死者を数える密偵は破滅の儀式を止める 第29話「巻末特別章」
祭壇の跡は、まだ灰の匂いを吐いていた。半壊した柱の影が長く伸び、風が断片的な祈りをつまみ食いするように紙片を撫でた。鏑木セイはひざまずき、掌の上に載せられた小箱の蓋をゆっくり押し開けた。中には土に触れてナマリ色に変色した子供の編み靴、縫い目のほころびたリボン、煤けた手帳の切れ端──それらが彼の指先の下で熱を帯びるように感じられた。
祭壇の跡は、まだ灰の匂いを吐いていた。半壊した柱の影が長く伸び、風が断片的な祈りをつまみ食いするように紙片を撫でた。鏑木セイはひざまずき、掌の上に載せられた小箱の蓋をゆっくり押し開けた。中には土に触れてナマリ色に変色した子供の編み靴、縫い目のほころびたリボン、煤けた手帳の切れ端──それらが彼の指先の下で熱を帯びるように感じられた。
「数えてくれ」声は震えていた。母親らしい女、ミオが膝を抱えてこちらを見上げる。頬にはすすの跡。目の奥に、まだ信じたくないものが燻っている。
セイは、一度息を吐いてから、掌の革の縁に人差し指を触れた。触れた瞬間、冷えた刺激が指先を通り抜け、掌に小さな光の点が浮かんだ。指先の付け根から小さな数字が灯る。淡い金色が皮膚の皺をなぞり、ひとつ、ふたつと瞬く。
「一、二……」
声は紙のように薄く、しかしはっきりと空気を裂いた。言葉ごとに、箱の中から空気が抜けるような音がして、目の前の空気に薄絵が浮かぶ。幼い声、金属のとげのような笑い、硝子が割れる高い音。記憶の断片が、風景の縁に貼り付くように映った──子供の小さな足、夜の井戸、祭壇に縛られた黒い布。
ミオの肩が震え、唇が震えてひとこと漏らす。「あの日のことを……」
セイはさらに数を進める。掌の数字は、右の薬指まで光を這わせ、四、五、六。各数字に応じて記憶がつながる。ミオの兄が朝に家を出て戻らなかったこと。村の門前に黒い券を配る男の影。幼い歌。歌の中で、セイは自分の胸のどこかが冷たくなるのを感じた。数えるたびに、幼い日のベンチの匂いが薄れていく。母の手の温度、かつて覚えた地図の一角、名前──どれかが霞む。
「止めろ」リアの声が低くなった。元巡察兵の彼女は、箱に向かって指を突き出し、手先の血管が浮く。「その場で公開して、外に出すのは危険だ。教団が本気で抑えに来る」
セイは指を止めない。数えることは彼にとって証言を具現化する唯一の方法だった。だが、その代償はいつも確実に差し出される。数えるほど、幼少の記憶の断片が薄れていく。忘れるのはいつも小さなことからだ。名前、匂い、指のささくれの位置──そしていつか、大事な人の顔の輪郭まで。
「いいか、セイ。約束するなら、俺たちでできる範囲を守る。強制的な救済はやめろ。呪いはそれで反応する、増えるんだ」カルが懸念の色を隠さずに言った。少年情報屋は、昨日までに集めた紙切れをぎゅっと握りしめている。彼の掌にも同じような数字の残像がちらついていた。カルはいつもそうだ。真実を知れば動くが、身体を張るかどうかは別問題だ。
ミオが、セイの目を見て言う。「お願い、忘れて欲しいの。兄が戻ってこなかったことを、毎晩思い出すのが辛いの。―あなたに、救ってほしい」
救済という言葉が空気を揺らす。セイは、口元に薄く笑みを浮かべてミオの手を取った。掌の温度が少し伝わる。彼の指先に残る数字が七まで来たとき、ある警告のようなざわめきが体内で鳴った。数を進めるにつれ、空気の中の影が黒く濃くなる。四方の壁の亀裂に、まるで紐が増殖するかのように文字が絡みつく。
「そこまでだ」リアが叫んだ。彼女の声は震えているが、決意を帯びていた。「強制の約束はしない。ミオ、もし救いを望むなら、自分の手で決めて。ここで俺たちが代わりに『救済』という名の楯を振るったら、呪いは反応して広がる。被害は倍になるだけだ」
