料理ギルド 第14話「第一部幕間」
ギルドの炉は今日も明るかった。灰の中から立ち上る静かな熱が、食堂の薄暗い空気を和らげる。ユウは火の前に立ち、掌で新しい種の豆を確かめるようにそっとこねた。指先に伝わる豆の肌理は、前世の記憶のように鮮明で、けれど――その隣にぽっかりと穴が開いているのを、ユウは自分の胸の奥で感じていた。
ギルドの炉は今日も明るかった。灰の中から立ち上る静かな熱が、食堂の薄暗い空気を和らげる。ユウは火の前に立ち、掌で新しい種の豆を確かめるようにそっとこねた。指先に伝わる豆の肌理は、前世の記憶のように鮮明で、けれど――その隣にぽっかりと穴が開いているのを、ユウは自分の胸の奥で感じていた。
「今日は外向けの保存食を──」と言いかけてユウは言葉を切る。いつもの配合が、手の中でふっと抜ける。どうしても思い出せない。学校の調理実習で習った手順なのか、幼い頃に母が作ってくれた味なのか。ユウは掌の豆を皿に戻し、深呼吸してから自分に言い聞かせた。
「忘れても、配るよ。誰かが腹を空かせてるなら、それが先だ」
ミナが帳簿を抱えてドアのところに立っていた。受付の顔はいつもより疲れている。だが、目は決して曇らない。ミナは食堂の運営と外部折衝を担っている。ユウが記憶を失い始めたことを、彼女は静かに受け止めていた。
「届いてる。先ほど役場から回付が来たわ。中央の宗教院──"教団"と称するところが、調査団を送るって。正式な文書よ」ミナは書類を差し出した。封印の印は黒紅。地方の役所がこうした通知を出すのは、珍しくない。だが、それがギルドの食堂に向けられていると考えると、空気が一枚重たくなる。
ユウは封書の印を見つめた。教団。中央。遠方にいるはずの大きな力が、この小さな食堂を「問題」であると定めはじめている。日替わり食堂が評判を呼んだ。評判は波紋となって広がり、誰かの利権の神経に触れたのだ。
「どうする、ミナ?」ロッコが背後からぶらりと現れ、床で靴の泥を叩いた。若手冒険者らしい風の無骨さはあったが、目は守るべきものを見定めている。彼は配達と護衛を引き受けることで、食堂の外縁を守ってきた。
「猶予を求めるわ。調査には協力する。でも、調べるなら同時に商会の供給記録も出してもらう。偏った情報だけで裁くなら、こちらも情報を開示する。その場で戦う気はない。まずは町民の安全を確保すること──それだけ言っておく」ミナは速い舌で応酬した。彼女の交渉は戦術的で、必要な部分を切り取って露骨に出すことができる。
ハインは席でそのやり取りを黙って聞いていた。老紳士の額には深い皺が刻まれ、指先にいつもの紙片をひねっている。彼が差し出した家系図の一角に、古い役職名が小さく書かれていた。「食奉行」。ハインの手の震えが、過去を思い起こさせた。彼は長くこのギルドの舵を取ってきた。今は守り役であり、かつては分配の仕事に深く関わったことがあるらしい。だが、その全貌はまだ伏せられている。ハイン自身が語るべき時を待っているのだ。
「ユウ、今日の作業は控えめにして」ハインが低く言った。「使い方を誤れば、土にも人にも影響が出る。君は手を使いすぎた――その分だけ、記憶を失っているだろう?」
ユウは頷いた。髪をかき上げると、目の奥が痛んだ。最近、日常の細かい記憶がすっと抜け落ちている。前世の風景、友人の顔、学んだレシピの由来。それらは代価として消えつつあるのだ。ミナもハインもエリアも、それを見ている。
「代償を理解してやってるのに、それでも続けるのか?」ロッコは直接に問うた。声は乱暴だが、問いには真実がある。
「食べる人がいる限り」ユウは答えた。手の中の豆をぎゅっと握る。「簡単に諦められないんだ。喰わせなきゃならない人がいる。誰かの笑顔ひとつで、全部の価値があるって思ってきた。忘れる代わりに、今を返す。それでいいと思う」
