魔王軍

魔王軍 第19話「第十七章 旗塔の腹の中で」

旗塔の壁は思っていたより薄かった。外見は古びた石の塔だが、その内部は鉄と木の層が何重にも折り重なり、縦に走る通路の両側に機械めいた脈絡が埋め込まれている。灯りは僅かに青白く、振動が指先から胸へと伝わってくる。悠は掌をその振動に軽く触れ、刻印の刻まれた金属片をぎゅっと握り直した。重さは実在した。ここが回路の一つであることを、身体が教えてくれた。

旗塔の壁は思っていたより薄かった。外見は古びた石の塔だが、その内部は鉄と木の層が何重にも折り重なり、縦に走る通路の両側に機械めいた脈絡が埋め込まれている。灯りは僅かに青白く、振動が指先から胸へと伝わってくる。悠は掌をその振動に軽く触れ、刻印の刻まれた金属片をぎゅっと握り直した。重さは実在した。ここが回路の一つであることを、身体が教えてくれた。

「ざっと見て回る。ハル、図面を頼む。メディアは緊急治療の準備を。ガルド、前線を固めてくれ。リリィは――離れていてくれ、声が干渉するかもしれない」

命令は短い。だが合図というべき言葉を口に出したとき、塔の中はもう交戦の気配で満ちていた。重心を低くして近付くと、通路の曲がり角で前方に立つ影が一瞬、揺れた。影は人間の形で、手には小型の発振器らしき器具を抱えていた。器具の先端には小さな受口がいくつも並び、そこに刻印のある弾丸のようなものが嵌まっている。

「お前ら、よく来たな」影の男は笑った。ロルフ──第十三中隊の兵士の一人だ。長らく隊の中では懐疑的で、悠の非殺傷方針に反発していた者だった。彼は目が赤く充血し、汗で髪をぺたりと額に貼りつかせていた。背後には結社の黒い装束を着た数名の男が立つ。罠だった。

「ロルフ……なぜ」ガルドの怒声が四方に響いた。だがロルフは俯き、震える声で言った。「家族が──子供が人質なんだ。選択なんてできなかった。俺はただ、これで終わるって──」

言葉の切れ目で、塔の内部に低い唸りが走った。壁の嵌め込みから光が流れ、幾つかの小さなソケットが摺動して開いた。その内側には刻印と同じ紋が刻まれている。ロルフは手に持った発振器を押し付け、器具がソケットに嵌まると、塔の振動は一段と鋭くなった。

「動くな。ここで終わらせてやる。争いの枢に返すんだ、また食わせるためにな」結社の男が低く囁いた。

悠の胸の奥で何かがざわついた。旗塔の起動だ。図面で見た理屈が目の前で現実になり、人々の心に余波を打ち込もうとしている。遠く、燈ノ里で見た幼子の興奮した顔がちらつく。ここで止めなければ、塔は周囲の感情を吸い上げ、波及する。

だが止めるためには、まず罠の中にいる仲間たちを安全に動かさねばならない。ロルフを罰するか救うか。悠は瞬時に選択を迫られた。拳を握ると、掌の金属片が冷たく振るえた。統率共鳴はここで使える。だが代償は何度も知っている──全身の疲労、些細な記憶の喪失、そしてあの標定の気配。もう一度使えば、何かを失う。今回は、誰が代償を払うに値するかを自分で決める場面だ。

「悠、どうする?」ハルが耳元で鳴った。彼の表情は震えているが、情報網で得たことが裏目に出たことへの悔恨が滲んでいた。

悠は周りの顔を見た。ガルドの額の血、メディアの冷静な眼差し、そしてリリィの小さな手が唇に当たっている。ロルフの目がわずかに濁り、誰かの名前を呟くのを悠は聞いた。それは幼い兄妹の名だった。罠にかかった理由は、どれほど卑しくとも人の情でひび割れている。

ここで命令を下せば、統率共鳴は仲間の協調を一瞬で高める。だが条件がある。触れること、短い口頭命令、そして交戦状態であること。悠は近くの三人に素早く手を伸ばした。ガルドの肩、メディアの腕、そしてハルの手首を掴む。皮膚が接触した瞬間、掌の刻印が暖かく微かに震えた。

