声を奪う魔導士は明日を選び直す 第1話「序章」
市場の空気が、突然音を失った。
市場の空気が、突然音を失った。
人々は口を動かす。言葉の形だけがそこにある。唇は早鐘のように震え、喉は波打つが、音はない。午前の陽が露店の布を透かし、口元にぶら下がった小さな簪(かんざし)が、まるで透明な糸で声を引き抜かれたかのように鈍く光った。
蓮はその光景を、何度も目の当たりにしてきたはずだった。だがいつも、初めて見るような衝撃が胸を裂いた。無音の群衆のなかで、ひときわ小さな動きが目に入る。赤い服の女の子が、両手を天に伸ばしていた。唇が震え、顔は泣きそうだ。彼女の指先は、誰かに向かって必死に届こうとしている。
「声を、返して」と、蓮は口に出した。自分の声はちゃんとそこにあった。周囲は黙ったままだが、彼にはそれがわかった。声を奪うやり方を知っているつもりだった。奪われた「言葉」を編み直し、すべての当事者の証言を一本の布のように織り上げて示す術──それが彼の持つ術、「証綴り(あかしつづり)」だ。
蓮は背負っている小さな革袋から、薄い灰色の糸の束を取り出した。糸は生き物のように震え、掌で温めると微かに重みを増す。彼は群衆の目に映る動作、手の形、震えたまぶた、唇の開き方を、一つずつ視覚の端から拾っていった。言葉がないなら、代わりに残るものを繋げればいい。胸の奥の痛みや、空気の重さ、誰かが抱えている恐怖の輪郭──それらを紡ぎ合わせる。
指先が動いた瞬間、世界の輪郭が細く絞られる感覚が来た。糸が空中に走り、無数の細い光の線が女の子の前に浮かび上がった。まるで誰かの記憶を擦り取ってガラスの中に閉じ込めたような、半透明の小さな映像群。蓮はそれを撫でるように手でなぞった。
映像の断片が並び、やがて一つの場面が組み上がる。夜の路地。紺色の制服を着た者が、女の子の顎を掴み、金属の簪を押し付ける。簪からは細い黒い絲(いと)が立ち上り、女の子の喉へと吸い込まれていく。制服の者の胸には、三叉の紋――市の印章だ。映像は止まり、庭石に落ちた紙片のように静かに下へ沈んだ。
「——やはり、そうか」
蓮は低く呟いた。映像は生の証拠だ。これを広げれば、誰がいつ、誰の声を奪ったかが目に見える形になる。だが同時に、いつもの冷たい感触が掌から全身へと走り、思考の縁が溶け出す。蓮は慌てて手を引いた。糸は震え、映像は薄まった。胸の奥にあったはずの固い何かが、指の隙間から零れ落ちていく。
「何か忘れたか……?」
考えようとする蓮の額に冷たい汗が滲む。喉の奥で、幼い時に聞いた歌の一節を思い出そうとした。母が寝かしつけに歌ってくれた最後の一行。蓮はその音節が指先で掴めそうで掴めないのを感じた。いつもはすっと出るはずの言葉が、まるで水の中へ消えたようだ。たった一度の術で、このくらい脆くなるのか。
群衆の中で、女の子の瞳が蓮を見つめた。透明な映像は、彼女が誰に奪われたのかを示している。証拠は揃っている。ここで示せば、何人かは動くはずだ。だが証拠を武器に振るえば振るほど、蓮自身からなにかが削がれていく。それは単に忘れ物の類ではない。彼が「なぜ」この仕事をしているのか、その最初の決意や、守るべき人の顔までもが、消えていくという感覚だ。
「返してやれ」と、誰かが囁くように聞こえた。蓮の手は映像に伸び、上に掲げた。映像を市場の中央に広げれば、制服の者は逃げられない。だが糸が跳ね返す。彼の脳裏で、母の歌の残りが還らない。呼吸が浅くなる。
