記憶を凍らせる薬師は自分の罪を数え直す 第5話「第4章」
礼拝堂の廃墟は、夜の空気をすべて吸い込んでいた。瓦礫の隙間から吹き込む冷気が、薄い毛布を透かして背中にまとわりつく。ろうそくは三本、壁際の机の上で微かに震えるだけの光を放っていた。ユエンはその光に顔を寄せ、指先で薬包を確かめる。銀色の小瓶がひんやりと指に触れ、内側で澄んだ液が揺れた。
礼拝堂の廃墟は、夜の空気をすべて吸い込んでいた。瓦礫の隙間から吹き込む冷気が、薄い毛布を透かして背中にまとわりつく。ろうそくは三本、壁際の机の上で微かに震えるだけの光を放っていた。ユエンはその光に顔を寄せ、指先で薬包を確かめる。銀色の小瓶がひんやりと指に触れ、内側で澄んだ液が揺れた。
「聖裁庁はもう、名前を挙げたらしいな」ミールが低く言った。声の端に怒りと不安が混じる。ミールは、いつもの短い髪を耳にかけながら、窓のひび割れに映る自分の顔を見ないようにしていた。外では、ときどき馬車の車輪が石畳を擦る音が遠くで鳴った。監視の目が厳しくなっていることを知らされるたび、音は大きくなる。
カイムは、机の上に肘をつき、手の甲で額を擦っていた。軍隊の訓練で鍛えた肩は今も広く、だがその顔は削られた石像のように硬かった。彼がここに来たのは、自分の罪を吐き出したいというより、誰かに認めてもらいたかったからだ。認められることが贖罪だと信じている節があった。
「内部に、改革派がいる」ミールが続ける。「完全な味方じゃない。けれど、抑圧の仕組みに疑問を持つ者はいる。聖裁庁にも亀裂はある。表に出れば潰されるだろうが、こちらから橋を渡せる可能性がある」
ユエンは小瓶を見つめたまま、言葉を探した。外に出せる証言は、今の彼らの唯一の武器なのだ。ユエンの能力は、人々が抱える「真実」を、当事者の声ごと束ねて証言にする。完璧ではない。言葉にしきれない空白を埋めることはできないし、嘘を真実に変えることもできない。だが、官吏の前で一人の兵士が自分の行為を認めれば、それは制度の根元を揺るがす始まりにもなり得る。
カイムが顔を上げた。瞳の奥に消えない痛みがある。彼の唇が震えた。
「俺は、やった。村を――命令で、燃やした。子供もいた。処罰だと、上から言われた。だが、言われたからといって、手を汚す罪が消えるわけじゃない。もう、一つだけでもいい。……誰かに、そのことを見つめてもらいたい」
ユエンは小瓶を鞄にしまった。能力を使うなら、今が機を失うかもしれない。しかし、思い出すだけで胸の底が冷たくなるいつもの禁忌が、彼女の指先を止める。能力を真実の「武器」として使えば、ユエンの中の大切な記憶が薄れていく。誰かを救おうと強く望むほど、彼女は自分の過去を失う。それは彼女が何より恐れてきた代償だった。
「自分で言うつもりはあるのか?」ユエンは静かに尋ねた。言葉はろうそくの揺らぎと一緒に室内に垂れていく。
カイムは首を振る。「一人ではできない。公に認められるには、複数の目撃か、第三者の宣誓が要る。ユエン、お前の力を使ってくれ。お前が語れば、誰もそれを単なる言いがかりとは呼べないだろう」
ミールが立ち上がった。床の埃が舞い上がり、小さな雪のように光を拾った。彼女の顔には怒りよりも恐れが先に見えた。
「強制するのか? カイムには自らの意思で言わせる方法はないのか? 無理に引き出すなら、それで救済が得られるとしても──お前は何を失うか分かってるはずだ」
ユエンの掌の中で、薬包が冷たく震えた。記憶を凍らせる行為は、言葉を凍らせることと等しい。彼女が他者の「本当の声」を外に引き出すと、それは空中で光る結晶になって舞い、誰もが見える証拠となる。ただし、その結晶を砕いて真実を切り出すたび、ユエンの胸の奥で一つの記憶が薄れていく。幼い日の歌、人差し指の皺、誰かの匂い。小さなものから大切なものまで、ランダムに失われるのだ。さらに悪いことに、強制して救済を「押しつける」ほど、呪いは増幅する。誰かを救ったつもりが、使った力そのものを制度に取り込ませ、より多くの凍結を生むことにもなる。
