影を売る修道女は赦しを拒まない 第17話「第15章」
雨は道の石畳を磨くように細かく振っていた。街灯の黄が丸く滲み、路地は亀裂のような影を縦横に走らせる。その影を、イレナはいつもより鋭く見つめていた。今日持ち帰るはずだったのは、小さな木箱と一枚の羊皮紙だった。木箱の中身を確かめれば、王府が夜毎に回収している「影の徴(しるし)」の流通経路がわかるはずだ。羊皮紙はそれを追うための地図と、漏れ聞いた取引先の屋号。証拠の束だと、イレナは思っていた。
雨は道の石畳を磨くように細かく振っていた。街灯の黄が丸く滲み、路地は亀裂のような影を縦横に走らせる。その影を、イレナはいつもより鋭く見つめていた。今日持ち帰るはずだったのは、小さな木箱と一枚の羊皮紙だった。木箱の中身を確かめれば、王府が夜毎に回収している「影の徴(しるし)」の流通経路がわかるはずだ。羊皮紙はそれを追うための地図と、漏れ聞いた取引先の屋号。証拠の束だと、イレナは思っていた。
「ここで分かれる。ヴァルドは裏通りへ。セラ、屋根から合図を。マルコ、俺は前を押さえる」
リュシアが小さな声で言った。血走った目で前を見ると、雨のせいか彼女の手が震えているのがわかった。マルコは楔のように口を結び、杖を握った手に力を入れた。セラは屋根に登るより先に身を低くして路地の影に溶け込んだ。
「行くわよ、修道女」セラの囁きは、いつもより厳しかった。
イレナはただうなずき、木箱を袈裟の下に抱えた。箱は冷たく、木目が指先に食い込む。歩を進めると、どこからともなく足音が重く、規則的に近づいてきた。鎧の擦れる金属音と、長いコートの裾が石を払う音。王府の手先だ。影狩りと呼ばれる、影を狩る者たちの足だ。
「見つけた──」低い声が三つ、四つ。切れ長の眼が暗闇に光る。彼らは影を押さえ、影に触るための器具を携えていた。鋼の爪が先端についていて、空気を裂くと黒い油が飛んだ。
最初の衝突は刃が触れぬ間合いで起きた。セラが屋根から飛び降り、鋭い蹴りで先頭の者の膝を砕く。ヴァルドは裏通りから回り込んで、背後の足の筋を狙う。マルコは前面で体を張り、取り囲むように敵を押し返した。だが数が多い。王府の手先は整然としており、銃声はない代わりに呪具の唸りが空気を震わせた。
「イレナ、後ろ!」リュシアの声が叫びに変わる。背後から来た一人が、イレナの袈裟の裾を掴んで引こうとした。木箱が軋み、彼女の肩に重さを伝える。爪が羊皮紙に触れそうになったとき、イレナは本能で後ろに転げ、爪は空を切った。
その瞬間、彼女の影が壁に伸びる。いつものように形を変え、他の影と絡まり、語り始める——というのは表現の一つだが、実際にはイレナの体内から冷たい糸が引かれるように視界の端に細い光が走った。彼女は人々の証言を呼び寄せ、影の束として結びつける能力を使った。糸は風に濡れていて、指先に粘る黒い感触が伝わる。
「話せ。あなたの見たことを、ここに繋げる」イレナは低く唱えると、敵の一人の影が震え、薄い声が漏れた。人生の断片、交易の時間、王府の梱包のやり方。証言は端的で冷たい事実だった。イレナはそれを束ね、木箱と羊皮紙の前に放つと、証拠の輪郭が一瞬だけ光った。だが同時に、遠いところから何かが引き抜かれる感覚が走った。胸の奥、柔らかい場所を誰かが撫でるようにして、記憶の粒が抜け落ちる。
「イレナ?」マルコの声が恐怖を帯びた。彼女は自分でも分からない記憶の欠落を感じた。誰かの笑顔、月明かりの下で交わした約束の言葉、幼い頃に覚えた子守歌——一つ、また一つと、まるで風で飛ばされた紙片のように消えた。代償だと理解する前に、口元から漏れたのはセラの名だった。そこにあったはずの、セラがかつてイレナに渡した小さな指輪の思い出が、白く薄れていく。