「全員、俺の声を軸に──敵を傷付けずに退く、包囲を崩しつつ脱出と拘束を優先しろ」

命令は一文。交戦の真っ最中だった。言葉を出すと同時に、触れた三人の間で時間が滑るように整頓された。視界が鋭く、四方の足音や武器の位置が瞬時に整列して見える。統率共鳴が働いた。触れていない者には直接の影響は及ばないが、触れた三人がそれを瞬時に伝播させるように動き、隊全体の動きがまるで一本の筋肉になった。

ガルドは咆哮と共に突進し、盾で敵の最前列を押し広げる。メディアは静かに前方へ出て、拘束具を投げつける位置を指示する。ハルは人を操るように走り、結社の男たちの腕を翻して器具を弾き飛ばす。ロルフを非致死で押さえ込もうとする若い兵士を、触れた三人が互いの動作を読んで補助し、周囲の敵を致命傷に至らせず拘束する手順を採った。

効果は完璧ではなかった。混線は存在し、結社側の一部は激しく抵抗した。敵が自らをかばうために暴発し、死に至る事例も起きたが、それは統率共鳴の責任ではない。悠は命じた。「非致死で」──命令は通った。仲間たちは、その枠内で最大限に闘った。

だが行為の代償は、いつも通りに厳しかった。悠は命令を出し終えると、三人の体から伝わる集中の波が脳に逆流するのを感じた。視界が白く縁取りされ、地面が柔らかくなる。目の前の景色は紙のように薄くなり、音は遠くなる。「やめろ、悠」と誰かが叫んでいる気がしたが、言葉は脳の中で揺れるだけで十分には届かなかった。身体が重くなる。呼吸が浅くなり、膝がガクガクと崩れそうになる。

目の端でリリィが駆け出し、歌を口ずさんでいた。だがその歌は、塔の中の周波と微かに干渉している。悠は無意識に手を伸ばし、指先でリリィの肩を掴んだ。接触は小さかったが、呼吸の交換が起きる。彼女の目が彼を見る。安心のような、でも恐れのような光がそこにあった。彼はそれを最後にしっかりと捕まえようとした。

撤退線が開いた。メディアが薬紐で結社の男の手を固め、ガルドが盾で道を切った。ハルがロルフの肩に刃を向けた敵を引きはがす。数分の間に、戦況はぐっとこちらに傾き、結社の部隊は混乱し、塔の内部での制御は部分的に失われた。悠は応援の歓声のような温かい波を感じた矢先、全身がドサリと床に沈んだ。

疲労はいつもと違った。骨が鉛のように重く、思考が粘る。仲間の声が風景のように流れていく。悠は目を閉じた。記憶の断片が、ひとつ、ふたつと抜け落ちる感覚がする。小さな穴が頭の中に開いていき、そこから過去の色や匂いが零れ落ちていく。

「悠、大丈夫か!」メディアの叫びが聞こえた。遠くでガルドが笑いながら「ふざけんな、まだ居やがったか!」と叫ぶ。ハルの指が悠の肩を叩いた。リリィは無力に見えたが、彼女の目は必死に悠を見つめ、唇が震えていた。

そして、脳の奥からひとつの記憶が出て行った。悠はそれが何だったのか掴もうと手を伸ばしたが、指先が空を切った。ほんの些細なものだった。幼い頃の、薄緑のブランコに揺られながら聞いた祖母の笑い声の、最後の音。それがどのように響いたかという確かな感覚が、するりと抜け落ちた。喪失は小さくても、胸の中に冷たい隙間を残す。

「何を失った?」ハルが低く聞く。悠は喉を鳴らしたが、言葉が出ない。手の内をまさぐると、刻印の金属片はひんやりと静かだった。失ったのは小さな記憶だ。だが、今は小さくとも、積み重ねれば人の根っこを揺るがすものだということを、悠は経験で知っている。

「大丈夫だ。起きろ、悠」ガルドの声が震えている。彼は悠の体を引き起こす手伝いをした。だが悠の目に見える世界は少しだけ薄く、人物の輪郭がぼやける。誰かが手のひらに触れたとき、そこに残った印がいつもより黒く見える。刻印の跡──統率で残る紋が、掌に微かに浮かんでいた。悠はそれを見て、胸の底に冷たいものが走るのを感じた。