迷宮番 第15話「第13章 換源院の接触」
朝の空気が迷宮入口広場を透き通らせていた。薄い霧が路面の苔を濡らし、商店の旗が静かに揺れる。斎藤誠は管理室の小窓からその光景を眺め、静かに息を吐いた。いつも通りの朝の仕事だ——だが今日はいつもと違う名刺が机に置かれていた。白い厚紙に金箔で押された三文字。換源院。
朝の空気が迷宮入口広場を透き通らせていた。薄い霧が路面の苔を濡らし、商店の旗が静かに揺れる。斎藤誠は管理室の小窓からその光景を眺め、静かに息を吐いた。いつも通りの朝の仕事だ——だが今日はいつもと違う名刺が机に置かれていた。白い厚紙に金箔で押された三文字。換源院。
「昼前に代表団が来ます。局地調査って名目ですけど、規模は大きいらしいですよ」
ミカがカウンター越しに報告すると、彼は軽く頷いた。ミカの目に影が差している。家系の古文書に由来する印章の話を打ち明けてから、彼女は何かを抱えていた。
外では既に輩出したトラックが資材を運び込み、白い研究テントが三張並んでいた。換源院のロゴが風に透ける。町の有力者と一部の商人は歓迎の姿勢を示し、冒険者の間には不安と怒号が混ざった。
「金と技術の申し出だ。村は潤う。だが、俺たちの管理の範囲は変わらない」
誠は集まった住民の前で平席に立ち、淡々と話した。言葉には力があったが、それが保証になるわけではない。換源院はすでに学者と技術者を連れてきている。彼らは笑顔を欠かさず、手際よく測定器を組み立てた。
「管理盤を見せて欲しい」
代表の一人が礼儀正しく求めた。黒縁の眼鏡の奥で瞳が冷たく光る。研究者らしき若い女は、小さな端末を誇らしげに取り出していた。エールがその端末に興味を示して、ふわりと近づく。
誠は躊躇を消して頷く。見せること自体は問題ではない。だが管理盤には条件がある——管理室にて、登録印を有し、巡回ログを一件以上持っていること。彼はそのすべてを満たしていた。登録印は掌に、巡回ログは机の端に積んだファイルにあった。
管理室の扉を閉め、誠は古い木製の卓の上にある管理盤のパネルに手を触れた。盤は冷たく、盤面に浮かぶ文字は夜露を含んだように淡い。彼は登録印の印章を押し、掌で軽く押さえる。手のひらに馴染んだ金属の輪がひんやりと肌に残る感覚。これが“正式な管理者”としての承認だ。
エールが管理盤の縁で羽をばたつかせ、観測用の小さな光球を飛ばす。盤の上に、迷宮の立体図がゆっくりと立ち上がった。色のついた線が通路を描き、赤や黄で危険箇所が点滅する。研究者たちの端末もその情報を受け取り、興奮した声が漏れた。
「見えますか? 通路の再配列も可能なんです」
誠は言葉を抑え、機能を簡単に説明した。彼は深呼吸をしてから、テストとして一箇所の通路を短時間だけ迂回させる小さな操作を行った。条件に忠実に、彼は直近の巡回ログを一件選び、それを管理盤に読み込ませる。ログはただの記録ではなく、現場を確認した証明だ——それが無ければ操作は鳴らない。
盤の光が強まり、立体図の一部がカチリと音を立てた。外の通路で、石の壁が滑るように位置を変え、短い安全通路が現れた。窓から見下ろすと、冒険者が驚きと安堵で顔を上げた。研究者は手を叩いて喜び、録画を始めた。
だが、誠の身体には即座に異変が出た。胸の奥が重くなり、頭の端に白い霞が降りてくる。小さな衝撃が背骨を伝い、右手の指先が痺れたように感じた。
それは代償の始まりだった。管理盤を動かすたび、彼は肉体的疲労とログの一部喪失を払う。今日の操作は小規模だが、それでもコストは現れた。彼は片手で胸を押さえ、笑顔を作って会議室の外へ出た。研究者たちはその様子に気づかなかった。
