心臓を借りる兵士は生まれ直さない 第4話「第3章」
薄暗い納屋の床に、証言を束ねたときに生じた糸がまだいくつも張り付いていた。黒い絹のように光を吸うその糸は、レンの掌から逃げるように床板の隙間に絡まっている。彼が最後に見たのは、老女ユネの目だ。訴えの終わりに浮かんだ安堵の表情は、糸が結ばれた瞬間に薄れて、そして消えた。
薄暗い納屋の床に、証言を束ねたときに生じた糸がまだいくつも張り付いていた。黒い絹のように光を吸うその糸は、レンの掌から逃げるように床板の隙間に絡まっている。彼が最後に見たのは、老女ユネの目だ。訴えの終わりに浮かんだ安堵の表情は、糸が結ばれた瞬間に薄れて、そして消えた。
「ユネ!」 はなは慌てて老女の肩を揺すった。薄い布の下で胸の鼓動は弱く、指先で触れると冷たい。呼吸は浅く、時折、喉の奥から泡のような音が混じる。
「......あいつらが、取ったんだ。子も、田んぼも、心も」 ユネの口元で言葉が崩れる。顔の輪郭が、レンには見えないほどふわりと溶けた。そこにまとわりついていた記憶の糸が一本、断ち切られたのだとわかる。切れた瞬間、ユネの姿は輪郭を失ってゆっくりと滲み、周辺の空気がひんやりと波打った。
レンは懐から短鋭の銀針を取りだした。金属の冷たさが彼の指を通して骨の奥まで吸い込まれるようだ。糸はまだ彼の掌に繋がっている。視界の片隅で、はなの目が赤く光っている。ミラは額に手を当てて、吐き気をこらえていた。タイガが床に膝をつき、拳を握りしめる。納屋の外では、村人たちが押し寄せる足音が遠ざかる。一瞬の静寂のち、誰かが低く唸った。
「レン、あれは........」 はなが言葉を切る。彼女の声は震えていた。 「あの人は——『救済』を受けたんですか?」
レンは針を握る手に力をこめる。過去に「救済」と呼ばれた儀式のことを、彼自身が誰よりも嫌というほど知っている。救済。名は美しく、実体は残酷だった。選んだはずの生を奪い取り、別の形へと塗り替える。それは誓いであり監獄であり、王と教団と軍が手を取り合って維持した制度だ。
「違う。俺がやった」 レンは短く答えた。言葉に含まれる重さが、室内の空気を厚くする。 「証言を束ねた。ユネさんは、その連なりの中に結び目の一つだった。糸を結んだ瞬間に——救済の波が来た」
ミラは眉を寄せ、視線をレンの胸に落とした。そこには、細い傷跡が縦に走っている。胸の奥で、かすかな振動がある。レンはその感触を感じ取るたびに、自分の中に何かが削られていくような錯覚に襲われる。記憶の糸を繋ぐとき、彼は他者の心臓を「借りる」。比喩ではなく、感覚は確かで、鼓動を自分の内で宿すような感触が残る。
「借りるって......」 タイガが吐き捨てるように言った。 「それって、人の心を取るってことだろ? 取れば取るほどお前自身が減るんじゃないのか」
レンは針を握る手をゆっくり緩めた。銀針の先端に、微かな赤い汚れがにじんでいる。彼の中で、名前や匂いが滑り落ちる。気づくと、幼い日の弟の名前が一瞬、空白になった。記憶の端っこが剥がれるたび、彼は何かを失っていく。だがその対価として得られる力は、真実を束ねることだった。複数の証言を一本に繋げれば、それは誰が見ても疑う余地のない「事実」になる。
「事実を武器にするたびに、その代償が出るんだ」 ミラの声は冷静だったが、目に怒りが宿っている。 「証言を暴露すると、その『救済』が発動する。巻き込まれる人間が増えれば増えるほど呪いは強くなる。あの教団はそれを逆手にとって、真実を封じ込める仕組みを作った。あなたの力はそれを暴く一方で、救済の起点を刺激してしまう——」
