海召喚 第11話「第10章 潮は選ぶ」
朝の風は冷たく、海はまだ眠りから目覚めきれていない。蓮は船縁に腰を下ろし、指先で海面をなぞるようにして波の脈を確かめた。遠くの水平線がぼんやりと白んでおり、漁り火の残り香が風に溶けている。今日は村の南にある小さな入江へ行く。そこは先日の沈み込みで堤防が崩れ、家屋が低くなり、漁場が荒れた場所だ。
朝の風は冷たく、海はまだ眠りから目覚めきれていない。蓮は船縁に腰を下ろし、指先で海面をなぞるようにして波の脈を確かめた。遠くの水平線がぼんやりと白んでおり、漁り火の残り香が風に溶けている。今日は村の南にある小さな入江へ行く。そこは先日の沈み込みで堤防が崩れ、家屋が低くなり、漁場が荒れた場所だ。
「蓮、準備できてるか?」ソロが甲板を踏む足音とともに訊いた。彼は小さな調査器具の入った箱を抱えている。タケルは長いロープを肩に掛け、表情をこわばらせていた。久蔵は港に残り、ほかの者たちの手配を進めている。
蓮はうなずき、腰に下げた小瓶を取り出す。それはいつもの習慣だ。施術の前に海を確かめること、手に一掬いの海水を持つこと、そして短い掛け声を口にすること——海召喚の条件は単純だが、蓮の胸にはいつも不安がある。使えば島は守れる。しかし、使うたびに何かが別の場所で歪む。補填の穴はどこかへ出る。代償は体に刻まれる。
小舟はゆっくりと港を離れた。二人の仲間が漕ぎ手を交代し、波紋が後ろへ広がる。蓮は黙って海を見つめ、前世の手癖で潮目を読む。魚群が集まりそうな場所、岩礁の影、砂の流れ。見慣れた世界の読み取りが、ここでも生きていることを確認するだけで心が少し軽くなる。
入江に着くと、光景は思ったより荒れていた。堤防の石が崩れ、砂浜が洗われ、家の基礎の一部が海水に浸かっている。漁具小屋は半壊し、子供たちは怯えた目でこちらを見ていた。老女がゆっくり近づいてきて、目を細めて蓮を見て言った。
「お主か。沖から来た浜の者かね。ありがとう。だが潮はもう、選び始めたようだ」
蓮はその言葉に胸が詰まる。老女の言い方には、諦めでもなく、ただ事実を淡々と告げる冷たさがあった。彼女の手は長年の塩風にさらされて皺が深い。海と共に生きてきた者の手だ。
「ここを直したい。堤防をつくり直して、漁場を安定させたいんだ」と、蓮はまず口にした。魔法で一気に元に戻せるならば、そうしたい。しかし彼は自分の限界を知っている。むざむざと、別の集落を傷つけるわけにはいかない。
老女は蓮の顔をまっすぐ見て、小さく笑った。「若いの。力はあるのかもしれん。だが力だけじゃ潮は捕まえられんぞ。潮は……選ぶ。昔からそうじゃ」
その言葉の重さが、村人たちの静けさへと波及した。誰もが黙って働き始める必要があるという空気が生まれた。蓮は息を吸って、まず手を動かした。道具を運び、砂をかき、石を積む。魔法を使わないという選択肢は、彼にとって贖罪にも思えた。
「蓮!」と声がして、ソロが近寄った。彼は海底の資料を切り出した小さな装置を蓋ごと開け、中の読み取り結果を示した。表示には海流の急変がグラフで出ている。特定の時間帯に複数地点で同じような落差が生じる。
「補填のパターンだ。お前が使ったわけじゃないけど、同じロジックの揺れが出ている。遠隔的に位置が移動している」ソロは淡々と言ったが、目は真剣だった。
蓮は自分の胸が締めつけられるのを感じた。やはり、何か巨大な力が働いている。だが目の前の生活が壊れている今、待ってはいられない。村人たちの表情がそれを許さなかった。
そこで蓮は限定的に海召喚を使うことを決めた。まずは最小限の仕事だ。堤防の崩れた箇所に流れ込む潮の流れを緩め、作業をする間だけ水位を抑える。彼は港の向こう、水平線をはっきり視界に入れた位置に立つ。手を海に伸ばし、小瓶から海水を一掬い掌へと注いだ。冷たい液体が指の間に滑り込む。条件は満たされた。