ミオの顔がひきつった。選択の痛みが表情を濃くする。セイは数を続けたい衝動にかられた。自分が声を投げればミオの夜は変えられる。だが思い出の一片が、またひとつ薄れていく。彼は指折りの光を見つめ、心の中で母の歌を探したが、歌詞の一節がすり抜けた砂のように滑り落ちる。
「あなたは、何を守るんだ?」ミオが絞り出すように言った。「私たちを? それとも、思い出を?」
その問いは、過去の戦いで何度も刃を向けられたものである。セイは答えを準備しなかった。答えはいつも、喉の奥で変形していた。彼はゆっくりと手を引き、箱の角に触れたまま指を離した。数字は最後の八を示したまま、ゆっくりと消えていく。
「救済は、強制じゃない」セイは声を絞り出した。「誰かの痛みを消すために、他の誰かの未来を犠牲にしてはいけない。……だが、お前たちの選択を、俺は見える形にしたい」
彼の提案に、集まった者たちは息を呑んだ。セイは箱を開いたまま立ち上がり、靴やリボンを一つずつ村人の手に渡し始めた。彼が数える度に記憶は浮かんだが、今は彼一人の意思で完結させない。ミオが頬を伝う涙を拭い、手にしたリボンを握る。リアは警戒しながらも、箱のそばに立って見張る。カルは、紙を広げて路地の通行人に声をかける準備をしている。
「一緒に、数を重ねよう」セイは言った。「ここにいる全員で、目撃を合わせる。真実は独りで投げると呪いになるけれど、共有するなら──」彼は言葉を切った。言い切れない部分を、彼らの顔が補ってくれることを願った。
そのとき、箱の外側の底に貼られた一枚の紙片が風にはらりとめくれた。煤けた紙には、かつて誰かが書き残した小さな数字の羅列と、見覚えのある印章の痕があった。印章は王都側のものに似ていた。カルが紙を拾い上げ、眼鏡の奥で文字を走らせる。
「これは……次の場所だ」カルの声が震えた。「『九時の門』──しかも、日付が明日の朝、だって」
その言葉に、空気が凍るように固まった。明日の朝。門。黒い券の循環が、次の輪を始めようとしている。
ミオは顔を青ざめさせる。リアはすぐに銃床に手をかけ、戦術のことを考えはじめる。だがセイは、掌に残る冷たさを感じた。指先にはもう一度数字が淡く浮かんでいる。数えるなら、また何かを失う。だが放っておけば、他の命が囚われるだろう。
風が箱の切れ端をめくり、そこに小さな書き込みがあるのを誰かが見つけた。小さな字で「選べる者が守る」と書かれている。字は震えていたが、意味は鮮明だった。
セイはゆっくりと箱に手を置いた。掌の皮膚と木の冷たさが混ざり合い、指の間に小さな痛みが走る。後戻りが効かないことを知っている。彼はあの日失った母の皺を思い出そうとしたが、思い出は薄れていく。代わりに、今ここにいる人々の顔が鮮やかに浮かんだ。彼らの選択が、次の輪を止める鍵になるかもしれない。
「俺が数える」セイは言った。声は低く、確かな響きを持って戻ってきた。「ただし、今回はひとりで全部を抱えない。君たちの同意が必要だ。ミオ、君が決めてくれ。リア、カル、君らも同じだ。みんなで数えるか、それとも別の行動を取るか。明日の門で何が起きるか、今はまだ変えられる」
ミオの目に、はじめて意志の火が灯った。彼女は深く息を吸い、握ったリボンをさらに強く握りしめる。「私……自分で決める。兄のことは忘れたくない。でも、この町の誰もが選べるなら——私は戦う」
リアは咬んだ唇を緩め、うなずいた。カルは紙を渾身で丸め、肩を震わせながら「チャンスだ」と呟く。
セイの指の上で、数字が一瞬、にわかに明るく光った。彼は箱の中から一つの編み靴を取り上げ、指先で軽く触れた。光は八まで達したが、彼はそこで数を止めた。記憶の隙間がまたひとつ生まれたことを、淡い痛みとして胸に収める。