重力旗の監視員と白紙教団 第4話「第3章」
旗が夜風を引き裂くような音を立てた。裂けるというより、空気が凝り固まって軋む――そう結芽はいつも思う。掌に巻いた布の重みが、ただの布ではないことを告げていた。重力旗。彼女はそれを肩にかけ、見張り台の木の冷たさに指先を押し当てた。
旗が夜風を引き裂くような音を立てた。裂けるというより、空気が凝り固まって軋む――そう結芽はいつも思う。掌に巻いた布の重みが、ただの布ではないことを告げていた。重力旗。彼女はそれを肩にかけ、見張り台の木の冷たさに指先を押し当てた。
下の区画には小さな灯りが点在するだけで、避難所の夜は静かだった。だが今宵、白紙教団の一行がやってきた。白い布を垂らした長い竿を持った伝導師が、集団を率いている。灯りの輪郭をなぞるように、彼らの持つ旗が不自然な影を落としていた。影は群衆の上を這うように動き、子どもたちの笑い声が一つ、また一つと消えていく。
「動くわよ」沙良の声が低く届いた。彼女は結芽と同じ見張り台の梯子脇にいた。カズキも息を潜めている。三人の視線が、下のテントに張られた一組の小さな毛布の方へ向く。二歳ほどの髪の薄い男の子が、母親の膝にしがみついていた。
「蓮見だ。あいつらは選択を剥ぎ取るのが上手い」カズキが呟く。蓮見──白紙教団の伝道師の名は、キャンプの誰もが嫌でも覚えていた。淡い笑顔の裏側で、彼はいつもまるで秩序の必要性を説くかのように声を低める。
「子どもを連れて行くつもりだ」沙良の指先が拳を作った。彼女の声は震えていなかった。結芽は旗の裾に触れ、布目から伝わる微かな振動を確かめる。旗は彼女にだけ反応していた。結芽はそれを「待たせてはいけない」といつも感じるときがある。だが旗は約束の力だった。仲間と策を共有し、全員の合意があるときだけ、その約束は現実になる。だが今は──
「カズキ、沙良、凪はここにいる。くれぐれも──」結芽は言いかけて口を閉ざした。凪がいない。隣の区画で衛生班を回っているはずの凪が、治療が必要だと呼ばれてまだ戻っていないという報告が来ている。旗の力は本来、共有された作戦を一度だけ実現するためのものだ。合意がないまま発動すれば、代償がある。結芽はそれを知っていた。だが母親の青ざめた顔が、男の子の小さな手が、胸に刺さるように痛む。
「やるのか?」カズキの問いは、凪の不在を咎めるようでもあった。
結芽は旗を強く握りしめた。布の織り目が爪先にも伝わるような重さを持って壁を押す。伎倆は一回だけ。合意のないまま使えば、身体の一部が戻らなくなることもある。だが彼女の胸を締めつけるのは、後悔の方だった。幼いものを奪われる光景を見てしまったら、自分を許せるはずがない。
「私、やる」声が出る。低く、決意じみていた。沙良が腕を伸ばした。カズキの手も出る。二人は合意の姿勢を示したが、凪だけが欠けている。結芽は合意の要件が「仲間と共有した作戦」ということを脳裏で確認しようとした。手の中の旗が、微かに唸る。
彼女は旗を地面に刺した。布が土を押し、先端の金具が石に当たって小さく鳴る。世界の奥底から、重みが立ち上がるような気配がした。空気が粘り、ランタンの火が揺れる。結芽の腹の中で、何かが締め上げられるようだった。使うたび、体は差し出すものを請求した。今回はそれが聴覚だった。
「結芽、止めろ!」沙良が叫んだ。彼女は旗の縁を掴んで離そうとしたが、結芽の指先は布と一体化しているようだった。掌の中で旗の繊維が、まるで生き物のように脈打つ。
世界が一度、ゆがんだ。足元の砂の粒がゆっくりと上へ浮かび、人々の体が軽くなって宙をさ迷うように感じた。子どもの母親が声を上げ、蓮見が苦笑いを浮かべる。彼の白い布が風に乗って、まるで操り人形の糸のように揺れる。
