月を裁く鍛冶師は人間でいる 第9話「第8章」
鉄敲の音が夜を裂いた。小鍛冶場の天井に開いた一つの穴から、月光が細い刃のように差し込んでいる。燐(りん)はその光を叩き、火花を飛ばす。打撃のたびに飛散する火の粉が、まるで月が割れた断面の欠片のように宙を舞った。村人たちは作業台の周りにうずくまり、誰もが息を詰めている。
鉄敲の音が夜を裂いた。小鍛冶場の天井に開いた一つの穴から、月光が細い刃のように差し込んでいる。燐(りん)はその光を叩き、火花を飛ばす。打撃のたびに飛散する火の粉が、まるで月が割れた断面の欠片のように宙を舞った。村人たちは作業台の周りにうずくまり、誰もが息を詰めている。
「もっとだ、木戸の――」ハナエが叫んだ。声は震えているが、決意が混じっていた。彼女は泉蔵村の顔役であり、臆病とは無縁の女だった。斜めに差し込む月光が、彼女の頬の脈打ちを白く浮かび上がらせる。
「無理だ、いま無理をすれば――」サイが割って入る。前線で戦っていた傷跡が手に刻まれている男だ。彼の視線は炉の奥の一群に向けられていた。そこには、呪いの痕を示す黒い筋と、うずくまる人々。息をするたびに皮膚の縁が縮まるように見える。
燐は火床の端でハンマーを止め、冷たい息を吐いた。彼の右手首には、薄く浮かぶ銀の線がある。能力を使った印だ。彼が「証綴(あかしつづり)」と呼ぶその術は、当事者たちの記憶を束ね、誰が何を見たかをその場に映しだすことができる。ただしそれは道具ではなく刃であり、切れ味は自分の内側へも向かう。真実を武器に振るうほど、彼自身の過去が削れていく。さらに──他者の救済を強制するような使い方をすると、呪いは跳ね返り、増幅する。彼はそれを何度か学んでいたが、ここでは選択の余地が少なかった。
「誰か、証言を!」ユウコが小さく叫んだ。記録係であり、燐の能力を補佐する女だ。彼女は震える指で、被害者たちの名をひとつずつ呼び上げる。数人が無理に顔を上げ、かすれた声で自分の見たことを繋ぎ始めた。床に落ちた膝が軋む。燐の胸の奥で、微かな糸が引かれるように感覚が動いた。
彼は目を閉じ、耳をすます。ユウコの声、ハナエの呼吸、サイの無言の圧力。口々に語られる断片が、燐の内側で絡まり結びつく。冷たい風が炉の隙間から吹き込み、銀色の触手のように、他人の記憶の一節が燐の指先に絡みついた。子供の泣き声、崩れる屋根の匂い、月の下で交わされた約束。鮮烈で、どうしようもなく「真実」だ。
「見せてくれ」と燐は低く言った。彼はハンマーを置き、両手を伸ばす。掌に、――触れたことのないはずの、しかし確かな感触として、誰かの手が残った。冷たく薄い布の感触。幼い頃に抱かれたような温もり。だがそれが誰のものだったか、燐は即座に答えられない。名前がふっと霧散した。
映像のように、村の出来事が立ち上がる。路地で叫ぶ女の姿。月光が鋭く彼女の輪郭を切り取る。そこに映るのは「誰が」傷を受けたかだけではなく、「なぜ」その場で助けが行われなかったのかという制度の断片、恐れの連鎖、密やかな交換の場面。燐はそれを広げ、村人たちに見せた。目の前に映る事実は拭いきれない。役場の役人が通行税を徴収する場面、救援物資が兵の所へ優先的に回る図、村の外れで密やかに奪われる食糧。人々は声を上げ、怒りが空気を震わせた。
「彼らをここで隔離して、呪いを切り離すんだ!」ハナエが叫んだ。誰かを切り離すことで、被害の連鎖を断つ。つまり、救いのために分断を受け入れるという選択だ。村人たちの目は希望と恐怖で揺らぐ。救われる者もいれば、置き去りにされる者も出る。燐は見せられた真実をもって、決断を促される立場に立たされた。
