花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第27話「第二部幕間」
朝の光はアトリエの小窓から細く差し込み、床に散らばった落ちた花びらの縁を金色に染めていた。だがその花びらはすでに黒ずみ、紙のように折れ曲がっている。キャンバスの前に座るルカの指先は、昨夜の乾ききらぬ油絵具で黄緑と墨を混ぜた色に汚れていた。指先を舐めると、にぶい苦味が口の中に残る。湿った臭いは、絵具と土と、腐った花の混ざったものだった。
朝の光はアトリエの小窓から細く差し込み、床に散らばった落ちた花びらの縁を金色に染めていた。だがその花びらはすでに黒ずみ、紙のように折れ曲がっている。キャンバスの前に座るルカの指先は、昨夜の乾ききらぬ油絵具で黄緑と墨を混ぜた色に汚れていた。指先を舐めると、にぶい苦味が口の中に残る。湿った臭いは、絵具と土と、腐った花の混ざったものだった。
「起きたか」
カイの声が低く、アトリエの入口に立つミラの影とともに入ってきた。カイの軍服は、もうほとんど形だけの古い布切れに変わっているが、肩の張りと視線の鋭さは残っている。ミラは両手に布袋を抱えていて、その端からは新品の花の匂いが微かにした。新しい花の匂いが、この部屋の腐敗を際立たせる。
ルカはゆっくりと頭を振った。目の前のキャンバスには、いくつもの顔と風景が半透明に重なり合っている。村の広場。鉄製の箱。幼い女の子が抱く白い鳩。だがその最も中央にあるはずの、一番大切な一点がぼやけている。ルカは喉の奥から声を引き出したが、名前が出てこない。
「その、さっき話してた女の子の父親の名前……なんて言ったっけ」
ミラが眉を寄せる。カイは手を腰に当てて黙っている。ルカは確かに聞いたはずだ。父親は――母親の兄弟だったか。あるいは、隣村の長だったか。記憶の輪郭が、薄い紙のように透けていく。
「思い出せないのか?」
カイの声は苛立ちを押し殺していた。だが問いの先には同情がある。ルカは首を振る。自分の名前すらふと遠のくことがある。昨夜、彼が一枚に縫いとめた断片が多すぎたからだ。人の証言を絵に束ねるとき、ルカはその人の記憶の一部を自らの中へ招き入れる。彼の脳はそれを宿泊させるために自分の古い引き出しを空にする。だがそれを言葉にすることは、仲間の前でも彼にとって苦痛だった。言葉にするたびに、また一つ何かを忘れてしまう。
「今度は、強制救済を受けた老人の話を入れた。彼の記憶は強かった。だが……」ルカは指先でキャンバスの縁をたどる。そこに描かれた老人の瞳はやけに生々しく、彼の声が脳裏で再生される。老人は自分の家を失くしたと喋った。だが顔の輪郭を描き上げた途端、ルカの右手の付け根に小さな痛みが走り、同時に窓辺の植木鉢の花が綻びるように黒く変色した。
「また広がったのか」
ミラが指差す。植木鉢の白い小花の先端が、紙のように縮み、触れるとカサカサと音を立てる。花弁が指にこびりつく。ミラは即座にハンカチを押し当て、そっとつぶやくように吐いた。
「強制に晒された記憶は、呪いを呼ぶ」カイが言った。「誰かが『これで救われた』と感じることを強要すれば、腐敗は跳ねる。昨日の都市の騒動――あれだ。あれは偶発じゃない。大量の“救済”が一斉に行われたからだ」
ルカはその言葉を受け止めたくなかった。だが自分の手の中の感触が、それを否定させなかった。彼の絵に取り込まれたその老人の記憶は、拒絶されるべきものを拒絶せずに絵の中で整えた。老人が受けた「救済」を、村人たちがどう語ろうとも、その語りは強く、そこにある痛みを無理に解釈してしまう。ルカの絵が真実を見せるほど、現実の“救済”は物理的にも社会的にも拡張される。救いを強く演出すればするほど、害は増すのだ。
