記憶を凍らせる薬師は自分の罪を数え直す

記憶を凍らせる薬師は自分の罪を数え直す 第1話「序章」

海鳴りが低く唸る。港町アルハルの午後は、潮風と煤煙と怒鳴り声が混ざり合い、耳をくすぐる。木製の桟橋は潮に浸み、板の継ぎ目から塩の結晶が白く覗いていた。その匂いの中を、白い藥瓶を抱えた女が小走りに進んでくる。藥瓶は光を跳ね返し、氷の結晶のように鋭く縁を刻んでいた。

海鳴りが低く唸る。港町アルハルの午後は、潮風と煤煙と怒鳴り声が混ざり合い、耳をくすぐる。木製の桟橋は潮に浸み、板の継ぎ目から塩の結晶が白く覗いていた。その匂いの中を、白い藥瓶を抱えた女が小走りに進んでくる。藥瓶は光を跳ね返し、氷の結晶のように鋭く縁を刻んでいた。

「ユエン様、お願い! あの人が…!」

声の主は細い腕を伸ばした少女だった。黒ずんだ包帯が右腕をぐるぐる巻きにしてあり、包帯の端にかすかな灰色の紋が滲んでいる。少女の目は血で充血し、まばたきひとつが痛々しい。群衆の中央にいる男は唇を震わせ、瞳の奥に白い霞が宿っていた。彼の口からは同じ言葉が途切れ途切れに漏れる。

「印を押された……あの夜、印を押された……」

ユエンは群衆をかき分けて近づくと、白い藥瓶を掌の中で転がした。瓶は冷たく、持ち主の掌に刺すような冷気を残す。彼女はひと息つき、男の目を見る。そこにあるのは呆れたような悲しみと、殆ど生気のない警告の欠片だった。

「あなたの証言を貸してくれるか。短く、あの夜のことを。声だけでいい」
ユエンの声は低く、刃物のように真っ直ぐだった。少女――アリナが小さく頷く。ユエンは瓶の栓を外し、指先で薄い液を指静脈に馴染ませるように振った。液は透明だが、光を集めると藍白に光る。彼女は瓶を掲げ、男の口元に向けて静かに呼びかける。

「言え。どうして印を押された?」

男の声が絞り出され、一語ずつ、海の向こうの寒気のように周囲の空気に触れる。最初は断片的な断末魔のように散っていた言葉が、ユエンの藥瓶を中心に、ゆっくりとひとつの形をなしていく。空気が凍るわけではない。ただ、音が音像となって視えば氷片を塗り重ねたように見える、そんな現象だった。

「徴税吏が来た。四人の兵。紋を見せた。紋が──」

男の語りが他の者の囁きと重なり、アリナの震える声、通行人の半笑い、波打ち際の子供の叫びが混じる。ユエンは瓶を掲げたまま、証言の粒子を掬う。すると空中に小さな静止画が現れた。薄い氷の層に閉じ込められたように、徴税吏の手が町の帳簿に印を押す。印は王の冠の変形のように見える細い線だった。兵達の甲冑の縁には同じ紋が刺繍され、光を受けて黒ずんだ金属のように光る。

凍った映像は完璧ではない。フレームの端は欠け、声と映像の間に空白がある。しかし、当事者の証言が束ねられるとき、それは一瞬の真実になった。群衆の視線はその幻想に吸い寄せられ、誰もが目を見開いた。

「──帳簿に印を、押さないと鍋も米も没収するって。夜に来て、家の戸を開けさせて。母さんが泣いていたんだ」
男の声が途切れ、映像の中の母の顔が薄れていく。ユエンはそれを引き寄せ、瓶の中へと押し込める。氷の像が瓶の中で小さく揺れ、音はひとつの透明な層に落ち着いた。

次の瞬間、ユエンの左掌に冷たさが走った。明確な、刺すような痛みではない。代わりに、掌の奥に一つの空白がぽっかりと開いたような感覚があった。彼女は咳払いをして、胸の辺りを撫でるが、思い出せない。幼い頃、母が港の屋根の下で歌ってくれた唄の一節――旋律の最後の二音が、指先からするりと消えた。名前も、匂いも、伴われる感情もない。そこにあったはずの一つの記憶が、淡い霧のように消えている。