彼は、ある判断を下した。全員を一度に移動させるのは不可能だ。ならば、まずいま動ける若者と負傷の軽い者を運び出し、医療の手が厚い隣村の鍛冶場へ急ぐ。残された者には簡易の結界を施し、夜が明ければ回送を続ける──。言葉は理路整然としていた。だが燐の手が再び銀の印を描いた瞬間、空気がぎゅっと締まる感触が彼の内側に走った。彼は自分の母の指の匂いを思い出せなかった。夕食に出された小さな梅干しの酸っぱさ、幼い頃に覚えた英雄譚の一節。そこにあったはずの断片が、まるで細い砂のように溶けていく。
「止めてくれ、燐」サイの声が冷たくなった。「強制はいつも、悪い方へ転ぶ。前にやったときと同じだ」
記憶が削れるたび、燐はその痛みを体で受け止める。だが今は、誰かが床を叩いて血を流すかもしれない。目の前の足りない医療と不足した食糧が、彼の選択を急かした。燐は吠えるように命じた。
「われわれは運ぶ。いま動ける者は、ここを出るんだ!」
指示は速かった。若者が担架を組み、負傷者を運び出す。月光が切り裂くように彼らを照らす。だが、移送が進むに連れて、空気の粘度が変わった。残された者の体表にあった黒い筋が、まるで呼吸するかのように広がり始める。最初は傷口の縁に張り付いていた薄いモヤが、周囲の人皮に移っていく。移された者の肩越しにいた者へ、抱きついた者へと。疑わしい接触が、目に見える形で呪いを伝えてゆく。
「増えてる……!」ユウコが叫んだ。言葉は呪文のように冷たく、村の空気を震わせる。負傷者の一人が、担架から滑り落ちた。彼の胸に走る筋が爆ぜるように黒を散らし、付き添っていた老女へ跳んだ。老女は苦悶の声を上げ、手を伸ばして誰かにすがろうとしたが、指先から黒い糸が伝い、周囲の人の皮膚に縫い付いた。叫び声が連鎖する。
燐は掌を握りしめた。喉の奥に酸っぱいものがこみ上げる。彼の中で、昨日まで確かなはずだった記憶が一つ、また一つと薄れていく。師匠が初めて与えた鉄製の小さな櫛(クシ)の手触り、幼い頃に見た祭りの提灯の動き、ある日の恋人の笑い声。思い出そうとしても、そこには輪郭しか残らない。彼は救済を急ぐことで、呪いそのものを波及させてしまったのだ。強制的な「今すぐの救済」が、逆に感染を助長した。罪が骨の内側で重く沈む。
炎の照り返しで、月の光が鍛冶場の床に大きな弧を描いた。人々はその下であたふたと動き、混乱の群れを作る。まるで村全体が月を裁かれているように見えた。燐はその弧に手を伸ばしたが、指先は何もつかめない。彼の中の幼い日の情景が、砂のように指の隙間から零れ落ちた。
「責任はみんなのだ、燐だけのせいじゃない」ハナエが言った。だがその声には怒りと不安が混じる。彼女は燐を責めないと自分に言い聞かせるようだった。サイは鼻を鳴らし、鍛冶場の入口を睨んでいる。
数時間後、事態は収束のように見えたが、それは形だけの静けさだった。数人の命が失われ、黒い斑点は村の周縁に残り、移った者たちの中にうずまいている。燐の失った記憶は、確かな凹みを彼の胸に残した。彼は椅子に腰かけ、無言で自らの掌を見つめる。銀の線が、まだ微かに脈打っている。
「どうして……どうしてあんな風に広がったんだ」ユウコが言った。記録係の手は震えていた。彼女は燐の目を見ようとするが、視線を逸らす。
ふと、鍛冶場の外から走り込んできた男がいた。黒く焦げた布を抱え、顔には泥と煙の跡。サイに続いて別働隊を出していた若手の一人、カズだった。
「燐様! 来てください、見てください!」カズは息を切らしている。手に持っているのは小さな鉄板だ。表面は焼けて黒ずみ、ところどころに深い刻印があった。だがその図柄を見た瞬間、燐の胸が収縮した。刻印は、彼が証綴を使ったときに空気に浮かんだ銀の線と同じパターンを描いていた。何層にも重なる輪郭が、月の欠片を模したようだった。
「何だこれは?」