血を記録する墓守は妹の名を返す 第24話「第22章」
鐘楼の石はまだ夜の冷気を抜け出せず、足音だけが低く反響していた。薄い霧が塔の裂け目から零れ、灯りはランタンの火でちらつく。エイレンは背中の包帯を確かめ、掌に触れた小さな器具――黒ずんだ鉄の針先、乾いた血の膜が固まった「刻血針」を指で撫でた。針は冷たく、指先をかすめると微かな振動が伝わる。夜明け前の重みが、彼の胸を押した。
鐘楼の石はまだ夜の冷気を抜け出せず、足音だけが低く反響していた。薄い霧が塔の裂け目から零れ、灯りはランタンの火でちらつく。エイレンは背中の包帯を確かめ、掌に触れた小さな器具――黒ずんだ鉄の針先、乾いた血の膜が固まった「刻血針」を指で撫でた。針は冷たく、指先をかすめると微かな振動が伝わる。夜明け前の重みが、彼の胸を押した。
「三隊に分かる。マラ、補給路の破壊。コンラッドは側道を押さえて後続を抑える。リラは――君は図書庫へ行け。公文書の枢要だ」
エイレンの声は低く、命令というより祈りに近かった。眼の端にコンラッドが眉を寄せる。マラは刃の柄に手をかけ、唇を噛んだ。
「お前が図書庫を狙うのか? そんな護衛が固いところへ、単独で本当に行けるのか」
コンラッドの声には心配と、もう一つ――忌避が混ざる。彼は軍人であり、暴力に慣れていたが、血に記す術の代償を知っているゆえの遠慮だった。
「私が行く」リラは一歩前に出た。薄暗がりの中でその眼は冷たく光る。紙とインクの匂いが彼女を鼓舞しているのが見える。彼女は自分の役割に固執した。自律的な決断だ。エイレンは小さく頷く。
「誰も無理に救わない。強制は――」言葉が詰まる。エイレンはそれを言い切れなかった。刻血針は真実を束ねるが、強引に相手の意志を捻じ曲げれば呪いは跳ね上がる。これまでの傷が証明していた。だが今夜は、選ぶ余地が少なかった。
隊列が崩れ、三方向へと消える。空はまだ暗い。エイレンとコンラッドは荷車の列に紛れて教区の補給路を進んだ。兵士の集団のすぐ後ろ、息が白く、鞭の音や縄の摩れる音が微かに届く。やがて、鋲の音が近づいた。供給係の小屋。書類箱と、鉄の鍵で閉ざされた木箱。そこに、教区の「名簿」があるという噂があった。
「静かに行くぞ」コンラッドが囁く。エイレンは肩越しに針を確かめた。彼の心の奥では、妹の名が小さな灯として燃えている。灯はどこかで薄くなった気がして、彼はそれをしっかり握っているつもりだった。
木箱の扉は固かった。外側には祭服に用いる白布が幾重にも巻かれ、家名や称号を記す印が打たれている。護衛は二人。短剣と十字形の徽章を携えた小柄な督励官が、丸いランタンの光に顎を突き出していた。エイレンたちは物陰から動く。音もなく、しかし緊張は可視化されるように身体を固くした。
突入は一瞬だった。コンラッドが右手を伸ばして督励官の首に跳ねつく。金属が擦れる音、そして短く切れた咳。兵は一人倒れ、ランタンが転がる。だが、もう一人が叫んだ。叫び声は警鐘のように小屋を震わせる。
「名簿を守れ! 名簿を――」
エイレンは走り出した。木箱の鍵をこじ開け、蓋を引き上げる。中には羊皮紙が重なって、表面に朱の印が押されている。彼は指先で一枚を引き出し、目を走らせた。そこに並ぶ文字は行と行を綴ぎ、名と生年月日、所属、そして――空白。欄の隣に小さな印が施されていた。印の下で、薄い繊維が震える。名はここから、削り取られている。
「これが――」コンラッドが言ったが、エイレンはそれどころではなかった。羊皮紙に書かれた名前の隣に、まだ乾いていない薄紅が一筋、幅を走っていた。護衛の手から流れた血だ。血は古い印の上に触れ、微かに光った。
