声を奪う魔導士は明日を選び直す 第24話「第22章」
雨はまだ止んでいなかった。瓦礫の細い隙間から差し込む灰色の光に、作業台の上で眠る黒い器具が不気味に艶を放つ。金属と革、それから焦げた布の匂い。ソラはその匂いを吸い込みながら、指先で自分の掌に残る古い瘢痕を撫でた。瘢痕は、声を奪ったときにできたものだ。触れるたびに、どこか一つの記憶がひんやりと遠ざかるような気がする。
雨はまだ止んでいなかった。瓦礫の細い隙間から差し込む灰色の光に、作業台の上で眠る黒い器具が不気味に艶を放つ。金属と革、それから焦げた布の匂い。ソラはその匂いを吸い込みながら、指先で自分の掌に残る古い瘢痕を撫でた。瘢痕は、声を奪ったときにできたものだ。触れるたびに、どこか一つの記憶がひんやりと遠ざかるような気がする。
「準備はできてる?」と、ミカが低く訊いた。彼女は作業台の脇に膝をつき、工具箱の中で薄い金属片を取り出していた。髪は短く切り揃えられ、額には昨夜の雨の跡が残る。瞳は寝不足のせいか虹彩の縁が赤く、だがそこにある決意は確かだった。
「できる。だが、これで本当に──」ソラの声は枯れて、言葉がそこで途切れた。言い換えるべきことが頭の中で立ちくらみのようにずれてゆく。彼は口の端に小さな鉄の味を感じた。思い出したい顔が、指を滑らせるように掠れていく。誰の顔だっけ、と再び問う。思い出せないことが彼を苛んだ。守るはずだった者の輪郭が薄れている。
ハルが戸口に立って、濡れた外套を叩いた。肩には捕えた監吏の縄の跡。監吏は細く痩せ、膝を抱えて震えていた。カルム──証言を持つはずの人間だ。彼の唇は既に黒い斑点に侵されていた。声を奪う呪いの兆候。膨らむ黒が喉の周囲を包み、周縁から乾いた鳥の羽根のように散っている。
「監吏カルム。王権の通達を伝える立場にあった人間だ。ここを潰せば、あの制度の証明になる」とハルが低く言った。「だが、強制で引き出せば、また増える。あんた、前にその代償を知ってるはずだろう?」
ソラは顔を上げた。黒い器具──彼らはそれを沈黙器と呼んでいた。王権と聖掌隊が統治のために配った品の一つで、与えられた者の選択を縛る。だがソラはそれを逆に使い、声を奪われた者たちの証言を"束ねる"術を持っていた。束ねた真実は記録として光るが、術を強く振れば振るほど、腕の中の記憶が粉になって消える。さらに、強制的な救済──相手の意思を踏みにじって真実を引き出すと、器具が世界のどこかで黒を吐出して、また別の声を奪う。因果は連鎖する。ソラはその連鎖の一端である。
ミカは小さな網目の金具を、沈黙器の縁に沿って取り付ける。彼女の指先が触れるたび、金属は暖かくなった。作業の合間、ミカはほうっと息を吐く。「これで変わると思う。無理やり引き出すんじゃなくて、同意のもとで『見える化』できるようにする。なら証言は強制じゃなくなる——少なくとも、そうなるはず。」
ソラはそれを疑った。「同意できるのは生きた声だ。だが、声を奪われた人々は、もう選べない。器具そのものが選択を奪っているのに、どうやって『同意』を取る?」
ミカは指を止めずに答えた。「そこを変えるのが私たちのやり方。器具の縁に網を編むとき、その網は光を透す。光は声の痕跡を可視化する。人は自分の声の痕跡を見て、それを受け取るか、拒むかを選べる。要は、誰かの代わりに決めるのをやめさせるんだ。」
ハルがカルムに近づき、ぶるぶる震える彼の肩をそっと掴んだ。「同意さえ取れれば、強制は要らない。だが、その同意を可視化するには一つ、アンカーがいる。生きた記憶を。器具が信号を繋ぐための『核心』が必要なんだ。それが──」ハルはソラを見やった。「お前の記憶だ、と俺は思う。」
