夜航弩の見習い隊長と反転軍 第17話「第15章」
トンネルの内壁が、まだ震えていた。埃と硝煙の匂いが鼻腔を刺し、薄暗い光の帯が崩れたコンクリートの破片を金属のように鈍く照らしている。低い唸り声が続き、時折外から聞こえる金属のぶつかり合う音が、ここが安全ではないことを知らせていた。
トンネルの内壁が、まだ震えていた。埃と硝煙の匂いが鼻腔を刺し、薄暗い光の帯が崩れたコンクリートの破片を金属のように鈍く照らしている。低い唸り声が続き、時折外から聞こえる金属のぶつかり合う音が、ここが安全ではないことを知らせていた。
「もう時間がない!」トオルが指を差す。彼の声に混じって、近くで子どものすすり泣きが短く切れる。丸く潰れたバリケードの向こう、避難民の列が行き詰まっている。先頭の老人は肩をすくめ、息を切らしている。外側に立つ、反転軍の巡回ユニットが鋭い光で周囲を探る。彼らの装甲は、情報網と同調して動く小さなアンテナの群れを持っていた。無言の威圧だ。
「合意は取れないか?」アリサが言う。彼女は夜航弩のケースに手を触れたまま、顔を硬くしている。彼女の掌の下で、黒い箱の表面が微かに振動していた。夜航弩──あの不思議な木製の弓と金属器具が組み合わさった装置は、ここではただの器具ではない。味方と共有した作戦だけを、一度だけ現実化する媒体だと彼らは知っている。だがその「共有」のためには互いの意思表示が必要で、欠落や欺瞞は取り返しのつかない代償を生む。
「いや、出来ない……」シオンの声に怯えが混じる。彼は避難民側を見て、そして反転軍のユニットがトンネルの端を掃除する様を見た。「あいつら、すぐそこにいる。合意のために時間を取る余裕はない。そもそも彼らに関わることを、俺は——」
アリサの肩が跳ねる。「だからといって、無理に使えばどうなるか知ってるでしょ。単独で発動すれば──」
「感覚を奪われるんだろう?」トオルが言い切る。彼の喉にはいつもの自信がない。「使った本人が、何かを失う。聴覚、あるいは視力、あるいは体のどこか。後遺症は戻らないって知ってる。」
「それでも──」レイは、言葉の先を飲み込んだ。胸の内で燃えるものがある。押しつぶされそうな人々の顔、子どもの小さな手が彼の袖を掴む感触。合意のないまま、ここで立ち尽くすことはできない。彼は夜航弩のケースに触れ、冷たい金属と木の感触を確かめた。触れた指先に微かな振動が伝わる──それはいつもの前触れのように、まるで装置が彼の決断を待っているかのようだった。
アリサはゆっくりと目を閉じた。「レイ、止めて。あなたが一人でそれを使えば、たとえ敵にも影響を与えたとしても、こちら側の意志を無理矢理押し付けてしまう。私たちが何の合意も示してないのに。反転軍と同じだ。それを望むなら、私は側にいない。」
その言葉が冷たく胸に刺さる。レイは聞いた。知っていた。夜航弩は、合意を可視化するための装置として生み出されたと言われるが、運用の過程で「合意を奪う簡易解」が制度化された。だが今はそんな議論をしている暇はない。トンネルの外で、反転軍のユニットが姿勢を低くして、正面突破の準備をしている。
「選択を奪われているのは、こっちだ!」レイが叫んだ。声が狭い空間で跳ね返る。彼の手が夜航弩の弓に伸び、その寒さを感じる。合意がない──合意がないという事実は、理論上は許されない。しかしここにいる人間たちの血の色や震える指は、書類や制度では救えない。
彼はケースを開けると、中の弓を抱え上げた。木目が斜めに走り、弓の中央に埋め込まれた小さな凸字板が、薄く光を放つ。夜航弩は目まぐるしく、まるで呼吸するように反応した。周囲の空気が引き締まる。それはヤバイと本能が叫ぶ。発動の前触れだ。
