火薬花の教官と擬態兵団 第4話「第3章」
瓦礫の谷間を抜ける風が、まだ熱を帯びた硝煙の匂いを運んだ。夕闇は早く、路地の影は長く伸びる。高野颯汰は先頭で肩越しに集団を見やった。避難民の列は細く、手押し車や毛布に包まれた荷物が点在する。子どもの目は眠そうで、だが時折ぴくりと動いて周囲を窺っていた。
瓦礫の谷間を抜ける風が、まだ熱を帯びた硝煙の匂いを運んだ。夕闇は早く、路地の影は長く伸びる。高野颯汰は先頭で肩越しに集団を見やった。避難民の列は細く、手押し車や毛布に包まれた荷物が点在する。子どもの目は眠そうで、だが時折ぴくりと動いて周囲を窺っていた。
「ここまであと四百メートル。広場の地下室に入れれば、外部からの長距離索敵は切れる」と颯汰が言うと、ミオが手元の小箱を撫でるように確認した。小箱からは微かな振動が伝わり、表面に細い導線が這っている。火薬花を安定させるための、彼女の「安定器」だ。
ミオは作業台代わりの椅子に腰掛け、掌で装置を抱える。装置の中心に載せられた火薬花が、まだしっとりと震えていた。小さな殻から瞬間的に火花が零れ落ちるように、金属音のような鳴りが混じる。火薬花は触れてしまえば一瞬で花開くというのに、ミオの指先は慣れた手つきでゆっくりと覆い、起爆のタイミングを抑えていた。
「見てて。これが安定したら、合意の可視化を試せるはずだ。合図の同期が取れれば、先生の能力を安全に――」彼女は言葉を切って、装置の小さな表示を覗き込む。しかし画面は雑音だらけで、心拍のような不規則な波形がちらつくだけだった。
「ダメか」颯汰は息を吐く。夜の空気が、彼の肺に重くへばりつくようだった。能力の条件は単純だった。火薬花を媒介にして、事前に全員の合意を取った一度きりの作戦を「実現」する。ただし、その合意は当事者の自発的な意思に基づかなければならない。ミオの安定器は同期した動作や心拍の同調を指標にして、合意が取れているかを示すはずだった。だがいま、それは真実の志向を見抜けない。
突然、遠くの列のなかで誰かが小さく叫んだ。颯汰が振り向くと、人壁の向こうで一人の男の顔が歪んだように変わるのが目に入った。最初は老人だったはずの顔が、瞬間、若い女の――そしてまた別の老人の顔へと繰り返し切り替わる。視界の中で、群衆の顔がまるで映画の編集点のように高速でモーフィングした。
「…見間違いじゃないか?」とレンが囁くが、その声自体がどこか遠ざかったように聞こえ、不安定だった。群衆の笑い声やすすり泣きが、回線の切れたラジオのように断続的に入れ替わる。頬に伝う風が、誰かの吐息の味を伴っていた。
「擬態が来てる」ミオの声は硬い。彼女の目が、列の中にいる一人の女性に止まった。その女性は絣の羽織を羽織り、幼児を抱いていた。だが、その顔も、先ほどと微妙に違っている。唇の端の、小さな痣の位置が合わない。
「誰が本物か、見分けられない」ハナが低く言う。医療箱の蓋を指で押さえながら、彼女の手は震えていた。疑念は伝染する。列の中で、隣同士が互いの目を探り合う。互いの表情の端々をつかまえては、どちらが偽物かと問い合せる―そんな動作が連鎖して、列は静かな暴力の場になった。
ミオは立ち上がり、装置を両手で返すように差し出した。「これじゃ、合意を可視化できない。擬態は表情も声色も模倣する。機械は外側のパルスしか見えない。内側の“選ぶ”意志は見えないんだ」
「つまり、機械に頼れないってことか」颯汰が言った。言葉の端に重みを込める。彼が能力を使う条件は仲間の合意であり、それを無視すれば狙いは敵にも及ぶ。ひとりで使えば、感覚の一部を代償として失う。どちらも代償だ。