蓮は一度唇を湿らせ、海の匂いを深く吸い込んだ。小さな声で、いつもの三言を唱えた。「潮、来たれ」
言葉は海風に乗り、ゆっくりと空に溶けていく。最初にわずかな違和感が掌から広がり、次に目の前の海面がまるで糸で引かれたように動いた。入江の水は静かに削られ、崩れた石の周りにできた渦を解いた。水位は目に見えて下がり、作業スペースが生まれた。
村人たちが歓声を上げ、泥だらけの手が石を押し上げる。蓮もまた体を動かし、石を押さえ、縄を引く。ソロは機材を固定し、タケルは年少者たちを励ました。だが蓮の節はすぐに鈍くなった。血の気が引き、喉が渇く。
使い終わると、海は元に戻ろうと力を取り戻し始める。蓮は両膝をつき、海水で湿った掌を床に押しつけて支えるようにして呼吸を整えた。顔が青ざめ、視界の端が暗くなる。これはいつもの代償だった——強い脱水と疲労だ。
「蓮、大丈夫か?」愛那が膝をつき、蓮の肩に手を置いた。彼女の目には心配と怒りが混じっている。怒りは、蓮がまた自分を壊したことに対するものだ。
「すまない。もうちょっとで仕上がる」蓮は苦笑した。だが唇がカサつき、体がだるい。腕の内側に新しい模様が薄く浮かんでいることに気づく。薄い潮柄が指先から肘にかけて、淡い青の線となって走っていた。触れると少し熱い。
老人が遠巻きに蓮を見つめ、かすかに呟いた。「あの子の手には、潮の痕が――昔の守り手の話に似ておる」
だが同時に、港の別な場所で遠方の小集落が急激に海面の低下を報せたという知らせが入った。補填の穴は、蓮が少しでも水を動かせば別の場所へと影響する。山の向こうの集落で井戸が枯れ、漁場の浅瀬が干上がる。蓮の胸に冷たいものが流れ落ちる。
「俺のせいだ」と、蓮は声を落とした。声が震え、石の上に頭を打ちつけるほどの疲労が襲った。「ここを守った代わりに、どこかを壊してしまった」
「蓮!」タケルが走り寄ってきて、蓮の肩を掴んだ。彼の瞳は激しく、言葉にはやや焦燥が混じる。「そんなこと、言うな。お前はやった。ここを守ったんだ。俺たちはそれを止めるべきだったのか? あの連中に任せるくらいなら、俺たちがやるしかなかったんだ」
タケルの声は震えていた。蓮は彼を見つめ、短く息を吸った。タケルの顔には疲労と負い目がある。蓮はそこに目を留める。
「……タケル、俺はお前に聞きたい。商団と関わったのは、本当に金のためだけか?」
タケルの表情が固まる。彼は小さく笑い、首を振る。「金だけじゃねえ。あの時は借金があった。父さんの医療費だ。俺は家族のために、一度だけ彼らの手伝いをした。だが、そのときからずっと、俺は中にいて情報を得ていた。どうすれば商団が動くか、どんな船が来るか。それでここを守ろうと思ったんだ。誰も信じてくれねえだろうけど……俺はお前たちを裏切るつもりはねえ」
言葉は切実で、タケルの両手は小刻みに震えている。村の空気は一瞬にして変わり、疑いは怒りに変わるところだったが、ソロが資料を差し出した。そこには、タケルが密かに渡してきた商団の動きの記録と、蓮たちが空白を埋めるために使った手法の詳細があった。タケルの行為は、島を内部から守るための危険な賭けだった。
「証拠はあるか?」久蔵の低い声が聞こえた。タケルはうなずき、懐から薄い紙切れを取り出す。そこには商団の船着場の予定表と、何度か交わされたメールの写しが印刷されていた。久蔵はそれを見て、長くため息をついた。
「返せ、タケル。お前のやり方は危なかったが、意図は分かる。二度とそんな危険なことをするなよ」久蔵の声には怒りはない。あるのは、親のような諭しだ。タケルは涙を拭い、深く頭を下げた。
村