決断の代償を確かめるように、蓮は一度だけ強く糸を引いた。全ての証言を一つの拳に凝縮し、空気に向かって突き出した。光の網が広がると、市場の上に透明な帷(とばり)が垂れ下がった。映像の中の制服の者が、生々しく浮かび上がる。それを見た途端、群衆の表情が一斉に凍りついた。動いていた唇が完全に止まり、簪の光が純白に強まる。女の子の唇に刺さった簪が、深く沈むように見えた。
「——駄目だ!」
蓮の胸を、冷たい痛みが掴んだ。映像は明らかにした。だが見せることで、呪いは反応したのだ。奪われたものが暴力に晒されれば晒されるほど、簪はその場でより強く喰らいつく。救いのために暴露すればするほど、封印は硬くなる。蓮はその瞬間、術のもう一つのルールを思い知った。真実を武器にするとき、救済を強制するほど呪いは増幅する。
女の子の肩が崩れる。彼女は両腕で胸を押さえ、顔をぐしゃりと歪めた。だが声は出ない。泣き声も、嗚咽もない。蓮の視界が揺れる。糸を引いた手が震え、掌の中の糸が痺れるように熱を帯びた。その熱が、脳のどこかを焼いていくようだ。蓮は目の前の景色が、少しずつ遠くなるのを感じた。
「蓮!」――誰かの声が自分の名を呼ぶ気配があった。だがその声は遠く、夢の中のように曖昧だ。音の輪郭が、指で掴もうとするとするすると抜け落ちる。蓮は女の子の顔を見ようとした。彼女の名前を、繰り返し叫ぼうとした。口を開け、出すはずの音が紡げない。
「だめだ、もっと……もっと——」と、映像の端で誰かが慌てふためいている。白い制服の一人が指揮をとり、周囲の者に何か合図を送った。蓮はその合図を見た。合図は脆い紙切れのように見えたが、確かに存在する。白い服の胸の紋は、映像の中と同じ三叉の印。その印が、街を縫い合わせている。
蓮は膝をついた。映像はまだ空中で揺れている。だが彼の中から、幼い日の景色が一枚ずつ剥がれていく。母の歌、妹の小さな手、最初に誰かを守ると誓った瞬間――それらが薄れて、冷たい紙のようになる。代償は想像以上に大きい。
女の子の手に、誰かが紙片を押し付けた。紙には太い黒い文字で一語だけ書かれている。「聖語院(せいごいん)」。貸衣のように肩にかかった布に、その名の烙印が刺繍されていた。蓮はそれを見て、凍り付いた。紋章と名前が、制度の存在を指し示していた。
誰かが決めた言葉を、強制的に退けるためには、ただ暴く以上の方法が要る。蓮は、空気の中に残る小さな鳴りを拾った。遠く、街外れの高い塔の方角から、細い響きが引かれている。簪の光がそこへ伸びているように見える。奪われた声は、どこかへ集められているのだ。
蓮は立ち上がった。膝の痛みが手に伝わり、冷たい石畳の感触が足裏に残る。女の子はまだ泣いている。音のない涙が頬を伝う。蓮は、残ったわずかな記憶の一端を手繰り寄せながら、決めたことを口に出した。
「分かった。……行く。塔へ行く」
言葉は確かに出た。だが同時に、どれだけの自分がそこにいるのか、蓮にはわからなかった。護るべき「明日」の輪郭は残っている。守る対象の顔は、紙細工のように薄くなっている。失うことの重さを抱えながら、蓮は女の子の傍らにしゃがみ、そっと彼女の肩に手を置いた。指先に、まだ温かさが残っている。
背後で市場の喧噪が再び動き出す気配がする。誰かが採られた証拠に対峙し、別の誰かがそれに耐える。だが蓮の視線は、遠くの塔へと向かっていた。そこに、彼が今まで見過ごしてきた「設計図」があるのだろうか。彼はもう一度、証綴りを収めると、覚悟を決めた。
「証拠を武器にするなら、代償は支払う。だが一人で払うわけにはいかない」——蓮は、自分の唇がそう言っているのを感じた。言葉の意味を確かめることさえ、今は儘ならない。だが選ぶべき道だけは、