死者を数える密偵は破滅の儀式を止める

死者を数える密偵は破滅の儀式を止める 第6話「第5章」

薄暗い回廊の空気は、湿った布と線香の残香で満ちていた。足音を殺して進む一行を、壁の陰が吸い込む。朔(さく)は息を浅くし、掌の中の小さな写真を指先で確かめる――黄ばんだ四つ切りに収まった、小さな笑顔。幼い妹の写真だ。ポケットの中で紙は冷たく、心臓の鼓動がそれに合わせて小刻みに跳ねる。

薄暗い回廊の空気は、湿った布と線香の残香で満ちていた。足音を殺して進む一行を、壁の陰が吸い込む。朔(さく)は息を浅くし、掌の中の小さな写真を指先で確かめる――黄ばんだ四つ切りに収まった、小さな笑顔。幼い妹の写真だ。ポケットの中で紙は冷たく、心臓の鼓動がそれに合わせて小刻みに跳ねる。

「あと三十メートルで中央室だ。監視は一周ごとに入れ替わる。沙良、右扉の鍵を頼む」雄也の声は低く、しかし確固たる指示だった。沙良(さら)は薄暗がりに溶けるように壁に近づき、細い道具を取り出す。金属が撓むような音、小さな成功のときにだけ漏れる息。扉が吐くように開いた空気に、より濃い臭いが混じる──防腐と薬草、そして人の死の匂い。

中央室は想像よりも広かった。規則正しく整列した棺、ガラスケースの中で白布にくるまれた身体が並ぶ。壁一面に刻まれた符号と、低く脈打つ器具の音。真ん中に据えられた箱型の機械には、細い線が四方に伸びていた。それは教団の「証言増幅器」。葬に付された「数」を都市の広場で示すための装置だと、情報屋から聞かされていた。

「これを使えば、死者の言葉が生者の口となって流れる」ミオが囁く。彼女は機械のパネルを覗き込み、暗い画面に指を滑らせる。朔はその横顔を見た。寝不足の影、しかし決意に囚われた線が顕著だった。

作戦は単純だった。葬所に眠る"数"――教団が把握する死者の数と、その最期に与えられた「祝福」の実態を、公開する。朔の能力は、その「数」を声に出して数え上げることで、死者の目に見えた真実を生者の言葉として束ねる。だが、それは完全な魔ではない。朔自身が何度も言ってきた制約が、ここでは鮮烈に試される。

「朔、準備は?」雄也が肩越しに訊く。朔は小さくうなずき、写真をぎゅっと握る。ポケットの温かさが一瞬だけ安心を与えた。

「いく――一、二、三」最初の声は出鼻をくじかれるように震えた。朔が一の数を吐いた瞬間、空気が締めつけられる。ガラスケースの中から薄い声が漏れた。老女の嗄れた吐息が、朔の耳に直接入ってくる。「私たちは選ばれたわけじゃなかった。子どもを預けると、戻らなかった」その一言が、機械を経て外へと流れた。

聴覚だけではなかった。朔の視界が一秒だけ白く弾けた。世界の色が剥がれていく感覚、舌の上に金属が溶けたような味。指先から、写真が滑り落ちる音が床に響いた。朔は反射的にそれを拾おうとしたが、その瞬間、妹の顔の輪郭が突如として消えた。髪の色、笑い声、名前は残る。だが、顔がない。空白の穴が胸に開く。

「朔?」沙良の手が朔の腕を捕まえる。そこに温度があった。朔は妹の名前を口に出してみる。「ミユ……」だが、声に寄り添う像はない。手探りのように頭の中で探ると、写真の白い四角の中にあるはずの細部が、跡形もなくなっていた。

「どうした、顔が――」雄也が言いかける。朔はかすれた笑みを作った。目の前で、機械のインジケータが第二の証言を求めて赤く点滅する。計画は半分も終わっていない。外には午前零時の街灯が薄く光っているだけで、時間は味方しない。

「止められない。彼らを、知らしめるんだ」朔の声は遠かった。彼自身がそれを言った時、自分の声が冷たく聞こえた。次に数を口にすると、また一つ、声が返ってきた。若い男の荒い息。「徴用の名は"祝福"。家から連れて行かれ、帰ることは許されなかった。署長は笑った」録音機の波形が機械のスクリーンで跳ねる。外部の小さな中継器が受信を開始し、遠くの数点に向けて信号が漏れ始める。