ミナはそれを聞いて唇を震わせた。彼女は書類を机に投げるように置き、もう一度外套の襟を整えた。「いいわ。だけど、ルールは守る。あなたは条件に従って作ること。共有の火、直接の手触り、純粋な意志。禁止事項は絶対よ。人の命を奪うような形で補填したり、他人の意志を操作したりしないで」
ユウはその言葉を反芻した。能力にはきっちりとした枠がある。直接触れ、共有の火で調理する。誠実さが揺らげば作用は弱まる。複製はできない。命の搾取は禁忌。ユウは自らの誓いとして、それらを胸に刻んでいる。だが、代償が積み重なる感覚は、抑えがたく増えていった。
そのとき、エリアが泥の付いた手のひらを拭きながら入ってきた。元農夫の女は、土の匂いを纏っていた。彼女は畑から戻るとすぐに掌に土を盛り、それをテーブルに置いた。土には緑の微かな粒が混ざっていて、乾いた表面が光を受けて微かに反射する。
「見てくれ」エリアの声は低かった。「収穫ラインの一部で、味が偏ってきている。葉は薄く、実が小さい。それから……」彼女は箸で土をすくって、ユウの鼻先に近づけた。「この匂い。馴染みのある甘味の欠片が、土に残ってるの」
ユウは土を嗅いだ。泥の匂いの奥に、確かに何かが混じっている。コトッと胸に何かが落ちる。これは能力の残滓だ。ユウが鍋で紡いだ「味」は、食べられた先にとどまらず、土へと回帰している。エリアはそれを「味の欠片」と呼んだ。彼女は顔をしかめた。
「このままだと種が偏る。来年の収穫に影響が出るわ」エリアは続ける。「一時的な救済はできても、土に蓄積されれば長期的には作物が歪む。糧のバランスが崩れてしまう」
ミナが書類をめくりながら言った。「農業局にも報告を上げる必要がある。だが、もし中央教団が介入して『自然の秩序を乱す行為』と判断すれば、ここは押収されかねない」
ハインの手がふるえた。彼は立ち上がり、棚から小さい箱を取り出した。箱の中には古い銅鍋の破片と、黒ずんだ瓦片が入っている。銅鍋の底にはかすかな模様が刻まれており、その輪郭は町の外縁を走る古い紋章によく似ていた。ハインはそれを指でなぞる。
「これはただの遺品ではない。分配のために使われてきた器だ。古文書にも記述がある。だが、その意味を正しく理解して扱った者は少ない」ハインは小声で言った。彼の顔には、何代にもわたる責務の重さが浮かんでいる。
ユウは鍋破片を手に取り、指紋をそっと擦る。金属の冷たさが掌に喰い込む。彼は、その冷たさと一緒に、また一つの記憶がすうっと消え去るのを感じた。名前が、出来事が一つ消える。消えゆく記憶の断片は、ユウの胸を鈍く疼かせる。
「これが封印の一部で、使い方次第で均衡を癒すか壊すかの鍵になるかもしれない」ハインは続ける。「だから、誰にも簡単には渡せない」
ミナが立ち上がり、短く小さな声で言った。「外部に知られるより、まずはここで調べるべき。教団に全てを渡す前に、自分たちで証拠を整え、代替案を出す。それが無理なら、私が役所を動かして時間を稼ぐ」
ロッコは窓の外を見た。遠くの道を行き交う商人の車列が、いつもより警戒しているように見えた。「商会も静かじゃねえ。密使を送ってるらしい。中央に『こいつらが秩序を乱す』って報告しやがった」
「間違いなく、商会は我々を潰したいだろう」エリアが短く言った。「でもそれだけじゃない。隣の郡でも、似たような現象が報告されてる。味の偏り。収穫の不均衡。これは連鎖の始まりかもしれない」
ハインは深く息をつき、窓の外に広がる小さな町を見渡した。夕暮れが屋根を染める。子どもたちが道端で遊ぶ声が、柔らかく聞こえる。あの笑い声を守るために、何を差し出すべきか。ハインの