光を偽る占い師は夜明けを疑う 第29話「巻末特別章」
海風が塔の鉄階段を鳴らす。冷えた塩の匂いと、まだ消え残る夜光の煤の匂いが混ざって胸をつく。レイナは手袋を脱ぎ、指先で塔の縁に貼られた金属板の凹みを確かめた。そこには見覚えのある文様――自分の術の符とも、どこか制度の刻印とも取れる線が、擦れた色で残っている。
海風が塔の鉄階段を鳴らす。冷えた塩の匂いと、まだ消え残る夜光の煤の匂いが混ざって胸をつく。レイナは手袋を脱ぎ、指先で塔の縁に貼られた金属板の凹みを確かめた。そこには見覚えのある文様――自分の術の符とも、どこか制度の刻印とも取れる線が、擦れた色で残っている。
「ここが、始まりであり終わりだろうね」カイが低く言った。背にかけた包帯と、使い込まれたハンマーの重みが彼の輪郭を硬くする。ミオは風を受けて黒いスカーフを翻し、紙束を抱えたまま塔の光をじっと見つめていた。彼女の目には、かつての偽光よりも生々しい朝焼けが映っている。
「私がやる」レイナは言った。声はほとんど紙のように薄く、それでも決意は濃かった。証綴り――当事者の証言を紡ぎ、呪いの“形”を他者の言葉として束ねる術。塔を介して都市全体に届くなら、偽りの光が撒いた虚構を一気に剥がせる。だが代償は既に皮膚感覚のように明るかった。使うたびに、彼女の内部から何かが薄く溶けていく。幼い日の波の音、カイと交わした取っ組み合いの傷の跡、誰かの笑い声――そういうものが一つずつ、か細く消えていく。
「強制するな」ミオが紙束をぎゅっと握り締めた。「私たちは選べるようにしないと。証綴りが全部を『救う』んじゃなくて、選ぶ力を返すんだ」
「選ぶ時間を与えている間に、連れ去られる者が増えるかもしれない」カイの声に怒りが混じる。彼の手がハンマーの柄をぎゅっと締めた。軍で見た光景が彼の胸を突く。無抵抗の人が連れて行かれるのを見過ごすことは、昔の自分と同じだという自責がある。
レイナは息を吸い、夜の冷気を肺に満たした。証綴りは、一度に何百もの声を結べるが、そのとき彼女の記憶の片や感覚が糸のように抜け落ちる。しかも、術を「救済」に転じて相手の意思を押し切る形に使うと、呪いは増幅する。彼女はそれを、前に一度見た。救われたはずの人々の皮膚に新しい斑点が広がり、夜ごと呻き声が増していった瞬間を忘れられない。
「どうして分かるんだ?」カイが問い詰める。風がそれを運んで塔の上で小さく擦れる。
「経験よ」レイナは笑いもしないで言った。「私は救った。相手の選択を剥がして『安全』に置いた。代わりに、あの夜から彼らは『夜』を見るたびに苦しむようになった。私の『善意』が呪いを分配しただけだった」
沈黙が降り、塔の下の街で薄い灯りが点滅する。彼らの後方で、かつて偽光に守られていた地区の人々が小さく集まり始めている。ミオが紙束を広げると、そこには同意の文と、短い証言の断片が並んでいた。彼女はそれを、一人ずつの名前の横に置いた。
「最悪の選択をするのは私たちじゃない。選ばれる人々だ。私たちが奪ってはいけない」ミオの声には震えが混じっていたが、揺るがない。彼女は一枚の紙をレイナに差し出す。そこには小さな手書きの署名があり、震える字で「自分で決める」と書かれていた。
レイナの指が紙の端に触れた。指先に紙のざらつき、インクの匂い。記憶の断片があった――幼い日のユナという名の友達、塩を撒いた朝食の味。しかし触れた瞬間、その味が薄れる。まるで指の間から砂が零れ落ちるように。彼女は慌てて目を閉じた。頭の中で、ユナの笑いがもう一度鳴るかもしれないと思ったが、音は攣れて途絶えた。
「これで、皆の意思を集めるの?」カイが言った。彼は救いたい衝動を抑えきれず、もう一度ハンマーを握る。