はなが急いでユネの胸に耳を当てる。鼓動はもう、微かなさざ波に等しい。彼女の手は震えている。風が軒を叩いて、納屋の薄暗がりに影が揺れる。その影がひとつ、はなの手先に伸びる糸を映すと、レンは胸の中で何かが引かれるのを感じた。彼の手の中にある絹糸が、かすかに震える。見れば、糸の先端はユネの胸の中へと消えている。
「どうする、レン」 タイガの声がわずかに高くなった。 「これを放っておけば、ユネさんは死ぬ。お前の力が原因なら、お前が戻せるはずだろう? 救いを強制することでしか止められないのかもしれない——一度、それをやってみろよ」
「強制だと呪いは増す」 ミラが切り返した。 「救済を押し付ける行為自体が、この仕組みを肥やす。誰か一人を救うたびに、別の誰かが呪いの針に触れる。私たちがここでどんな選択をするかで、村全体がどうなるか見当もつかない」
レンは静かに床に膝をついた。糸の冷たさが彼の掌から胸へと流れ込むとき、心拍がひとつはっきりと増幅される。借りた心臓の鼓動は、彼の鼓動と混ざり合い、同時に彼の記憶を削ってゆく。幼い頃の歌、母の名前、祭りの屋台で食べた芋の味。そうした具体的なものが、じわじわと色を失っていく。消えた記憶は戻らない。
「俺は......生まれ直さない」 レンは低く、しかし確固たる声で言った。彼の言葉は自分自身に向けられている。生まれ直すこと——それがこの世界で最も甘美な逃げ道であり、同時に最も拷問めいた運命であることを彼は知っている。王権と教団が示す「再生」は、過去を無かったことにして忠誠だけを残す。レンはそれを拒否した。だからこそ、彼は戦い続ける。だが今日、目の前で人が溶けていく――それが彼の選択の結果だとすれば、拒否するだけでは済まない。
「俺のやり方は、他の誰かに命令を押し付けることじゃない。真実が出れば、人々は選ぶ余地を手にする。だが今は、ユネを見捨てるわけにはいかない」 レンは立ち上がる。その顔は硬い決意に満ちていたが、その目の奥に欠けた何かがある。 「一度だけ戻す。だが俺のやり方で、強制はしない。――ユネの意思、ユネ自身が戻ることを選べるようにする」
はなは泣きそうな声で「レン......」と呟いた。ミラは唇を噛んで、そして小さく頷いた。タイガは拳を開いて、床に爪を立てる。誰もが賛成しているわけではない。納屋の空気は、その微かな合意の熱で熱気を帯びる。
レンは糸を両手で取り直した。黒い絹が彼の指の間で滑る感触は冷たく、そして重い。彼は一度、胸の中で借りた鼓動を探した。そこには、ユネの短い鼓動と、自分がこれまで借りた心の重なりがあった。結ぶ別れの数だけ、彼の中の景色が薄れた。
彼は深く息を吸った。空気が喉を冷たく通ると、胸の中の振動が合図のようにピクンと答えた。レンは糸をユネの胸にそっと触れさせる。糸は皮膚に吸い付くように滑り、暖かい血の匂いが彼の鼻をくすぐった。ユネの目がかすかに開き、混濁した瞳がレンに向けられた。
「戻るか、自分で決めろ」 レンは言った。言葉は彼の中で反響し、やがて静かに消えた。ユネの唇が震え、古い記憶の断片が糸を伝って彼に流れ込む。幼い頃の炊き出し、夫の手、日々の重さ。レンはそれらをひとつずつ抱き止めようとしたが、抱えきれないものがあった。記憶は彼からも流出し、代わりにユネの断片が入ってくる。借りるという行為は二方向だ。誰かの記憶を借りれば彼の中の一つが消え、代わりに別のものが入る。
ユネは喘ぎ、顔を上げた。目に光が戻り、口からは小さな笑みが漏れた。はなは思わず膝から崩れ落ち、泣き出す。ミラの顔に浮かんだのは安堵と痛みが混じった複雑な表情だった。タイガは唇をかみしめたまま、目を逸らした。
だが、その喜びは長くは続かなかった。ユネの胸の奥にあったもの——それは、見慣れた紋様だった。小さな銀の輪が心臓の周縁に食い込んでいる。金属のリングには細