記憶を凍らせる薬師は自分の罪を数え直す 第14話「第一部幕間」
地下室の空気は、外の雨音に混じって低く震えていた。灯りは油が薄く伸びた行灯一つ。木の床に並べられた白い小瓶が、薄暗がりの中で氷の粒のようにきらりと光る。ユエンは瓶の一つを手に取り、指先でゆっくりと回した。内側に、凍ったように固まった滴が張り付いている。それを見つめると、胸の奥が冷たく締め付けられるような感覚が走った。
地下室の空気は、外の雨音に混じって低く震えていた。灯りは油が薄く伸びた行灯一つ。木の床に並べられた白い小瓶が、薄暗がりの中で氷の粒のようにきらりと光る。ユエンは瓶の一つを手に取り、指先でゆっくりと回した。内側に、凍ったように固まった滴が張り付いている。それを見つめると、胸の奥が冷たく締め付けられるような感覚が走った。
「来客だ」とカイムが低く言った。鉄の手入れをやめ、外の扉の方へ足を進める。扉は重苦しく、雨に濡れた外套の匂いを連れて開いた。少女が濡れ鼠のように立っていて、唇を震わせながら二人を見上げた。肩に小さな包帯が巻かれ、指先は泥に黒かった。
「助けてください。明朝、"清浄" が来るって。母とふたり、あの──『更生院』に送られるって書かれてる。村長の黒い印がもう紙に押してあったのに、言いなりで……」少女の目がひどく濡れていた。鼻をすする音。ミールは彼女を中へ引き入れ、布切れを渡した。
ユエンは瓶をテーブルに置き、手が止まる。彼の腕の内側には、小さな切り傷の跡が幾つかと、幾本かの浅い線が引かれていた。線の一本一本が数字のようでもあり、古い傷の跡を数えるように彼はその端をなぞった。数えるたび、指先にいつもと違う冷たさが忍び込む。
「更生院は、誰が送られると決めるんだ?」カイムが尋ねる。声は荒い。刃物を研ぐときの手つきが少し速くなる。
少女は震えながら答えた。「書類と印と、祭司が一言。『秩序のため』って。母は……昔のことを思い出すと泣くから、村長が楽にできるって。誰も抵抗できないんです。」
ミールが静かに首を振った。「抵抗の余地を奪うやり方ね。だが、今日は証拠が必要だ。愚直な怒りは人を傷つけるだけだわ。」
ユエンの喉が動いた。彼は瓶の一つを取り、蓋を外した。中から出る空気は本当に冷たかった。小さな結晶が蓋の縁で瞬間的にぱちりと欠ける。
「試してみる?」カイムが、ユエンの目をまっすぐに見た。「現場へ押し入って母親を連れ出す。強引にでも。俺は問題ない。銃の音なんて黙ってる。」
「それで誰かが命を落としたら?」ミールの視線は冷たく、しかし怯えが混じっていた。「あなたが誰かを不意に救っても、救いを受ける側が自分の声を失えば、すべてが変わる。ユエン、あなたは──」
言葉はそこで止まった。ユエンは瓶を掌に沈め、静かに顔を上げた。彼が行使するものは、光景を『見せる』道具だ。だがそれは、声を束ねる代償として彼自身の記憶をひと欠片ずつ削る。そうして救済を『強制』すれば、周囲の呪いがその空白を埋めるように広がる。誰かのために決めるという行為が、別の呪いを生むのだ。それを知っているのは他でもない、ユエン自身だった。
「デモンストレーションをする」と彼は短く言った。言葉に重みが乗る。少女の名前だけを訊き、外に近い老女一人の所在を指示させる。証言を束ねるには当事者がいることが必要だ。ユエンは少女の震える声と、近隣で暮らす老女の干し声を繋いで、瓶の口に手を翳して閉じた。
呼吸が重くなった。室内の空気がはっきりと冷え、灯りの火が小さく揺れる。ユエンの瞳は虚ろになり、空中に白い像が立ち上がった。断片的な声が重なり合い、村の小道、祭司の鞭が空を切る音、母親のすすり泣きが層になる。映像は氷の彫刻のように透明だが、鋭利で、触れれば皮膚を裂く感触を思わせた。
