冷たい汗となって背筋を伝う。
だが、もっと酷いのは敵の反応だった。空に浮かぶ忘却艦隊の艦体が、まるで触手を伸ばすかのように動き、編隊を変えずにこちらへ軌道を合わせてきた。シンが放った波は、味方の動きを固めただけではなかった。敵の機械群も同じ論理で動き、双方が同じ一枚の図面に従って進む。誰もが、同じ「作戦」をなぞっているかのようだった。
港の向こうで、避難列の一本がわずかに逸れた。だがそれは自発的な逸れではない。まるで見えない手が道をなぞり、歩く人々の足を別の方へ押しやった。子供の手から親の手が離れ、老人が硬直する。誰かの顔が一瞬で虚ろになる。選択の糸が切れ、機械的な動きが始まった。
同時に、シンの身体がひどく震え、顔色が失われていく。低いうめき声が漏れ、彼の聴覚が崩れるような表情を浮かべる。リオは彼の耳元に顔を寄せた。シンの表情が変わり、目の色が少しだけ薄くなるのが見えた。唇から血の味がするような音がした。
「シン!」リオは叫び、制御の糸を断とうと必死に体を反らせた。だが足は止まらない。胸の中に冷たい石を詰められたような重圧があり、息が浅くなる。誰かが決めたルートに沿って行動し続ける自分。それは――守るはずの人々の選択を奪うものと、同じ質を持っている。
港の防災モニターに、赤いラインが残酷に描かれる。白い点と赤い点が重なり、交差する瞬間、爆発の閃光が海面を切った。破片の光が港を白く照らし、悲鳴が同時に上がる。リオは誰かの腕を掴み、無理やり引き戻す。だがその腕はリオの手をすり抜け、遠くへ運ばれた。指先に残った温度が急速に冷え、血の気が引く感覚がした。
シ