花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第20話「第18章」
雨の跡が屋根を叩く音が、薄暗い部屋の中で反芻した。窓際に置かれた小さな鉢植えの菊が、白い花弁の縁から黒ずんでいく。蒼く細い筆を持った榊蒼介は、その腐敗に手を止められたように息を吐いた。筆先にはまだ、昨日混ぜたままの黄色の絵具が残っている。絵具の匂いと油の喉を刺す匂い、そして腐った花の湿った匂いが混じって、部屋に厚みを与えていた。
雨の跡が屋根を叩く音が、薄暗い部屋の中で反芻した。窓際に置かれた小さな鉢植えの菊が、白い花弁の縁から黒ずんでいく。蒼く細い筆を持った榊蒼介は、その腐敗に手を止められたように息を吐いた。筆先にはまだ、昨日混ぜたままの黄色の絵具が残っている。絵具の匂いと油の喉を刺す匂い、そして腐った花の湿った匂いが混じって、部屋に厚みを与えていた。
「蒼介、今ここであの絵を出すのか?」声はリクのもので、低く硬かった。壁沿いのベッドに腰かけた彼の手には、泥の付いた古い兵士の手袋が握られている。手袋の掌に、英雄章の欠片が縫い付けられていた。光を受けると、金属は古い神殿の灯火のように鈍く光る。
ミレイは窓際に立ち、背を向けたまま答えた。「私は――公開された救済になど、なりたくない。あんたの絵は、人を奪い去る。『救った』あとで、私たちはその人の決める余地を奪う。私はそれを受けたくない」
蒼介は指先を絵布に走らせながら、静かに言った。「救済は増幅する。証言を束ねれば束ねるほど、その人が『救われた』という事実が呪いの力を伸ばす。君を無罪にするために百の声を縫い合わせれば、百の人の自由を奪ってしまうかもしれない」
ミレイが振り向いた。濡れた髪が一筋、額に貼りついている。顔には確固とした疲労と、投げ出されたくない意思が混ざっていた。彼女の目に映る蒼介は、キャンバスに向かう者そのものではなく、いつも抱えている代償そのものだとでも言うように、薄暗い。
「だったら、証拠を集めて来い。私をここで晒すより、誰かを捕まえてこい。私は自分の意思で動く。もう二度と人の『手当て』で縫い合わされるのは御免だ」
「証拠――」蒼介は指先で絵布を撫でた。布地はまだ湿っていて、描いた跡が指の下でざらついた。彼の能力は、実際には『描く』ことでしか発動しない。絵布の上で重なり合った言葉や匂い、触れ合った指先の感触を縫い合わせ、見える形にする。だがその縫い目は、蒼介自身の記憶を引き抜く。どれだけ太い糸を使うかで、彼が失うものの量が決まる。さらに、描かれた救済が大きければ大きいほど、そこに触れた者は解放ではなく「依存」へと傾きやすくなる。彼はそれを嫌っていた。嫌っているのに、幾度も使ってきた。
リクが立ち上がり、手袋を机に投げた。金具が小さくぶつかる音が甲高く響く。「リスクは承知の上で言ってるんだ。だが、今は時間がない。公衆の場で君の絵を出せば、二日で騒ぎは収まる。英雄の側近が仕掛けた証拠なら、露出すれば潰せる」と彼は言った。
蒼介は首を振った。胸の奥が冷え、砂のように細かいものが落ちていく感覚がした。彼はこの感覚を「抜け」と呼んでいた。抜けは小さい時には親の声、もう二度と戻らない時間に結びついていた。大きくなるほど、戻らないものは大事な過去や顔つき、匂いになる。
「それでも、君は自分の記憶を何度も捧げる。君が忘れると、私たちのことも忘れる。どれだけ真実を並べても、語る者が君一人になれば意味は薄くなる。私は――」ミレイの声が割れた。「私は自分で傷を背負う。誰かの『救済』のために、自分の意思を盗まれるのはまっぴらごめんだ」
蒼介は筆を鉢の向こうにあるキャンバスに落とした。そこには、既に薄く下描きがあった。ミレイの横顔、目を閉じたあの角度。蒼介はその顔を描くことで、ミレイの言葉の断片を結びつけるつもりだった。小さな『個人の証言』を一つだけ縫い合わせる。公開はしない。ミレイが望むなら、証明は必要最小限だけでいい。