沈黙が落ちた。ミカが最後のネジを締める音だけが、低く響いた。ソラは自分の胸の奥で何かが震えるのを感じた。アンカーとしての記憶は、ただの情報ではない。ソラが数えきれないほどの夜をかけて守ろうとした誰かの輪郭。忘れるわけにはいかないと彼は思っていた。だが、守られた者たちの未来を取り戻すためには、誰かが自らの一部を切り出して渡さねばならない。
「お前に頼めば、俺はまた──」ハルの言葉は掠れて消えた。言い換えれば、ソラが自らの記憶の一片を差し出せば、器具は黒い影を透明な網へと変え、被害者が目で見て拒絶する機会を得られる。拒絶すれば、強制の道は消える。だが代償はソラの記憶のさらなる喪失と、術を実行する瞬間に呪いが自らを均衡させようとして別の声を奪う──という最悪の可能性を防ぐための、しっかりとした「意志の証明」が必要だった。
カルムの眼が、はっきりとソラを捉えた。そこに恐怖だけでなく、何か小さな羨望があった。彼もまた選ぶことを求めていたのだ。だが彼の喉は黒く、声を上げることはできない。
ミカが作業を終えると、沈黙器の表面が青白く反射を返した。黒が吸い込まれるように見える箇所が、やがて薄い網目に置き換わった。影は透明になり、そこから弱い光が漏れてくる。光は足元の埃を細かく照らし、砂の粒がまばゆい星のように浮いた。
「成功だ」とミカは囁いた。しかしその声は震えていた。彼女は器具を抱えるようにして、突如として顔色を失った。喉元で小さく咳き込み、唇が震えた。ハルが彼女の肩を支える。
「どうした?」とソラが手を差し伸べたが、ミカはそれを制した。「大丈夫、ソラ。これが進むほどアンカーの負担は増える。私は初期の接続を受け持っただけ。もっと深く結びつけるには、生きた『自分の』記憶が要る。誰も代われないんだ。」
「それでもお前は──」ハルが言いかけたが、ミカは首を横に振った。「私がやらないと、誰かがまた勝手に奪う。私が黙るしかないのなら、選ぶのは私だ。声を失うことと、他人の意志を守ること、どちらが重いかは私が決める。」その口調には揺るぎない覚悟がある。彼女の目が真っ直ぐにソラを見た。「でも、アンカーは一人じゃない。お前の記憶があれば、器具はより深く、より確実に『同意』を映す。お願い、ソラ。誰かの選択のために、君の一部を貸してくれないか。」
ソラは手のひらを見た。掌の瘢痕がそこにある。過去に奪った声たちの重さが、肌に張り付いている感覚。誰かの顔が思い出せない欠損の痛み。目の前で揺れるミカの決意。カルムの無言の欲求。世界が彼に問いかける。「明日を選び直すために、何を捨てられるか」と。
彼は息を吸い込み、ゆっくりと立ち上がった。「わかってる。だが、これをやったとき、もし──もしまた別のどこかで声が消えたら、それは俺のせいだって言われるだろう。どうしてそれでもやるって、言えるんだ?」
ミカは苦い笑みを浮かべた。「それはたぶん、答えはない。でも、差し出せるものがあるから、私たちは選べる。何もしないことも選択の一種で、その代償はもっと大きいかもしれない。」彼女は息を詰めて、ソラの手首を取り、器具の縁にかざした。金属が微かに振動し、空気が甘く震えた。
ソラは手を器具に置く。冷たかった金属は次第に暖かくなり、体温が伝わってくる。掌の内側がほんの少し熱を帯び、彼は自分の意識がそこから引き離される感覚を覚えた。記憶を食む虫が一匹、掌の中を這い上がり、そして皮膚の下へと潜り込む。ソラは目を見開いた。頭の中で、一枚の写真が外れるように落ちた。それは、守るべき誰かの幼い笑顔だった。彼はその笑顔の輪郭を掴もうとしたが、冷たい砂のように指の間から零れた。
「忘れるかもしれない、でも……」ソラは言葉を呑み込んだ。胸の奥で、何かが切れる音がした。甘い痛みが、口元から喉へ伝う。彼は思い出そうと努力した。名前、場所、小さな出来事。肺から出る呼吸