重力旗の監視員と白紙教団 第20話「第18章」
風に揺れる小旗が、いつもより頼りなく見えた。白い布に描かれた細い筋が、風に触れてはゆっくりと顔を覗かせる。避難所の中央を縫うように立てられた重力旗は、今日もどこかおとなしく、しかし確かな予兆をはらんでいた。
風に揺れる小旗が、いつもより頼りなく見えた。白い布に描かれた細い筋が、風に触れてはゆっくりと顔を覗かせる。避難所の中央を縫うように立てられた重力旗は、今日もどこかおとなしく、しかし確かな予兆をはらんでいた。
「結芽、ここにいる間は──下がって。子どもたちを離して」
理央の声が耳に届いた。彼の手が群衆を遠ざけ、私(結芽)は手袋の縫い目を噛むようにしてうなずく。匂いは消毒薬と炭火の混ざったものだ。足元の土は乾いていて、風に舞う埃が口の中に微かなざらつきを残した。
菫(すみれ)はそこにいた。いつもは冷静で、でも今日は違った。黒い髪をかき上げる仕草が落ち着きを欠いている。彼女の指先は、いつの間にか一本のノードに向かって伸びていた。金属の支柱に巻かれた小さな円環──避難所を囲むように無数に立つ、白紙教団の制御ノード。
「触るな、菫!」
理央の声が割れる前に、菫は支柱に手を掛けた。接触の瞬間、空気が変わった。旗の布が風を抱え込むように膨らみ、地面がごく浅く波打つ。音が下から湧き上がってきて、体の中の骨まで振るわせた。人々があちこちで足を踏み外し、テントの支柱がきしむ。
菫の顔がひきつった。指の腹が黒いスミアのように光るノードの端にくっついていた。鋭い白い光が彼女の手首へと跳ね、同時にノードが脈打った。空気圧が一瞬で変わり、近くにいた数人が体を持って行かれた。叫び声がいくつも重なり、鋼の匂いが突き刺さる。
「菫、離せ! 触るなって言ってるだろ!」
理央が跳び込んで彼女の腕を掴もうとしたが、ノードのせいで彼の足が滑った。結芽は自分の体が微かに浮き上がったのを感じ、裸足の裏に突き刺さるような重さが戻る。菫の瞳が大きく見開き、彼女の肩が不自然に曲がった。金属の擦れる音。膝から崩れるように倒れ込んだとき、皮膚に触れた布の感触が異常に冷たい。
メンバーの一人、早川が手袋越しにノードを押さえにかかる。だが彼も引きずられるように倒れ、ノードの周辺で小さな裂け目が生まれた。裂け目は瞬く間に周囲のノードへと伝播を始める。まるで、地面の下で鎖が引っ張られるように。
「システムの連鎖反応だ!」 早川の声が震えた。「押さえ切れない!」
あのときの感覚が、結芽の胸を掴んだ。前に一人で決めたあの瞬間の、手の震えと、誰かの叫び。あの結果が、誰かの命を奪ったこと。記憶の縁が疼く。だが今は、記憶に捕らわれている暇はない。
響(ひびき)が駆け寄り、軍手から血がにじんでいる菫の首元を押さえる。「止血! 誰かシーツを――!」 医療テントへと担ぎ込まれる菫の体は、ゆっくりと白いシーツに溶け込んでいった。白い布越しに、彼女の荒い呼吸だけが聞こえる。布の向こうで、誰かの手が何度も消毒薬のボトルに触れる音がする。風に揺れる重力旗が、遠くで小さく音を鳴らした。
医療区画の中は、匂いが一層濃い。アルコールの刺激で鼻腔がひりつき、口に入れていた水の味が薄くなった。響が額に汗をかきながら、結芽の肩を引いて中へ引き込む。
「脈が浅い、出血性ショックの手前だ。肋骨の辺りに鋭い損傷がある。ノードの効果だな」
「元に戻せるのか?」 理央の問いは、重さを帯びていた。
響は手をこすり合わせてから首を振る。「ノードの繋がりを逆転させる操作が必要だ。重力旗を介して“共有する作戦”を一度だけ展開して、菫の身体とこのノードを逆同期させる。要するに、結芽の監視回路を使って、向きを——」