ミラが袋から一枚の破れた写真を取り出した。そこには祭壇の前で微笑む「英雄」と、見知らぬ多数の顔が写っている。写真の端に付いた黒い汚れは、乾いた花びらの屑だ。ミラはそれをそっとテーブルに置き、声を震わせる。
「この写真をあの村で見せれば、彼らは崩れる。受け入れてしまう。救済の儀式に縋るだろう。でも、ルカ……あなたがそれを描けば、その受け入れが現実の毒になる」
ルカは筆を拾った。筆先はまだ僅かに乾いておらず、触れると柔らかな抵抗を感じる。彼は目を閉じ、老人の話した一節を反芻する。鉄箱を開けられなかったときの音、女の子の名前を呼ぶ声、そして――これを呼んでくれた母の声。だが「母」の語感もまた揺らいだ。どれが自分の声で、どれが誰かの声か。彼は混乱の中で口の端を動かした。歌の一節を思い出そうとして、出てきたのは知らない方言の短い断片だ。自分の母が歌っていたのは、もっと穏やかな旋律だったはずだ。
筆がキャンバスに触れる。色が広がり、老人の瞳が一瞬鮮烈になる。老人の記憶が確かになると同時に、部屋の温度が変わる。窓の外で風が立ち、遠くから人の声が聞こえた。声は奇妙に朗らかで、人々が何かを受け入れたときの音と似ていた。ルカの胸の中で、古い写真の縁に書かれた文字が薄れていった。彼は焦って手を引っ込めるが、キャンバスの中央の空白はもう塞がれている。
「やめろ!」ミラが叫んだ。声は震え、ポケットにある電話のような小さな器具を握りしめる。彼女はルカからキャンバスを奪おうとしたが、ルカはぎゅっと筆を握りしめた。彼が描いた線には抵抗があり、キャンバスはまだ熱を持っている。触れた花びらが、気付けばまた一枚、テーブルに落ちて黒く砕けた。
「証言をまとめるのを止めるわけにはいかない」ルカは低く言った。「でも……分かってる。これで誰かの意思をねじ曲げたら、もっと酷いことになる」
カイがゆっくりと前に出た。彼の手は古傷で硬くなっているが、動作は丁寧だった。カイはルカの肩に触れ、静かに言う。
「証拠は必要だ。だが今のやり方は爆弾だ。力を使う時は、誰がそれを受けるかを見極める必要がある。強制は敵と同じ手段だ。お前はそれを嫌っている。だからこそ、選ばなくてはならない。強く示すのか、弱く示すのか。あるいは──違う方法で示すのか」
ミラの目が光る。「私は弱く示す方法なんて信じない。弱く見せれば、あいつらはまた同じことを続ける。人は明るい嘘に飛びつくんだ。私たちが投げるのが小さな光なら、彼らはそれを英雄と呼ぶ」
「その小さな光で何人が犠牲になる?」カイは問い返した。「お前の兄弟が、ルカの筆で作られた“救済”を受けて消えなければいいが」
沈黙が落ちた。ルカはキャンバスを見下ろす。そこに描かれた老人の瞳は、徐々に湿りを帯び、見る者を呼んでいる。彼の能力は真実を見せる。だが“見せる”ことが必ずしも自由を生むとは限らない。見せられた者が、どう反応するかは分からない。強制された救済は、まるで触媒のように呪いを増殖させる。
外から泥を踏む足音が段々と近づいた。小さなノックが扉を打つ。アトリエの空気が瞬時に凍る。ルカは反射的に筆を離し、残りの色を手の甲で拭った。扉の向こうの低い声が言った。
「ミラさん、カイさん、ルカさんか。報せを持ってきた。都からの使いだ。英雄が三日のうちに――中央の大聖堂で『清め』の式を行う。村から都市まで広げる大規模な式らしい。これはただの式じゃない。勢いで『救済』を一斉に行うつもりだ」
部屋全体が息を吸い込んだように静かになった。ミラの手が震え、カイは目を閉じて一度だけ深くため息をついた。ルカはキャンバスを両手で抱きかかえたような気になり、胸の中にぽっかりと穴が開くのを感じた。穴の中から、かつて家で聞こえた笑い声が消え去っていく。
「三日後に一斉に『救済』だと?」ルカは言った。声は紙切れのように薄い。「あれが行われれば、呪いは……どれだけ広がるか分