声を拾うたびに、朔の頭の中の記憶は一部ずつ蒸発していった。子どものころの匂い、初めて自転車に乗れた日の膝の擦り傷、母の手の平の温度――それらが滑り落ち、空洞ができる。代償が失われるのは「重要な記憶」である、と彼は知っていたが、何が消えるかは予測できなかった。だからこそ、写真を持っていたのだ。だが、写真の顔そのものが奪われた。

ミオがそっと近づき、朔の手を取った。冷たい指先。彼女の眼が光る。「朔、止めて。もう十分だ」その声には震えがあった。それは仲間の恐怖でもあり、倫理の叫びでもあった。朔の中で何かが裂ける。だが、その裂け目の向こうにある現実が、もっと大きな痛みを予感させた。

「もし止めたら、彼らはまた明日の朝、何も知られずに式を――」雄也が言葉を継いだ。声が低い。刀を振るう手のように無言の決意が彼の背にあった。

朔は息を整え、三つ指を立てるようにして次の数を呟いた。その声には、かつて妹と交わした約束のリズムがあった。数が進むにつれて、教団の行為の輪郭が明瞭になっていく。誰かが病院から消え、誰かが伝染病を理由に隔離され、誰かは「破滅の儀式」用に特別に選ばれていた。証言は一つ一つが鋭利な刃となり、制度の隠蔽を引き裂く。

だが外れ値のように、一つの声が朔の耳に直接触れてきた。低く、知っているはずの声。朔は数を詰まらせ、機械が一瞬唸る。ガラスケースの奥から、その声がこぼれ落ちた。「覚えているかい、掌にある小さなかけらを。顔を奪うのは祝福の一部だ」刃がぎしりと噛み合ったように、部屋の空気が凍る。朔の指が白く硬直する。彼は自分が犠牲を払っている理由を、初めて他者の言葉から提示されたかのように感じた。

「これは偶然じゃない」ミオが息もつかず言った。「教団はこの方法で"数"を増やしてきた。証言を隠すことで秩序を保ち、代償を管理している。朔が使う力と、同じ仕組みだ」

その瞬間、朔の胸に凍り付く恐怖が走った。もし教団の儀式と自分の能力が同根であれば、彼が奪っている記憶は、教団が事前に犠牲として確保していたものなのかもしれない。だが、今はそれを考える余裕はなかった。外の時間が迫っている。

最後の数を口にしたとき、機械が高く悲鳴を上げた。増幅された声が、ほどなくして市外の小さなネットワークを介して広場へと届く。朔は自分の喉が枯れるのを感じた。写真が床に落ち、白い四辺がライトに反射して光る。そこに映っていたはずの顔は、欠けた穴のあるページだけが残る。

「終わったのか?」雄也が尋ねる。声に少し安堵が混じっていた。だが沙良の指先は震え、ミオはモニタを凝視していた。

「これで公になれば――」ミオが言いかけたとき、朔の目に一冊の綴じられた帳面が入った。棺の側、ほとんど埃に埋もれていた。表紙には教団の印。朔は震える手でそれを拾い、ページをめくった。

そこに書かれていたのは、ただの死者の名簿ではなかった。月ごと、日ごとに区分けされた「数」の予定表。次に"数えられる者"として刻まれた名前。場所。時間。なにより、最後の欄に、一言だけ。『一身代償の儀――第四群 夜明け』。

朔の胸が、再び引き裂かれた。儀式の予定が、明日の夜明けに組まれている。そこに組み込まれている人数は、この都市の一区画を覆い尽くすに足るものだった。朔は紙を押し付け、指で字をなぞる。「夜明け……第四群」

ミオが顔を上げた。「これを待っていたんだ。彼らは数を蓄えて、一定量になれば儀式を行う。数を公にすることだけが、止める方法だ――だがその代償は──」

「わかってる」朔は断じた。声は掠れていたが、揺るがない。彼はポケットの中の写真をもう一度、手の平に乗せた。顔はな