声を奪う魔導士は明日を選び直す

声を奪う魔導士は明日を選び直す 第3話「第2章」

石畳に落ちた雨滴が、ひとつずつ小さく沈んでいく。レンは低く息をつき、掌に残る石鹸の香りを確かめるように鼻をすり抜ける湿気に身を委ねた。夜はまだ冷たく、屋根のない路地の空気は昔の食堂の油と子どもの笑い声を混ぜあわせたような、どこか馴染み深い匂いだった――けれど、その匂いも、彼の指先からすり抜けていくのを感じた。

石畳に落ちた雨滴が、ひとつずつ小さく沈んでいく。レンは低く息をつき、掌に残る石鹸の香りを確かめるように鼻をすり抜ける湿気に身を委ねた。夜はまだ冷たく、屋根のない路地の空気は昔の食堂の油と子どもの笑い声を混ぜあわせたような、どこか馴染み深い匂いだった――けれど、その匂いも、彼の指先からすり抜けていくのを感じた。

「来い、レン。時間がない。」

後ろから押すように声をかけたのは佐伯剛(さえき・つよし)。長年の巡査で鍛えられた体躯は、雨に濡れても威圧的だ。彼の声は濡れた砂のようにざらつき、レンの胸に赤い紐を一本ひっかける。レンには――いつからか――声が色を帯びて見える癖があった。佐伯の声は血の赤、同行の市原ミチルの声は澄んだ青、桐生レナのは紙に刷られた黄土色の帯のように視界に重なる。声の色は、彼らの意思の濃度と雰囲気を示す気がして、レンはそれを手繰ることで人の意図を読む訓練をしてきた。

「当事者の自発的な言葉が要件だ。忘れる代償は──」レナが言葉を切る。彼女は教義研究者らしく、頬に掛けた眼鏡の縁が雨に曇る。肩に下げた革袋から擦り切れた羊皮紙を覗かせ、そこに小さな墨の印が押されている。彼女の声は酸い葡萄のように微かに渋く、それでも確かな調子だった。レンはその声の黄土色を指先で撫でるように感じた。

彼らの前には一軒の家。窓は板で打ち付けられ、扉はわずかに開いている。中から、潮の抜けたような少女の声が震えながら漏れてきた。アヤメ。二十にも満たないその女は、床に寄りかかるようにして座り、両膝を抱えていた。彼女の声は若草のように薄い緑の帯となって、雨と混ざり合いながらレンに届く。

レンは静かに膝を曲げ、アヤメの視線に自分の目の中を映した。彼女の瞳は濁っていて、こちらを見つめる力がなかった。胸の辺りで、レンの能力が些細なざわめきを起こすのがわかる。──言葉を束ねるためには、言葉が自発でなければならない。強制は、呪いを膨らませる。そう彼は理解している。だが「自発的」とは何か。命の危機を前にした言葉は、どれほど自由だと言えるのか。

「話して。何があったのか、あなたの言葉で。」ミチルがそっと言う。彼女は人々の記録を守る職人で、細く温かい指に小さな筆を持っていた。その青い声は優しく、アヤメの緑の帯に寄り添う。ミチルは入念に穏やかさを繕い、記録のための空白の羊皮を差し出した。アヤメの唇が震え、やっと一語ずつ、夜の空気を裂くように言葉を紡ぎ始めた。

「子どもが……連れて行かれました。夜に、役人が来て──歌を、歌いながら。『証言を求める』って言って、でもそのあと、彼らは手に白い札を巻いて……息が、止まるように……」

言葉は、緑の帯となってレンの前に立ち上がる。帯は温度を持ち、指先で撫でれば生々しく震える痛みを伝える。レンは慎重に腕を伸ばした。彼の掌を通ると、緑の帯は幾筋もの銀色の糸に分解され、その糸先が彼の胸の奥へと吸い込まれる。言葉は結ばれる。証言が「束ねられる」。それは彼の術だ。けれど同時に、胸の奥で何かが削られる感触がした。

「思い出──」レンの舌が、咽頭の奥で引っかかった。彼は子どもの頃に母が作ってくれた粥の匂いを思い出そうとした。だが、その粥の味は指の隙間から滑り落ち、名前の一部だけが空白になる。レンは一瞬、目眩がして膝をついた。記憶の一欠片が喪われたのだ。束ねた証言の重さに、彼の過去の縁が一本、ほどけた。