「大丈夫ですか、ユエン様?」
アリナの声が心配そうに飛ぶ。ユエンは一瞬だけ驚いたように目を見開き、瓶をぎゅっと握り締めた。掌の冷えは収まっているが、空白のある音楽が戻らない。彼女は唇を噛んで笑い、少女を見下ろす。

「大丈夫。もう一つ、証言を取る。そこに印があったと言ったか?」

「はい、あの紋…」
アリナが自信なさげに言う。彼女の包帯の隙間から、薄い灰の紋が浮き上がっているのをユエンは見ていた。あれは単なる火傷の痕ではない。呪いの残滓が、器物や布に染み込んだ痕跡だった。ユエンはそれを見て、喉の奥が冷たくなった。紋は手の甲でも、帳簿でも、ありとあらゆるものに遺っていた。形式は様々だが、どれも同じ源に繋がっている。

「これでいい。少し休んで」。

ユエンは瓶を蔵皮の袋にしまい、アリナの肩に短く手を触れた。その瞬間、包帯の縁にあった灰色の紋が、針金のように細い枝を伸ばすように震え、近くの天秤の錘にくっついた。銀色の錘に小さな結晶が広がり、金属が氷結する音でもなく、金属に虫が這うような微かな軋みが走った。群衆がざっと後ずさる。誰かが短く喘ぎ、木の箱の蓋が跳ね上がる。

「呪いが──増えてる」
傍らの漁師の声が震えた。ユエンはやがてその現象の意味を理解した。証言を結晶化させ、救済の形にするたび、媒介したもの――近くにあった器具、布、金属――に呪いが移る。完全に消えるわけではなく、形を変え、増える。救いを施すという行為自体が、呪いを器の新しい方向へと導いてしまうのだ。ユエンは思わず顔を曇らせる。心のどこかに、いつも冷たく消えるものがあるのはこのせいだ。

アリナは震えながら、ユエンの手を取る。包帯の隙間から、指先に吸い込まれるように小さな雪片のようなものが落ちる。それは細い糸となり、彼女の指に絡みつくと、まるで記憶の断端を探るかのように震えた。

「あなたが――救ってくれた。あのとき、あの夜…」
アリナの言葉は崩れそうだった。だがその「救ってくれた」という語を、誰もが慰めのように口にしていた。救済の姿は明確で、そこには救われた側の安堵があった。しかし同時に、救済を示すその白い瓶の縁に、黒い紋が小さく付着しているのをユエンは見逃さなかった。瓶の側面に浮かぶ紋は、先ほど瓶が吸い出した帳簿の印と、同じ形をしている。

「救いは与えられる場所を変えるだけ。無に帰すわけじゃない」
ユエンは呟いた。声は自分に向けられていた。彼女の掌の冷えは、いつの間にかもう一つの感覚を運んでいた。自分の幼い記憶が消えるのは、偶然ではない。証言を武器にして、真実を世界に晒すほど、彼女の中の何かが薄れていく。数え直す自分の罪の列は、常に減らされることでしか増えないのだ。

群衆のあちこちで、兵装のようなものを着た人影が海の方角から現れた。甲板の板を踏むような足音とは違い、彼らの歩みは帳簿を扱う手のように静かだった。先頭の者の肩には、夜に見たような紋が刺繍されていた。光の加減でそれは冠にも、断面化した樹にも、あるいは牙のようにも見えた。ユエンの目はその紋に吸い寄せられた。心の中で、何かが確かに結びつく。

「徴税の一団か」
誰かが短く呟いた。アリナの指がさらに強くユエンを掴む。少女の顔は悲壮で、しかしどこか決意の色を帯びている。ユエンは白い瓶を胸に抱え直し、塩の匂いが混じる風に顔を向けた。

自分の罪を数え直す。何を数え、何を残すのか。彼女の中の空白は、その重さを増していた。消えた旋律の二音は戻らないまま、ユエンは決める。ただ立ち去ることはできない。あの紋がこの町に根を張っている限り、今日のような氷像が生まれる。それを一つずつ、瓶に閉じていく。だが、その代償として何を失うか、彼女はもう一度確認する必要がある。

「行くわ。倉庫へ――紋があった場所を確かめる」
ユエンは低く宣言した。アリナが驚いたように顔を上げる。海の方へ向かって歩