エイレンは針を取り出す。刻血針の先端を、護衛の血の帯へと触れさせると、針先が震え、冷たい火花のような色が走った。空気が引き締まる。針に付いた血は、瞬時に文字へと絡まり、羊皮に滲んでいく。エイレンは低く祈るように声を出した。
「名を、綴れ。語れ。お前が見た真実を――」
護衛はまだ呻いている。意識は朦朧としている。エイレンは彼の手を捕まえ、針を血に浸し、針から伝わる小さな声に耳を澄ませた。血が語るのは、格式や儀式ではなく、恐怖に満ちた夜の断片だった。名前が帳面から削られる儀式。人々の記憶を砂のように払う手順。教区が公式に「名を無効化する」ための一連の判であること、それは各地で裁可され、軍と教団の協力で行われているということ。
文字が刻まれていく。針の震えが強くなる。だが痛みがエイレンを襲った。胸の中で、固く握っていたものがするりと滑る音が聞こえた。片隅の記憶が崩れていくのを、彼は肌で感じる。妹と夕暮れの川辺で拾った小さな貝殻。その感触、潮の匂い、彼女が笑ったとき舌先に残った歌の一節――ひとつずつ輪郭がぼやけ、色が薄れていった。
「動くな、エイレン!」コンラッドの手が肩を掴む。彼の目は真剣だった。針は血をなぞり、だが同時に何かを奪っていく。エイレンはその痛みを顔に出さないように努めた。
羊皮紙の上で、文字が最後の一画を結んだ。朱の印が跳ね、空気が解ける。針がぴたりと止まり、エイレンの膝がおぼつかなくなる。彼はサッと膝をつき、掌に伝わった冷たさを追った。何かが確かに書かれた。だが同時に――妹の名を呼ぶときに鳴る自分の声が、薄く、遠くなっていた。
「どうだ、見えたか?」コンラッドが囁く。エイレンは羊皮紙を覗き込んだ。そこには、教区が行う「名削ぎ」の手順と、複数の地名、押印の場所が並んでいた。だが、ある行の端に、小さく封られた符号があった。封筒のような折り目の中に、別の羊皮紙が差し込まれているように見える。
エイレンはその中程に指を入れようとしたとき、外から金属の足音と、太鼓のような合図音が聞こえた。護衛の叫び声が広がり、遠くの広場から教区兵が近づいてくる。警報だ。誰かが通報したのだ。
「時間がない」コンラッドの声。だがリラのことが頭をよぎる。彼女は図書庫へ、彼女の判断で動いた。規模の差を利用して時間稼ぎをするつもりだったのか。エイレンは立ち上がり、針を収める。だがその瞬間、胸の奥でまた一つが欠けた。
「エイレン?」コンラッドが不安げに訊く。エイレンは言葉を探した。妹の名を思い浮かべようとした。そこにあったはずの音節が、指の間からこぼれた砂のように滑り落ちる。彼は唇を噛んだ。名前の輪郭だけが残る。だがそれが、はっきりとは出てこない。
「行くぞ。リラの助けになるかもしれない」コンラッドが引き寄せる。二人は木箱を鎮め、羊皮紙を幾重にも包んで懐に押し込んだ。外では兵の声が近づく。エイレンの耳には、自分の心臓の音があまりにも大きく響いた。鼓動の合間に、遠い歌の一節が混じる。彼はそれを掴もうとするが、指先は空を掴む。
脱出路で、コンラッドは意を決したように言った。「リラが図書館にいる。だが、その先に何があるかは判らん。君が針を使った。代償は増えたはずだ。計画通りだと信じたいが――」
言葉はここまでだった。外の光が動き、城壁の向こうに一列の松明が現れる。教区兵の隊列だ。彼らは包囲を固め、三方向から切り取るように迫ってくる。エイレンはわずかに後ろを見た。夜明けの薄灯が、通りの角を白く焼き出す。そこに、マラが待ち構えていた。彼女は肩に小爆薬の束を抱え、目に決意が宿っている。だが表情は険しかった。彼女は独自に動く決意をしている。
「爆発で抜け道を作る。お前らはその隙に逃げろ」マラは言った。彼女の手は震えていたが、声は安定していた。「私が合図を出すまで動かないで。合図があったら、すべてを破壊する」
「いや、そんな危険は――」コンラッ