ミチルが即座に羊皮に筆を走らせる。レナは腕を組み、古びた眼鏡の奥で何かを計算するように唇を噛んだ。佐伯は周囲を睨み、短く息を吐く。アヤメは少しだけ楽になったような表情を見せたが、すぐに顔がこわばる。町道の向こうで、兵士の靴音が近づいてきた──規律ただしい、王権の印のついた靴音。

「なんだ、ここで何をしている」低い声が呼びかける。扉が勢いよく開き、四人の兵士が雨を巻き上げて入ってきた。先頭の男の胸には、王の獅子の紋章。懐からは小さな箱がぶら下がり、その表面に彫られた符は見慣れた線──レンの術式と似た紋様を帯びていた。彼らは調査の名の下に、声を封じる札を配るという。

「住民の証言が必要だ。ここで勝手に騒ぐな」先頭の兵士が言う。彼の声は硬い灰色で、雨を切るように響いた。アヤメの緑の帯は、灰色に押しつぶされるように震えた。兵士が手を上げる――それは尋問の合図だった。

佐伯が立ちあがる。「待て。彼女は話した。証言を提出するつもりだ。俺たちが記録してやる」

兵士は一歩詰め、佐伯の胸先を睨む。緊張が走った瞬間、レンは本能的に選択肢を計った。自発的であること。救うために強制することは、呪いを増幅し、収束を崩す。だが今、アヤメの子は屋外だ――役人はすぐそこにいる。もし彼がこの場で手を出さなければ、子は連れ去られるかもしれない。責任と選択、どちらが重いか。

兵士が短気に指をぶらぶらさせた。彼の背後で、同行の一人が何かを取り出し、白い札をかき鳴らした。札の端が風に揺れ、音が唸る。レンの短い念が、黒い波となって広がる。強制してでも証言を奪えば、この夜の静寂はもう元に戻らない――それは彼がこれまで避けてきた最悪の代償だった。

「言え!」佐伯が歯を剥いて呟く。彼は元巡査らしく、命令口調でアヤメを煽る。レナが耳元で低く警告する。「強制は──律が狂うわ。代償が倍増する」

だがアヤメは恐怖で固まっていた。子の名を呼ぶ声が薄れ、雨の音に混じって消えそうだった。レンはその小さな喉から出る可能性を掴まえたい衝動と、一つの理念の重さの間で引き裂かれた。

渾身の判断で、レンは手を出した。自発的ではなく、力を伝って言葉を引き寄せる。銀の糸は荒々しく裂け、緑が彼の掌に強制的に押し込まれた。アヤメの目が見開き、震えが声を生む。彼女は言葉を吐き出した――が、それは逃げ場のない命令で引き出された声だった。

束ね終えた瞬間、胸の奥の空白がぱっくりと広がるのをレンは感じた。今まで確かだった小さな事実が、音もなく崩れ落ちる。母の名前、幼いころの藤棚の匂い、兄と食べた傷みかけの林檎、いくつもの固有名詞がすり抜け、レンは思考の繊細な網を一部失った。頭の中に黒い穴が突如開き、そこから冷たい風が吹きこんだ。

「レン!」ミチルが叫び、筆を落とした。レナは顔を背け、佐伯は拳を握る。アヤメの緑の帯は薄くなり、代わりに白い静寂がそこに残った。兵士たちが複雑な表情を浮かべる。先頭の兵士は袋の中をのぞき込み、そこに取り込まれた証言の痕跡を見て眉を潜めた。その顔に、生温い驚きが浮かんだ。

「お前──そんな術を使うのか。王府の所作と似ている」先頭の兵士の声は、渋くなった。彼は懐の箱を撫で、その符号をレンの胸の符と比べる。その瞬間、雨音の中に何かが滑りこんだ。兵士の一人が言った。「これを持って行け。記録は王府に送られる。証言が整次されるのだ」

兵士たちは去っていった。残されたのは、濡れた路地と、空になったようなレンの頭、そしてアヤメの失われた小さな声だった。レンは膝に手をつき、視界の端が切れていくのを感じる。数秒の間に、彼は街の名の半分を忘れかけた。指先に残るのは、結ばれた言葉の冷たさと、新たにできた穴の冷たさだけ。

「強制したからだ」佐伯が低く