カイムの声が、もっともらしい決意に揺れた。「それでも、やってくれ。俺は、これ以上自分をだまし通せない。結晶になってでも、外に出したい」
ユエンは息を吐いた。肺の中の空気が細かい氷の粉のように感じられ、薄く白い息が口からこぼれた。小瓶を手に取る。これは薬ではない、触媒だ。使い方を誤れば、彼女自身が何もかも忘れてしまう。だが、迷いの深さが曖昧さを生む。ユエンは、一度だけ、少しだけ――という言葉に囚われてきた。
「お前が自分で言うのではない。私が君の言葉を集めて、公に出す。聞くのは聖裁庁だ。取り巻きがいても、声が一つ多くなれば――」ユエンの声音は震えた。「私が代償を払う。だけど、その代償がどれほどかは、約束できない」
カイムは瞳に光を戻す。彼はユエンに両の手を差し出し、かすれた笑いを漏らした。「払ってくれ、ユエン。俺は、もう、この罪で眠れないんだ。お前の失うものなど、俺がどう償えるかを考える。頼む」
ミールは一瞬俯いた。やがて彼女は口を噤み、ユエンに背を向けた。誰もが目を伏せるなか、ユエンは薬包の蓋を小さく回した。蓋からは、薄い蒼の冷気がわずかに立ち上り、指先に触れると針のように鋭かった。
彼女は掌をカイムの額へと近づけた。薬包の冷気が皮膚に触れると、周囲の温度が一段と落ちた。息が前より白く、はっきりと見える。ユエンの心を通って流れる何かが、音を立てて凍り始めるような感覚があった。頭の奥、薄暗がりにしまいこんだ小さな声が、遠くで鳴る鐘のように断片的に鳴った。
カイムが口を開くと、その言葉は空気を切り、固まった。
「──三年前、北の集落で、処罰を行った。司令は、抵抗はないと宣言したが、子らは隠れていた。命令はひとつ、『全員検査』と言われた。検査した結果、異端の疑いがある者は光の寺へ──だが、俺は自分で判断をする立場にいた。俺の手が動いた。火をつけた。叫びを聞いた。指示だった、命令だった、しかし俺が引き金を引いた」
言葉が凍る。すると不思議なことに、その「言葉の結晶」は空中で欠片となり、ろうそくの灯りを受けて細かく反射した。破片はぶるぶると震え、一本一本が真実の切片として床へと落ちていく。落ちる音は紙を裂くよりも鋭く、金属が触れ合うようだった。ミールが息をのむ。カイムの吐息の湿り気が、瞬時にして白い霜となって頬に張り付く。
ユエンは最初の代償を感じたのは、言葉が氷片になった瞬間だった。胸の内で、鍵のかかった箱が一つ、静かに閉じられた。小さな記憶だった。夏の夕方、祖母が差し出した甘い黒い茶の香り。ユエンはそれを思い出し、香りを辿ろうとしたが、手は空を切った。指先に残るのは、ただの冷たさだけだった。思い出は薄い霧のように溶けていた。
「ユエン?」ミールの声が細くなる。ユエンは一瞬外界を見やった。ミールの眉は深く寄り、口元には唇噛んだ跡があった。
カイムはさらに吐露を続ける。語る毎に、結晶は増え、部屋の空気はもっと冷たく、澄んでいった。ところどころに落ちた氷片が、まるで破れた言葉の花弁のように床の石目に散らばる。誰かの泣き声が、薄く、遠くから聞こえた気がした。それは実際には廊下の風が何か擦る音かもしれない。ユエンは聞き分けられなかった。記憶の欠けが、視界の端を削いでいく。
「その時、我々は『記憶封刻』を使った」カイムの声が、床の氷片とともに止まった。彼は息を整え、怯えたように続ける。「祭具を回した。彼らの記憶の一部を、封じるために。器官を刻むように、刻印を置いた