その瞬間、列から小さな悲鳴が上がった。ひとりの男が床に崩れ落ち、周囲がざわめく。瓦礫の間で、ちいさな青い花弁のような火薬の破片が舞っている。擬態の斥候だ。黒いマントのようなものがひるがえし、そこから現れたのは、笑みを浮かべた若い女性――だが、その顔は一秒ごとに周囲の誰かの表情を借りて変えた。
「行くぞ!」レンが飛び出した。彼は素早く斥候に向かって駆け、そこへ数発の短銃を叩き込む。だが弾は空を切る。斥候は音もなく身を翻し、空気を切るような速度で姿を消した。残された爪痕だけが、そこに誰かがいた証拠を示していた。
「合意が取れていない!」ミオが叫ぶ。「先生、使えるんですか?」
颯汰は一瞬だけ、空を見上げた。硝煙と星の白さが混ざった。仲間たちの顔が、彼の目に重くのしかかる。子どもたちのために、列をばらけさせずに一度に動かせれば負傷を減らせる。それが彼の教官として、これまでの経験が教えた最善だった。しかし「一度きりの実現」は、仲間全員の明確な合意を前提とする。合意がなければ、能力は危険な広がりを見せる。だが時間はない。襲い来る擬態は増えていく。
「皆に聞く時間はない」颯汰は低く言った。「俺が――一人でやる。覚悟してくれ」
ミオの顔が青ざめる。ハナが「ダメ、そんな――」と口を噤む。レンの拳が白く握られる。誰も望んでいない答えだと、そこにいる全員が知っていた。
颯汰は火薬花を取り出し、掌の上でそっと転がした。花弁のような粉が指の間で微かに震え、指先に熱が伝わる。彼は仲間の顔を一つずつ見た。ミオの目が必死に彼を止めようとしたが、その奥には理解と恐怖が混ざった光がある。ハナは俯けたまま唇を噛んでいる。レンは短く息を吐いた。
「いいのか?」ミオの声は、震えながらも問いかけだった。
颯汰は小さくうなずいて、火薬花に息を吹きかけた。言葉は要らなかった。彼が一人で合意を打ち破るという行為は、既に仲間の信頼を試す――いや、彼自身が代価を払うと決めた宣言でもある。火花が顔を出すように、起爆の兆しが手元に集約した。光が膨らみ、指先から冷たい痛みが脳裏に走る。
そして轟音が来た。世界が一瞬、音を失った。
耳鳴りが一斉に襲い、颯汰の左耳は空洞に入ったように感覚を奪われる。遠くの叫びも、石のぶつかる音も、互いの呼吸さえも、薄い膜の向こうから聞こえる。彼は目を開け、視界の端で起きる出来事を絵巻のように眺めた。火薬花の発する光は、狭い帯になって空間を切り、そこを通した人間たちを一瞬だけ同期させた。歩幅も、呼吸も、重心も同じにしたその「同期」は、誰が一斉に動けばいいかを肉体で覚えさせた。
避難民たちは無意識に重心を合わせ、颯汰の意図したルートへと滑るように移動した。数十が一塊になり、瓦礫の間を流れるように抜けていく。擬態の斥候たちも、その帯に触れた瞬間、奇妙な停滞にとらわれた。彼らの変わりやすい表情が止まり、機能的な動きが鈍り、鋭い攻撃のリズムを失った。効果はあった。だが同時に、帯に入った者たちの顔が僅かに、空虚な彫刻のように変わっていくのを颯汰は視界の端で見た。合意を欠いた適用は、識別を曖昧にする。
「先生!」ミオが駆け寄る。声はよく聞こえないが表情で痛みを訴えた。颯汰は手を伸ばし、彼女の腕を取りながら自分の耳を抑える。鼓膜の奥で低いうなりが続いた。
一瞬の静寂の後、避難は完了した。子どもたちの泣き声が遠ざかり、階段の向こうへと列は吸い込まれていった。だが代償は明白だった。颯汰は左耳の感覚を失い、世界の音は片方だけでしか拾えない。さらに不穏なのは、逃げ込んだ避難民のうち数名の表情に、以前の自分とは合わない硬さが宿っていることだ。擬態の影響が残ったように思えた。
レンが地面に肘をついて、荒い息を吐いた。「効果はあった。だが、医療班の反応を見ると…入った者のうち何人か、記憶の抜けがある。