彼の説明はそこで止まった。結芽の目が、響の次の言葉を探し当てた。
「ただし、条件がある」
響の黒い瞳が厳しくなる。「その操作は、旗を媒介にして“共有された作戦”だけを現実にする。つまり、影響を受ける範囲にいる人間が合意して初めて、方向を変えられる。合意がなければ、作用は敵対側にも波及し、どちらともつかない効果を生む。さらに、誰かが単独でこの監視能力を作動させると、その代償として感覚の一部を失う。戻らないこともある」
言葉は重かった。結芽の胸の中で、過去の映像が再生される。あの日、彼女は一人で旗を掲げ、誰の同意も取らずに作戦をつくった。あのときの反動で、彼女は右の聴力を失い、数ヶ月間味覚を失った。誰かを救おうとしたはずが、結果は別の命を奪う形になった。胸の奥が、鋭く刺された。
「一度きりの手段だ。合意がなければ、敵にも作用するってどういうことだ」理央が吐き捨てるように言った。「そんなものを待っている余裕があるのか。菫を今すぐ――!」
「合意を取っている時間はない」早川が言い返す。「近隣の人々は怖がっている。俺たちが強制的に旗を動かせば、あの教団の遠隔監視が反応して、もっとひどい連鎖を起こすかもしれない」
部屋の中で言葉が弾ける。誰もが欲するのは即効の救命だが、方法の是非に線引きはある。結芽は菫の白い手を、透明なシートの隙間から見た。指先にまだ微かな震えが残る。彼女の肌の色は蜷局のように青白い。歯を噛みしめると、右側の奥歯に流れる冷たさが、あの日の代償を思い出させた。
「結芽、君の判断だ」理央が言った。「監視員の権限は君にだけある。君が単独で起動するか、皆の合意をとるか。どうする?」
目の前の選択は、いつだって単純ではない。誰かを救うために、視覚の端を切り落とすか。誰かを救うために、他の誰かの意思を踏みにじるか。
結芽は、菫の蒼白な爪を見つめた。かすかな生命のリズムを、彼女自身の手でどうにかして守りたい。だが同時に、あの過去の轍(てつ)を踏むことは許されない。彼女は記憶の中の声を聞いた、自分が訓練所で言われた言葉を。「監視員は仲間を守るためにある。しかしその守りは、支配になってはいけない」
静寂が落ちる。外で小旗が擦れる音だけが聞こえる。風は変わって、旗を強く引いた。結芽は立ち上がり、荒い息を吐いた。
「私は、やらない」彼女は短く言った。「単独で作動させない。私が一度でできることは、仲間と共有した作戦だけだ。合意なしの芽菜(めな)──いや、菫を救うために、誰かの選択を奪うことはしない」
理央の顔が歪む。早川の眉がきつく結ばれたが、響はゆっくりと首を縦に振った。「君の言う通りだ。無理に押し切って起動したら、敵にも作用する。あの反動は最悪の場合──我々の手で避けられない被害を生む」
「でも、どうやって合意を取る?」理央が叫ぶ。「避難民は恐れてる。教団の監視がある。説得する時間はないかもしれない」
結芽は、テントの外にある小さな群衆を思い浮かべた。子どもの手を握る母親、薬の不足を心配する老人、まだ情報を信じきれない若者たち。彼らにとって合意とは、単なる言葉ではない。恐怖と信頼が折り合う一点が必要だ。結芽はゆっくりと頷く。
「説得する。強制はしない。俺たちが先にやることは、説明して、選んでもらうことだ」響の声は低かったが確かだった。「自分たちで選ばせる。もし合意が得られたら、旗を使って菫を戻す。その代わり、俺たちはその結果も全部受け止める。うまくいかなかったら、俺たちの責任にする」
理央は顎を押さえて、深いため息を吐いた。「わかった……説得だ。だけど成功の確信はない。もし合意が取れなければ、菫は」
「それでもいい」結芽は続けた。「彼女の意思を奪わない