「確かに……効率的ですね。だが、これを外部に持ち出して遠隔運用できれば、もっと多くの事ができるはずだ」
黒縁の男が静かに提案した。言葉は友好的だが、奥底に意図が見える。換源院は迷宮を“対象”にしている。対象は利益の源泉だ。
誠は冷たく首を振った。「できない。管理盤の条件はここにある。管理室が基点で、私が登録印を持たねばならない。外部に持ち出すことはできないし、外部の者を恒久的に支配するような使い方はできない」
「しかし、安全のための共同管理や、ログのコピーを頂ければ研究が進みます」
若い女が微笑を崩さず言った。「エールのログは特に興味深い。断片的な語が観測されている。学術的に価値が高い。コピーを取らせてください。こちらで解析すれば、町のためにもなります」
彼女の言葉は巧妙だった。町のため、世界のため。誠はミカの顔を見る。ミカの目に不安が浮かんでいる。ミカは家系のことを公にして以降、換源院の接近に心を乱されていた。
「ログの取り扱いは慎重にしなければならない」
クルムが静かに割り込んだ。中位の番人ゴーレムは、古い番人のやり方を体現するように、硬質な声で言った。「記録は迷宮の一部だ。外部に渡すことは、迷宮の身体の一部を削るようなものだ」
若い女はその言葉にも笑顔を崩さなかった。「私たちは倫理規定を守ります。研究に必要なのはコピーであって、原本ではない。もちろん、管理者様の許可を得て行います」
誠は管理室へ戻り、管理盤の前に立って考えた。エールが彼のそばで光を零し、管理盤の縁に手を触れてきた。その小さな機体が囁くように音を立てる。
「ログは宝物じゃない。だけど、軽々しく渡せる物でもない」
誠はエールにだけ小声で言った。エールはピッと光って反応し、調査用の音波を軽く吐き出した。エールの中に、古いログの断片が封じられている。あれは番人が残したものと交じっている。換源院が目を輝かせるのも当然だ。
「コピーは認められない」
誠は静かに答えた。「解析が必要なら、ここで立会いのもとで行う。ログを複製して外部に持ち出すことはできない。管理盤の条件もある。私の管理室外での運用は不可能だ」
研究者たちの顔に一瞬だけ影が走った。代表の黒縁が口角を上げて、それを隠した。
「分かった、では暫定的に我々の装置でここにあるログをスキャンさせてくれ。データをコピーするのではなく、解析のために一時的に接続するだけだ」
誠はそれにも首を縦に振らなかった。接続は接続だ。彼は、管理盤の“局所性”以外にも、ログの一部が個人的記憶に結びついていることを思い出していた。かつて、管理盤を動かすと父親の囁きのような記憶がぼやけた。ログは彼の人格の一部を削る。それを他人の装置で接続されれば、何が起きるか分からない。
「ここでなら解析見学は許可する。ただし物理的なデータを持ち帰ることは認めない。誰かが記録を盗もうとしたら、即刻作業を中断する」
黒縁はそれで妥協したふうに頷き、代表団は研究テントに戻った。町はその妥協を歓迎する者と、それを薄謝として見る者に分断されていった。
昼の会合が終わり、誠は管理盤をシャットダウンした。盤から離れると、胸の重みは多少和らいだが、指先の痺れは残っている。小さな喪失――思い出の端が霞む。誰かの顔が一瞬だけぼやける。何の顔だったか、思い出せない。エールが心配そうに彼の袖をついばむように触れた。
「大丈夫か、ボス?」
エールの声は甲高く、しかし気遣いが篭る。誠は苦笑した。
「まだいける。だが使い過ぎは禁物だ」
夜になり、換源院のテントでは研究が始まった。換源院は装置を持ち込み、エールの出力に興味を示し、深夜にかけてデータの取得を試みるという。誠は管理室で夜番を続ける。外の街灯が揺れ、迷宮の奥から低い唸りが時折響く。彼は巡回