だが合意は完全ではなかった。凪の不在という微かな綻びが、効果の輪郭を曖昧にした。重力は味方と敵の間の境界線を見失った。浮いたものは一様ではなく、ある瞬間に急に重くなり、誰かの膝に梁が落ちる。キャンプの一つの支柱が外れて、金属の擦れる音が耳に刺さった。結芽は耳鳴りとともに右耳が遠くなるのを感じた。音が片側から切り取られたように静まった。世界が半分欠けた。
「やばい、重い!」カズキが叫んで、子どもを抱えかかえる。だが遅かった。梁に押しつぶされた母親の足が、民生用のブーツを砕くように折れる。彼女の呻きが、結芽の片耳にはぼやけて届いた。痛みの輪郭はあるのに、それがどこから来るのか判断できない。視界の隅で、蓮見が薄笑いを浮かべる。彼は自分の白い旗を振っている。結芽の重力反応は、あの白い布に共鳴したのだ。共鳴が生じると、重力の方向は微妙に増幅され、予測不能になる。
「旗を離せ!」沙良が必死で叫ぶ。彼女が旗を引き剥がすと、重圧が瞬間的に消えた。宙に浮いていた人々が、音を立てて地面に落ちる。誰かの顔が土に強く打ち付けられる。結芽は視界がぐらつき、吐き気を覚えた。右耳は聞こえない代わりに、低い振動が胸に重く続く。
恐怖と痛みの中で、蓮見は歩み寄り、白紙教団の旗を掲げたまま低く頭を下げる。「害をなそうとは思っておりません。選択の無駄を省き、皆が安らかになるように──」彼の声が、しかし結芽には半分しか届かない。半分だけの声が、残りの半分の世界に不釣り合いなほどの説得力を掴んでいるように感じられた。
誰かの嗚咽。咳。怯えた話し声。結芽はそれを繋ぎ合わせられない。彼女は床にひざまずき、手のひらで耳を押さえた。旗は傍らで垂れている。布の端から、細い糸が一本抜け落ちていた。それは黒く、光を吸うようだった。沙良がそれを掴み、表情を固める。
「この糸……」沙良の声が震える。彼女は旗に残った繊維を指先で撫で、やがてそれを結芽に差し出した。布が示すのは、旗の素材と似た性質の何かだ。結芽の耳の片側にはまだ鈍い振動が残るが、視覚は鋭くなる。彼女はその糸を覗き込み、心臓が跳ねた。繊維の中に、小さな金属の粒子が編み込まれている。あれは、重力旗の芯材と同じ構造だ。
「まさか、教団が──」カズキが言いかけ、言葉を飲んだ。彼の顔は青ざめている。蓮見はにやりと笑い、白い旗を優雅に振る。彼の布は、結芽の持つ旗とは違う用途で作られているのかもしれない。だが芯は同じだ。どこかで、誰かが重力旗の理論を知り、白紙教団に流したのだ。
「聞こえるか?」沙良が結芽に尋ねる。結芽は首を振った。音が片側だけで入ってくると、会話の抑揚が判別できず、嘘も本当も判別しづらくなる。沙良は顔をぐっと引き締め、周囲を見回した。負傷者の呻き、助けようとする人々の足音、空気に残る血の匂い――結芽は嗅覚や触覚が鋭くなったように感じたが、情報の全体像は欠けている。
「今回のは──結芽、一人でやったんだろ?」カズキが聞く。言葉は刺さる。沙良は答える代わりに旗の芯の欠片を握り締めた。結芽は自分の胸に手を当て、静かにうなずいた。
「ごめん」彼女の声は、完全には届かない。カズキは唇を噛み、沙良はぐっと唇を閉じる。三人の間にあるのは、取り返しのつかない事実の断片だ。民衆の痛み。旗の代償。結芽の耳の欠落。だがもっと恐ろしいのは、芯材がここにあることの意味だ。技術が外に出ているということ。重力旗は、孤立した奇跡ではなく、誰かが解析し、再生産している。
テントから運び出された負傷者が呻く。凪はまだ戻っていない。治療班は手が足りず、痛みを押し殺すように動き続ける。白紙教団の伝導師はテントの外で人々の様子を伺い、時折、静かに言葉を落としては去