「いいえ」レイナは首を振る。「私の証綴りは、当事者の声を重ねて呪いの構造を可視化する。塔を使えば見えるものは一気に広がる。でも同時に、私の記憶は一枚ずつ抜けていく。――だから、私は一発で全部を救おうとはしない。人々の同意を集めて、彼ら自身の言葉で呪いを否定させる。強制しない。選ぶための光を返すの」
ミオが息を吐いた。紙束を抱きしめると、彼女は小さく笑ったような顔になった。「それなら、私が外で待つ。賛同する者の同意を取ってくる。カイ、あなたは――」
カイは唇を噛んで、短くうなずいた。彼の目に浮かぶ厳しさと優しさが混ざっていた。「分かった。でも、人が危険に晒されたら俺は行く。強制はしない。だが、助けを求められたらほっておけない」
三人の合意が出来ると、レイナは塔の中心に備えられた炉の前に立った。夜闇を切るような冷たい金属が、彼女の足元から伝わる。証綴りを始める前に、最後に自分の中の何かを灯しておこうと思った。ポケットから小さな布袋を取り出す。中には子どもの頃に作った小さな編み紐が入っている。触った感触を確かめるたびに胸に温かさが残った。
「これを」レイナは布袋をミオに差し出す。「もし私が……私が分からなくなったら、開けて。私が忘れても、誰かが私を知っている証として」
ミオは躊躇なく受け取った。指先で紐を撫で、紙束を片手に抱えた。「分かった。開ける頃にはあなたは別の人かもしれないけど、それでも」
レイナは深呼吸をした。証綴りを解くとき、彼女は声を使う。言葉は当事者の声を間に合わせるための糸であり、それに触れれば記憶が抜ける。だが今回は違った。彼女は言葉の間に「選択の空白」を編み込み、相手が返答する時間を意図的に作った。塔の内部の金属が短く響き、彼女の声が小窓に吸われる。
「ここにいる者の声を、聞かせてください」レイナの声は震えていたが確かだった。「私があなたの言葉を結びます。でも私があなたの意志を奪うことはしません。あなたが『拒む』なら、その意志を空にする。あなたが『従う』なら、それを尊重します。塔は光を返す。選択のための光を」
最初の声が届く。遠くの屋根から、揺れるロープの上で子どもが叫ぶように名前を呼んだ。続いて、夜勤を終えた看守の低い声。市場の老婆のか細い語り。誰もが一言ずつ、自分の恐れ、望み、拒絶を紡いだ。レイナはそれを織り、塔の光を粒子のように変える。光は幻ではなく、言葉の輪郭を持って空に浮かんだ。見上げる者には、光の中に自分の言葉が文字となって踊るのが見える。
だがその過程で、レイナは確実に何かを失った。編み紐の感触が指先から滑り、ユナの笑いがまた少し薄くなる。彼女はそれを飲み込み、次の声を呼ぶ。光は群衆の呼吸に応じて震え、夜の空に細い筋となった。
突然、塔の下で叫び声が上がる。カイのハンマーが地に落ちる音。続いて鉄の爪が壁に引っかかる音。誰かが暴力で同意を奪おうとしている。カイが駆け下り、ミオは紙束を素早く抱えて外へ飛び出した。レイナは心臓が跳ねたが、手を止めなかった。塔の光はもう、単なる装飾ではない。声を束ねるたびに、彼女の身体は薄くなっていくが、その薄さが街に回る度に誰かの選択の幅が広がっていた。
カイの怒声が消え、代わりに低いうめきが一つ。肩越しに見下ろすと、彼は床に膝をつき、腕に血が滲んでいる誰かを抱えていた。助けを求めた者は強引に連れ去られようとしていたが、抵抗して自由を選んだ。まるでその瞬間、ミオが集めた同意の紙が誰かの手を引いたかのように。
塔の光は薄く、しかし確かに変わっていった。以前のような均一で強い照り返しではなく、個々の粒が見える。人々の一つひとつの空白が、光に穴をあけ、そこから本当の朝が差し込むかもしれない隙間を作っている。
だがレイナの視界は白く滲み、紐の感