「レイ、待て!」シオンが手を伸ばしたが、届かない。トオルも声を上げる。アリサの顔には苦渋が窺える。誰も合意の合図を出さなかった。互いに視線がぶつかり、拒絶と恐怖だけがそこに残る。
レイは弓を引いた。弓弦が唸り、金属部が微かに振動する。夜航弩は合意を媒介する装置だ。共同で構築された「作戦の形」を、一度だけ現実化する。だが今、作戦はレイ一人の頭の中にある。彼はその全てを押し通す、と心に決めた。
弓が放たれた。音が羽毛のように広がって、次の瞬間にはすべてを塗り替えた。
最初に訪れたのは高音の切断だ。耳鳴りのような高い鐘が辺りを満たし、次いで音がすべて吸い取られていく。言葉が途切れ、人の息遣いも消えた。レイは反射的に手を耳に当てるが、そこには冷たい空気だけが触れた。次に視界が揺らいだ。光が溶けて軸を外し、色がいつもの順序を失う。壁のひびが浮き出し、避難民の輪郭がゆがむ。体のバランスが怪しくなり、床の石が滑るように感じられた。視覚と聴覚、身体感覚が断片化していくその感覚は、ナイフで感覚をそぎ落とされる痛みに似ていた。
だが同時に、トンネルの向こうで何かが変わっていた。反転軍の巡回ユニットが一瞬動きを止め、排他的な輝きを失う。巡回ユニットのアンテナ群が、まるで不意に別の命令を受け取ったかのように内向きに屈折した。内部の情報網が影響を受け、彼らの行動パターンが狂った。巡回が混乱し、歩調が乱れ、武装を向ける対象を再計算している。
「敵にも……効いてる?」かすれた声が、自分の口から出た。声は耳に届かない。だが空気の震えがその意味を補ってくれる。夜航弩は、合意を欠いた発動の代償として、効果を「反転」的に拡散させた。味方だけで共有した計画を、合意のない行為として社会の外側にまで波及させてしまったのだ。意図的に敵を混乱させることはできた。だがそれは、合意を奪うことと紙一重だった。
混乱の最中、誰かが咄嗟に動いた。アリサだ。彼女は顔を上げ、震える手で夜航弩の弓の側面を掴んだ。レイは指先に冷たい力を感じた。だが触れた瞬間、彼女の瞳がレイと合う。アリサは小さな声で言った。
「私が同意する。だけど、後始末は私たちでしなきゃいけない。あなた一人に全部の代償を押し付けたりしない。」
触れるという行為が、ここでは合意の最も原初的な表現だった。アリサの一握りが、夜航弩の波及をどこへ向かわせるかを変え始める。合意が後からでも部分的に加わることはできるのか、そんな理屈は彼らの前で実験される。アリサの同意が、効果の焦点を変え、混乱を散らして避難路を一時的に開いた。
動くことのできない老人が、ゆっくりと立ち上がり、杖で破片を押しのける。子どもたちは大人の腕にしがみつき、トンネルの出口へと導かれる。その間にも、反転軍のユニットは再整列を試みる。だがその時間差こそが、助かるか死ぬかを分ける。
やがて、レイの視界に線が入る。ひとつ、細い黒い筋が視界を斜めに切る。そこに触れると、感覚の一部が戻ってくるような錯覚がした。だが聴覚はまだ薄い膜に覆われたままだった。何かを失ったという確信が、胸の底で固まる。彼の手に、血のような冷たさを感じる。掌を見ると、指先の皮膚が痺れていて、小さな爪の間に黒い粉がついている。夜航弩の反動は、これだけでは済まなかった。
避難が終わる頃、アリサは避難民の一人を支えながら、トオルとシオンとレイを見た。「こんなやり方は間違ってる。だが今は誰かが行動しなきゃいけない。あなたが選んだことを、私たちの責任にもする。」彼女の声は硬かったが、意思は揺るがない。
トンネルの外へ出た瞬間、空気が冷たく頬を撫でた。迷彩服の反転軍隊員が、装甲車の陰で再編成している。だが今は彼らを追い払う戦力を整える時間がある。避難民たち