「ここに、住民の承諾はなかった。彼らは泣いていた。『秩序』の言葉に従っただけで──」ユエンは低く告げる。言葉は像に付着して輪郭を深める。少女の目が大きくなる。ミールは顔を顰め、カイムの手が震える。
映像が消えたとき、ユエンの口から出るはずのある単語が彼の舌から滑り落ちた。彼はしばらく黙っていた。手を胸に当てると、そこにあったはずの幼い日の曲の一節が、ふっと消えたように消失していた。眠る弟の髪に触れたときの温さ、路地の角で父が笑ったときの匂い──そのいくつかが、いつの間にか薄れていた。
「思い出した?」ミールがそっと尋ねる。問いには、慰めでも非難でもない何かが混ざっていた。
「一部を失った」とユエンは答えた。声が遠い。指先で、自分の腕に刻まれた浅い線をたどる。一本、薄れている。数が減ったわけではない。数えるための印の輪郭が、消えかけているのだ。
「だから私たちは選ばなくてはいけないのよ」とミールは続ける。「証拠を見せて村人たちに選択させる──彼らが自分の声で判断するなら呪いは増えないかもしれない。だが時間がない。朝はすぐ来る。あなたの一回は、私たちの一回に等しい。だがカイムのやり方は──」
「短縮する」とカイムが割って入った。「言い訳だ。待っている間に多くが連れて行かれる。ユエン、お前が立って見せればすべてが変わる。見せれば村長も祭司も逃げるだろう。人は行動する。だが逃げ遅れれば、人が死ぬんだ。」
議論は熱を帯び、地下室の空気はますます冷えた。ユエンは自分の唇を噛んだ。選ぶことが罪を数え直す行為だと知りつつ、彼はいままた誰かのために数を削らねばならないのだ。
「試しに一つだけ」ミールが言った。「今日は村の集会場に私が行く。改革派の残党に接触して、告発を公にする方法を探る。ユエン、あなたは見せ方を変える。『証言を武器にする』のではなく、『証言を繋ぐ』。選択を返す形にするの。カイムは──彼には自分で行動する自由がある。強行するなら、あなたは同行してくれ。どちらを取るかを各自で決めるの。」
カイムの拳がテーブルを叩いた。銀の食器が小さく跳ねる。「分断か。だがやれることはやる。」
少女は震えながらも小さくうなずいた。母を取り戻すためにはどちらの道でも危険は伴う。だが彼女の中に、どこかで燃える覚悟があった。ユエンは瓶を見つめたまま、遠くで聞こえる雨音を数えた。彼の中で、もう一つの時計が動いている。罪を数える回数、使うたびに消える声。
彼は手袋を脱いだ。掌に小さな血管が浮き、冷気に指先が痺れた。白い薬瓶を取ると、フタをきつく閉め、深く息を吐いた。
「二手に分かれる」とユエンは言った。「ミール、あなたは集会に行け。真実を広めて、選び得る余地を作る。カイム、君は好きに動け。ただし、奪うな。救いたいなら、囚われの声を聞け。選ばせたあとに助けるのだ。」
カイムは短く笑って肩をすくめた。「それができるならな。だが俺は戦う。選ぶ者を守るためにな。」
ミールはゆっくりと頷き、少女の手を握った。「私たちはあなたを放り出したりはしないわ。だけど、ユエンのやり方を尊重して。強制はさらなる枷を生む。分からないなら、学ぶしかない。ユエン、あなたが見せるとき、私たちはその場にいる。誰かの代わりにはならない。」
ユエンは瓶を胸元に抱えながら、そっと笑った。それは哀しい笑いだった。目の端に浮かぶ何かを追えば、また記憶の断片が崩れる。だが彼は、数え直すために歩き続けるしかなかった。
外では雨が小降りになり、朝が薄く差し始めていた。地下室の壁に引かれた地図の上で、油の灯りがゆらりと揺れる。ミールは鞄を肩にかけ、少女の母の名を紙に書き留めた。カイムは剣を帯び、短い祈りのような言葉を呟いた。
ユエンは最後に、一つだけ自分のための儀式をした。小瓶の蓋を一度だけ開け、空気