火薬花の教官と擬態兵団 第15話「第13章」
雨上がりの夜気は、まだ蒸気を引きずっていた。アスファルトから立ち上る湿った匂いに混じって、ほんのりと火薬の匂いがする。白井はその匂いを嗅ぎながら、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。火薬花が咲いた直後の匂い——それはいつも、何かを終わらせた証でもあり、何かを始めようとする合図でもある。
雨上がりの夜気は、まだ蒸気を引きずっていた。アスファルトから立ち上る湿った匂いに混じって、ほんのりと火薬の匂いがする。白井はその匂いを嗅ぎながら、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。火薬花が咲いた直後の匂い——それはいつも、何かを終わらせた証でもあり、何かを始めようとする合図でもある。
「白井、どうするんだ」
声は低く、屋根の向こうから聞こえた。影織が指先で薄い紙束を差し出す。懐中電灯の灯を遮るほどの薄さの紙は、型押しのスタンプと冷たい字で埋められていた。擬態兵団の運用基準、それを正当化する内部記録。そこには「選択の代行」という見出しと、小さな数字が並んでいた。
白井は紙束を受け取ると、指先の油分で一頁を開いた。墨は乾いているが、字の輪郭は鮮明だ。読むほどに胸がざわつき、舌先が硬くなった。屋根の上を巡る風が、ほんの一瞬、火薬の余韻を強く運んだ。思い出す——その匂いによって、彼らは一度、道を作り、避難民を通した。代償は大きかった。彼が見たあの日の夜、耳鳴りが消えなかったこと。そして今でも夜中に味がわからなくなることがある。
「公表すべきだ」影織の声は淡々としていた。「これを曝せば、あいつらの正当化の根拠を崩せる。外との信頼は取り戻せる」
「曝せば、――」風間が遮る。彼女は屋根のへりに座り、コンクリートの冷たさを指先で確かめながら言った。「避難民が二次被害を受ける可能性だってある。報復、追跡、住まいの焼き打ち……あんたたちはそれでいいの?」
真砂は紙束に手を伸べられなかった。さっきまでの任務で、彼女は子供を抱きしめていた。子供の小さな背中が、今でも心を責める。「あの子たちがまた……」声が震える。真砂の沈黙は言葉以上に重い。
白井は紙を握り直した。手のひらに冷たさが伝わる。火薬花を使った作戦の後遺症が、まだ体に残っている。能力を使った後、ひとつの感觉が閉ざされる――彼はそれを承知している。視界は正常だが、音の洪水はいつもどこか薄く、遠い。今夜も、屋根の上で車のクラクションがかすかに聞こえた。心のどこかで、その距離感が恐ろしくて、彼はまた決断を迫られている。
「選択の代行、か」朝倉が手袋の中で小さなライターを弄る。火は揺れる程度の弱さで、それでも黒い紙を照らし出した。「これが本当なら、みんなの名前はただの記号だ。運用側があらかじめ選ぶ。生かすか――切り捨てるか。その記録を晒すと、あいつらの手口は明るみに出る。だが、晒さないと同意なく人の選択を奪う仕組みを放置することになる」
「俺は、晒すべきだと思う」白井の声は低かった。屋根の向こう、避難所の群れが小さく見える。中にいた一人、灰色のコートの女の子が自分で肩を抱き直す瞬間、白井の胸は鋭く刺された。守るべきものを守るための一手が、守られる側の選択の余地を奪ってしまうのなら、それは守ることになるのか。
その時、広場の方から、不穏な笛の音がした。低い電子音が波紋のように屋根を震わせる。影織の表情がぎゅっと硬くなった。
「擬態のパトロールだ」影織が呟く。「偵察班の一部が混じっているらしい。行動隊が今夜、拠点の整理に来るはずだ」
