死者を数える密偵は破滅の儀式を止める 第27話「第二部幕間」
窓ガラスに叩きつける雨音が、薄暗い部屋の壁を小さな太鼓のように震わせている。ろうそくの炎が揺れて、机の上の紙片に影を落とす。ユノは掌の中で、まだ湿った布切れを握っていた。布の縁には煤と血の匂いが混ざっている。指先に伝わる繊維の凹凸が、今夜も彼を始めさせる合図だった。
窓ガラスに叩きつける雨音が、薄暗い部屋の壁を小さな太鼓のように震わせている。ろうそくの炎が揺れて、机の上の紙片に影を落とす。ユノは掌の中で、まだ湿った布切れを握っていた。布の縁には煤と血の匂いが混ざっている。指先に伝わる繊維の凹凸が、今夜も彼を始めさせる合図だった。
「一、二……」
声は小さい。数えるたびに、指先の骨の内側から冷たい光が滲み出す。光は布の繊維を伝い、空気に浮かぶ。数字は掌の跡となって残り、視界の端に薄絵のような記憶の断片を浮かべる。子どもの手。祭壇の煤。刃先の光。断続的な声が耳の中でぐらぐらと混じり、ユノはそれらを拾っては並べる。
「——彼は祭礼の夜、外で倒れていた。足に紐の跡。誰かが『三十七』と書いた紙を彼の胸に挟んだんだ」
薄絵のひとつが、はっきりした声に変わる。ユノはその声を借りて、部屋の誰かに事実を差し出すように語る。カルは壁にもたれ、額に濡れた髪を貼りつけてその言葉を聞く。リアは硬い表情でテーブルの端を爪で押さえている。皆、声のひとつひとつを武器か、あるいは爆弾かと見定めていた。
数えるには条件がある。触れて、順を追って、声を呼び出す。数字を飛ばせば痛みが走る。最後の一つまで拾い上げると、刈り取るように何かが奪われる。今夜もその法則は例外なく働いた。
「四、五……」
五声目を呼んだ瞬間、ユノの胸の内に小さな空洞が出来た。最初は冷えた針のような違和感だった。次いで、その空洞は思い出の一片を吸い込んでいく。彼は手の動きを止め、顔をしかめた。思い出の縁がほつれるのはいつだって静かだ。幼い頃に母が編んだ紺色のマフラー。指に残る毛糸の感触。ユノはその触感を確かめようとしたが、掌にはただ生ぬるい空気と、煤の匂いだけが残った。
「どうした、ユノ?」
カルの声に驚いて顔を上げる。視線の先にあるのは、自分の忘却の量を示すように天井に浮かぶ数字の群れだ。数字は彼の皮膚を這い、爪の下に青い影を残す。リアが顔を寄せ、指先でユノの顎を支えた。
「思い出の欠けが進んでる。今日、どれだけ拾った?」
リアの声は冷静を装っている。だが手の震えが隠しきれない。ユノは数えた断片を思い出して口にする。祈祷の歌の断片、祭壇に置かれた石板、黒い券の破片――そのどれもが、儀式の所在地と日時を示していた。必要な情報だ。だが代わりに奪われるのは、ユノにとって個人的なものばかりだった。誰かの名前、母の手の匂い、幼い日の笑い声が、彼の中で薄れていく。
「止めろって、約束してくれ」夕暮れに現れた女が、鉛色のコートを震わせながら入ってきた。彼女の目は赤く、唇は乾いて割れている。抱えられているのは布に包まれた小さな足。顔は白く、すでに冷たい。祭礼の犠牲者だ。女はユノにしがみつくように詰め寄った。
「あなたが数えた。あなたが、真実を見せて。約束して、私の子を助けて。あの券を、あの夜を、どうにかして」
胸の奥が締めつけられる。ユノは女の顔を見た。彼女の頬には泥と涙が混じり、指先にまだ温もりが残る。救いを望む目は純粋で、だからこそ危険だ。ユノの中で、使うべき言葉が揺れる。真実を提示すれば人は動く。だが強い救済の約束は、呪いを増幅させる。増幅はいつも、彼の大切な記憶をさらに削り取った。
「——私が、やめさせる」ユノは口を開いた。言葉は真実だった。声には震えがあったが、女の肩に手を置くうちにその震えは小さくなった。女は嗚咽しながらも、初めて深く息を吸った。