その変化は、敵にも効果をもたらした。証言の集合はほんの一瞬、王府の手先たちの足取りを止めさせる。仲間たちはその隙を突いて攻勢に出た。セラは鋭く跳び、相手の喉笛を斬った。ヴァルドは重い膝蹴りで盾をへし折る。マルコは敵の一団を押し返し、リュシアは負傷した仲間に包帯を巻くために屈んだ。
だが代償は人ごとでは済まなかった。イレナが証言を握りしめるたびに、影が震え、近くの影たちがざわめく。救済を強制するように真実を突きつけると、そこから別の影が生まれるように見えた──細い黒い筋が増え、路地の壁に新たな割れ目のような影が伸びた。小さな影が、誰かの足首にまとわりつく。リュシアの目がひどく見開かれた。「影が……増えてる!」
「強制は──止めろ!」マルコが叫ぶ。彼の手は震え、剣先は敵の重装を受け止めていた。イレナは自分の手を見つめる。証明のために人の証言を横取りする——それは彼女の仕事であり、信仰の形でもあった。だが今、目の前で産まれる影は、誰かの意思を踏みにじって救おうとする行為の代償なのだ。
「あなたは何を守るつもりなの?」敵の一人が苦しげに笑いながら、草臥れた手で胸の内側に刻まれた焼印を見せた。王府の紋章と同時に、見慣れない小さな刻印が血に赤く光っている。影祓(かげはらい)と呼ばれる者たちの証だ。だがその刻印の端には小さな文字があった。イレナはそれを読み取るためにもう一度力を集中しようとした。その瞬間、頭の奥にあった三つの記憶が同時に消え去った。初めて母と手をつないだ日の匂い、修道院で最初に読んだ祈り、そして、マルコと交わしたある約束の細部が、白紙になった。
「イレナ!」リュシアが駆け寄る。血で濡れた手がイレナの腕を掴み、必死にその目をのぞき込む。「大丈夫? 覚えてる? マルコが――」
言葉はどこかに消え、マルコ自身がぎょっとしている。彼の顔の向こうに、わずかな不安がある。イレナは、自分の記憶が仲間との結びつきの一部であることを痛感した。その絆が薄れれば、仲間たちの信頼も揺らぐ。自分が救いを強要することで、救われるべき人たちの影は増え、やがて路地そのものが呪いに覆われる。彼女は手を離し、深く息を吐いた。
「行くぞ」セラが命じる。彼女は濡れた刃を振るいながら、倒れかけた仲間を引きずって屋根の影へと誘導した。ヴァルドは咳をし、左肩から血を垂らしていたが、前方に目を据えた。「俺は奴らの残党を追う。マルコは傷を抑えろ、リュシアはここを守れ」
仲間たちがそれぞれの判断で動き出した。セラは素早く負傷者を屋根上に運び、そこで応急処置を施すことを選んだ。ヴァルドは静かに路地の奥へと消え、敵の後を追った。マルコは膝をつき、イレナの腕に手を添えた。「お前、無理するな。記憶は……取り戻せるかもしれない」彼の声は言葉を選びながら、しかしどこか確信がなかった。
イレナは首を振った。記憶は戻るかもしれない、だが代償は増えていく。彼女は今日、証言を束ねたことで誰かの目に真実を曝したが、その分だけ暗い影が増えた。雨はやがて止む気配を見せず、路地の壁は新たな影で覆われ始めている。
「私一人で――」と言いかけて、彼女はやめた。既に一人ではない。仲間がそれぞれの責任を担って動き出した。自分が背負っている代償を、誰にも強制するわけにはいかない。だが選択を仲間に委ねれば、彼らが受けるリスクも増える。
そこで、リュシアが小さな声で言った。「あの男が落としたもの、見た? 銀の筒。中に巻かれた紙があったわ」
イレナは目をそらせず、路地の残る敵の死角を見た。ヴァルドが戻ってきたとき、彼の手には湿った銀の筒が握られていた。筒の蓋には、王府の紋章とともに、六つの小さな符号が刻まれている。ヴァルドはそれを差し出した。
「これが、奴らの配達品だ。中身は……影を封じた小箱だ。いくつかは街に配られているらしい。箱を開けたら、影が──」
言葉を飲み込んだ。箱は影を閉じ込め