音は確かに、人の行動を誘導する合図だった。擬態兵団は、人々の決断できる余地を削ぐように動く。脅し、偽りの安全を与え、最後に"選択"を代行する。白井は思わず耳をすくめた。胸の奥で、使い古された火薬花の匂いが蘇る。火薬を媒介にして実現する一度の作戦——あのときの手触りが、今も残っている。
「行くぞ」白井は立ち上がった。紙束は時間の重みを感じさせるが、今は進路を決める瞬間だ。リング状に並んだ屋根の継ぎ目を越え、彼らは静かに降りた。夜の空気が肌に張り付く。避難所には光が漏れていて、中にいる人々の影が揺れている。
広場に出ると、群れの端で市民指導者が拡声器を持ち、口を震わせていた。彼の背後に寄り添うように、擬態兵団の二人組が立っていた。一見して普通の中年男性と婦人だが、その動作のぎこちなさ、視線の微妙なずれが嫌な違和感を与える。偽装——そう思った瞬間、影織は彼らの背後に沈黙の合図を送った。
「作戦はどうする?」影織が小声で訊く。白井は、火薬花を取り出す時間を考えた。今回使うのは、避難路を一瞬だけ見えなくさせ、群衆の位置を入れ替え、擬態を置き去りにするための"火薬花"の起動——ただし、それは共通の作戦でなければ正しく働かない。一度しか実現できない。仲間全員の合意が必要だ。合意がないと、能力は拡散し、誰にも残酷な結果を与える。
彼らは輪になって再確認する。朝倉はうなずいた。風間も頷いた。真砂は震える声で「いいよ」と言った。だが最後に、影織が紙束を握りしめながら息を吐いた。
「俺は……賛成できない」影織の声は細かった。「この資料を持ってる。公表すれば、あいつらはただちに報復に出るだろう。俺のせいであの女の子がもう一度追われるかもしれない。俺はその責任を取れない」
周囲が凍る。合意が一つでも欠ければ、火薬花は予定通りに機能しないと言われていた。それがルールだ——だが白井は、合意が揃うまで一分一秒の余裕がないことを知っている。擬態は微かに手を動かし、群衆の中に小さな不安を散らしはじめた。
「影織、君の決めることだ」白井は言った。「でも、今この瞬間に人が傷つく。俺は――」言いかけて、白井は手首の裏に忍ばせた小さな火薬花を確かめた。それは薄い金属の筒に、乾いた花弁のような粉が詰められている。彼は知っている。これを一人で起動すると、代償として自分の感覚の一部を失う。耳、味、触覚、どれが削られるかは運次第だ。だが、即座に事態を変えることはできる。
「単独で使うつもりか」朝倉が冷たく言った。「ルールを破れば、何が起きるか分からない。救うためだと言うが、巻き添えはどうする?避難民だって影響を受ける。擬態がそれを利用する」
白井は目を閉じた。町中の顔が浮かぶ。避難所にいた子ども、足を引きずっていた年寄り、笑ってはいなかった政治家の顔。すべてが、選ぶ余地を奪われかけている。彼は火薬花を握りしめたまま、目を開けた。
「選択を守るために、今選ばせてやるんだ」白井は低い声で言った。「たとえ代償が俺に来ても――俺はそれを受ける」
影織の唇が震えた。だが彼は白井の顔を見て、ゆっくりと首を振った。拒否の合図だ。だがその瞬間、誰かが動いた。真砂が白井の手を掴み、小さな拳で彼の腕を抱いた。
「白井、止めて」真砂は叫んだ。目は恐怖で濡れているが、その中に決意もある。「でも、人を守りたいって思うのは分かる。私、同意する。私も一緒にやる」
朝倉は唇を噛んだ。風間は一瞬固まったが、やがてこくりとうなずいた。四人のうち三人が合意した。だが運用上の条件は「味方と共有した作戦だけを一度だけ実現する」。全員の同意か、あらかじめ合意された多数の同意であるかという境界は曖昧だった。影織の沈黙は致命的な欠落だ。彼は合意を出さない。それは、白井にとって二つの選択肢をもたらした──待つか、単独で起動して代償を受けるか。
白井は選んだ。手の中の火薬花に灯を近づける。火花がコンマ何秒かの間に花びらのように揺れる。その瞬間、屋外の世界が押し返すような圧力を