彼は筆に力を込めた。筆先が布地に触れる瞬間、部屋の空気が重くなる。蒼介の能動が働いたときだけ、花は腐る。小さな奇妙な法則だ。描く行為が本物の結界に触れ、物質世界に影響を与える。描かれた花は萎れ、実在する花はその先端から黒くしぼみ、やがて土へと還る。
最初の一筆で、鉢植えの菊の一片が音もなくしわ寄った。ミレイが息を詰めるのがわかった。リクの瞳が針のように光る。「やめろ。全部出すんじゃない。小さく。彼女の承諾を、ただ形に留めておけ」
蒼介はうなずいた。彼は言葉ではなく、手の動きで同意を示した。だが絵は嘘を付かない。小さな個人証言でも、蒼介の胸から何かがそぎ落とされる。最初に抜けたのは、子どもの頃に祖母が弾いてくれた琴の曲だった。音の名前が彼の中から消え、空っぽの穴が耳の奥に開いた。彼はそれに気づき、焼けるような痛みを感じたが、筆を止めなかった。
「名前を言って」ミレイが低く促す。彼女は自分のことを言葉にする準備をしていた。蒼介はミレイの顎のラインを紙に写しながら、彼女の声を引き出す。ミレイは喉を鳴らし、小さな単語を押し出した。出自、日付、軍の配置、夜の行動。それは真っ直ぐで、刃のように鋭かった。蒼介はその言葉を拾い、顔の影へと縫い込んだ。
絵の中で、ミレイの目がゆっくり開き、そこに薄い文字が浮かんだ。蒼介の筆跡が声を紡ぎ、文字は揺れ、やがて形を作った。リクが顔を近づけ、顎をぴくりと動かした。「これで――」
蒼介は叫ぶ代わりに小さく嗚咽した。片手を額に当てると、寒さが指先から脳へと登る。祖母の琴だけでなく、幼い日の友人の顔の輪郭がぼやけて消えかかっている。名前が思い出せない。彼は指先で額を押さえ、忘れることの痛みを数えた。
「もうやめろ」とミレイが言った。それは命令ではなく願いだった。彼女は絵を見つめていた。キャンバスの横で、ぎりぎりと白い線が紙の上で震えている。そこに、彼女の名前が半ば描かれ、半ば消えかけていた。文字の一部がキャンバスの繊維の中に吸い込まれていくようだった。蒼介はその揺れに気づき、ようやく筆を止めた。
部屋に静寂が戻る。菊の残りの花びらは黒い斑点を増して、乾いた砂のように欠け落ちていった。彼は手を見た。指先に絵具の跡がついている。だが肌触りがいつもと違う。どこか、昔に触れた布の感触を思い出せない。
ミレイは近づき、キャンバスに差し伸べられた小さな証言の断片を見た。そこには彼女の声が閉じられている。公開されれば十分な力を持ちうるが、蒼介の覚悟は小さく、綴られた糸は少なかった。リスクを最小限に留めるための折衷案だ。
「これは――」ミレイの手が絵の縁に触れた。指先が絵布を撫でると、文字の消えかけた部分が微かに戻ったように見えた。蒼介はそれを見て、胸の奥の何かが締め付けられるのを感じた。彼は自分の記憶が縮むのを、防げなかったことを知っていた。だがそれは、彼女の選択を尊重した証でもあった。
そのとき、リクがテーブルの上の手袋をつかみ直し、何かを見つけた。彼は指先で布をはがし、小さな紙切れを取り出す。紙には薄墨で、誰かの走り書きがある。蒼介はそれを見ると、胸の奥が凍るような違和感に襲われた。墨のしみの中に、見覚えのある紋章があった。英雄章とは異なる、細い十字のような模様。蒼介はその紋を見ると、ふと頭の中に断片的な像がよみがえった――別の「絵」が、誰かにより作られ、送り付けられた。
「これは……誰がこんなものを?」ミレイの声が震えた。
リクは紙を握りしめ、不機嫌そうに唇を噛んだ。「英雄側が仕組んだ偽装だ。だがこの紋章は俺の調べで見たことがある。――『白糸会』。外部では伝えられない、王室直属の裏部隊だ。彼らは噂通