言葉を発した瞬間、空気の重さが変わった。数の光が黒く染まり、掌から流れる光がじくじくと痛みに変わる。耳鳴りが高まり、部屋の隅々から新しい数字が湧き出した。数字は時を遡るように囁き、ユノの視界は白い斑点で埋め尽くされた。彼は息が詰まるのを感じ、膝ががくりと折れた。
「約束は……約束をするとき、増える」カルが叫んだ。リアが女を抱き起こして距離をとる。だが時すでに遅く、増幅はもう不可逆の波になっていた。増えた呪いは、ユノの脳裏からある固有名詞を引き剥がした。彼は喉の奥で何かを探したが、出てきたのは空白だけだ。母の名前が、ふっと抜けた。
「な、なにが、消えた?」ユノは自分の手のひらを見た。そこには小さく、黒く浮かぶ数字の痕が現れている。指の間を走る感覚は、彼が一番嫌ったものだった――記憶の引き剥がしの感覚だ。
リアが静かに、だが厳しく言った。「誰も、君に約束をさせるべきじゃない。だが今は、それを取り戻すことより先にやるべきことがある」
女は震えながら布に包まれた足を差し出した。ユノは布を開いて見た。小さな甲に貼られた薄い紙片。黒い紙。そこに印刷された紋様が、ろうそくの光でうっすらと光る。小さな円の中に、等間隔に刻まれた点。見慣れた役所の印章と同じリズムを持っているような気がした。
「これ……」カルが指を伸ばした。紙片の角をめくると、紙の裏には手書きの数字が並んでいる。三十七。ユノが数えたときにあった数字と同じだ。だがその下に、もっと細い文字がある。読めない筆致の文字列。リアが目を細めて息を飲む。
「この紋は——」リアの声が止まった。呼吸が浅くなる。彼女の手が、自分の胸当てに触れる。胸当ての裏の古い刻印、彼女が巡察兵として使っていた部隊の印が、ほんの少しだけ似ている。似ているというより、同じ文法で作られているとでも言うか。ユノはその指先を見た。リアの指には、かつて使った鋭利な器具の瘢痕が残る。彼女はわずかに拳を握りしめた。
「これが、ただの教団の落書きだと信じたい」カルが苦笑をしたが、笑いはすぐに消えた。紙の紋を見つめる三人の間に、静かな決意が流れた。誰かが組織的に券をばらまき、数を以って同意を作り出している。国家の印章と似た紋様は、制度と宗教が同じ根で結ばれている可能性を示唆していた。
ユノは記憶の穴の空いたところを指で探った。消えた母の名は戻らない。代わりに、目の前にある紙切れの意味が残る。選択の重さと代償の実感が、彼の胸に重くのしかかる。
「もしこれを公にするなら、君はまた数えなくちゃならない」リアがつぶやく。言葉には非難はなく、ただ事実があるのみだ。彼女はユノを見て、短く動いた唇を噛む。「そして、また何かを失う」
「俺がやることもある」カルが前に出た。若い顔に決意が刻まれている。「ユノをこれ以上蝕ませないために、俺たちが動く。情報をばら撒いて、民に選ばせる。だけど、直接当事者の証言を束ねるのは……」
「君にはできない」ユノが言う。声は薄いが確かな線で、カルの言葉を遮る。「これは――触れて数える者でなきゃ、見えないものがある。俺が見ないと、誰も見えない」
部屋の空気が凝る。互いに相手の目を見て、三人の間に計算が流れた。ユノはだんだんと自分の過去を思い出すことが困難になっている。だが、それでもこの能力は、儀式がどこで、誰が何をしたかを晒すには不可欠だった。彼を使い続ければ、忘却は進む。使わなければ死人の声は埋もれる。
リアが布袋から一枚の紙を取り出した。それは、以前に彼女が匿っていた軍の書類の破片だ。そこには、百年に一度の君主の令だとか、老朽化した徴税の手続きのような文字が並んでいた。だが端には、かすれた楔形の記号がある。ユノ