迷宮番 第10話「第9章」
朝のひんやりした空気の中、工事現場は既に機械の咆哮で満ちていた。巨大なドリルが地面をなで、鉄骨が組み上げられる音が喧騒となって迷宮の入口広場を揺らす。監督と称する男は公文書を胸に押し当て、士気を焚きつけるように作業員を鼓舞していた。彼らの背後には、市役所の大判の封筒と、白銀の丸い章印がちらつく。
朝のひんやりした空気の中、工事現場は既に機械の咆哮で満ちていた。巨大なドリルが地面をなで、鉄骨が組み上げられる音が喧騒となって迷宮の入口広場を揺らす。監督と称する男は公文書を胸に押し当て、士気を焚きつけるように作業員を鼓舞していた。彼らの背後には、市役所の大判の封筒と、白銀の丸い章印がちらつく。
斎藤誠は管理室の窓からそれを見下ろしていた。指先に厚みのある木の円盤──登録印を感じる。掌の熱が少しだけ高まる。印を押したその瞬間、管理盤の表示が静かに浮かんだ。青と白のグリッド、通路を示す細い線、そして自分が最近つけた巡回ログの数が右端に小さくカウントされている。三件。十分ではない。だが行動を起こさねばならない。
「誠さん、外の様子どうです?」リナの声がドア越しに迫る。息を整えた若い女性の声には、いつもの真っ直ぐさと不安が混じっていた。彼女は下層で負傷者の手当てをしていた服装のまま、目を伏せずに誠を見た。
「掘削は始まってる。君たちのルートのすぐ側だ。市の許可書を持ってるらしい。合法だってさ、だからこそ止めにくい」
リナは歯を噛んだ。彼女の目には父のことが浮かんでいるのが分かった。誠もその重さを感じた。──記録を残す。現場を見て、確認して、証言する人を作る。それが今できる最大の準備だ。
誠は管理盤の画面を軽く撫で、対象区画の表示を拡大する。下層三十二区画、掘削点は赤い印で示された。だがその区画には、ここ数週間、巡回ログが一件も入っていない。管理盤はそのままではフル機能を解放してくれない。規則だ。彼は深呼吸して外に出た。
広場は動いていた。ミカが店主仲間を連れて詰め寄り、商店街の布告を読み上げている。クルムはいつもの通り、巨大な体を低くして落ち着いて地面に触れていた。その手つきは、ただの石ではないものと話をする古い番人の習性を思わせる。
「皆、聞いてくれ」誠は大声を出した。工事の近さを知らせ、危険を説明する。だが町の一部は利益の誘いに耳を傾ける。改修が進めば賃金も上がる。支援金も出る。誠の言葉は最初、熱狂に掻き消されるだけだった。
そこで誠は現場へ向かう作戦を立てた。管理盤が要求する「巡回ログ」を集めるため、住民と冒険者を区画に派遣して現地確認をする。巡回=現場での視認の積み上げ。それがあれば管理盤は動く。だがそれは同時に、彼らを危険にさらす行為でもあった。誠は短い目で仲間たちの顔を見た。リナが頷き、ミカの瞳が強く光った。クルムは静かにうなずいた。誰かがやるしかない。
「私は下層の北側を回る。リナは南のルート、ミカは商店街側を。クルム、君は旧通路の目印を確かめてくれ。私が管理室でログを受け取る」
「わかった、管理人」クルムの声は岩のように低い。だがその芯に揺るぎはない。
巡回は冷たく、埃っぽい空気の通路を縫った。彼らは持ち得るだけの灯りと、簡易の記録紙を持って歩く。ミカはかすれた地図の断片を胸に押し当て、旧役所の名残を辿るように足を運んでいた。リナは無口になり、一歩一歩に父の影を重ねていく。
誠は管理室で通信を待ちながら、管理盤の小さな窓を凝視した。巡回ログが一件、二件と表示に加わるたびに、心臓が跳ねる。三つめが来た瞬間、管理盤は色を変えた。操作可能範囲が拡がる。誠は掌を木の印盤に戻し、登録印をぎゅっと押し固めた。これで行ける。
だがその先に、もう一つの制約があった。管理盤は通路の再配列という大掛かりな操作をするたびに、迷宮の平衡をどこかで剥ぎ取る。小さな崩落が起きる確率が高まると、クルムは前から言っていた。代償だ。誠はそれを頭に入れつつ、操作を始める。
画面の中で廊下が音もなく曲がり、色が変わる。誠の指が複数のノードをなぞる。彼は攻撃を直接行うことはしない。重機を誘導して動線をはぐらかし、掘削機が無害な空洞に入り込ませる。重力や応力を均すために小さな迂回路を作る。管理盤はまるで建物の内部に触れているかのように、誠の行為を即座に反映した。
だが、その瞬間、管理室の壁が小さく震えた。エールが鋭い電子音を一度だけ鳴らし、画面の端で「局所崩落発生」の警告が点滅する。誠の胸に冷たい鉛が落ちた。
「どこだ?」彼は叫んだ。応答はほとんど同時に届いた。ミカの声が震えている。
「商店街の裏通路……壁が落ちた、倉庫二軒の角が。人は──大丈夫、今は誰もそこに居ないはずだけど」
被害は偶発だった。幸いにして人身は出なかった。だが倉庫の壁に亀裂が入り、保存していた荷物の一部が崩れ落ちる。ミカの顔は血の気が引いた。誠の手が震えた。代償は出た。
「申し訳ない……」誠は声が出なかった。管理盤の操作は成功した。重機は迂回し、掘削の主要ラインは装置の停止を余儀なくされた。工事監督が怒鳴り、機械のエンジンが悲鳴を上げる。広場では支持者と反対派が互いに叫び声を上げる。
だが代価は支払われた。誠は立っていられなくなり、椅子に深く沈んだ。全身が鉛のように重い。筋肉が引きちぎられそうに痛む。額に汗がにじみ、視界の端が白く滲む。エールが無邪気に近づいてきて、彼の膝にぶつかると、電子音が静かに「ログ消失」の表示を吐いた。
その瞬間、誠の胸に小さな空洞がぽっかりと口を開いた。何かがそこから滑り落ちるような感覚。彼は懐かしい匂いを思い出そうとして、どうしても思い出せない。子供の頃に好きだったおやつの味、ではなかった。もっと手の届かないものだ。母親が寝る前に歌ってくれた旋律――それが、指先で弾いた瞬間に音がぼやけるように、形が崩れていった。
「誠さん?」リナが息を荒げて入ってきた。彼女は膝をつき、額に手を当てて彼の目を覗き込む。「意識はっきりしてる?」
「多分……」誠は声を絞り出した。言葉がうまく出ない。記憶の一部が欠けていることを彼自身が認める。
クルムが低く唸った。「管理の代償だ。記録の一部が失われた。だが、貴様が選んだ道だ」
リナの瞳が揺れた。彼女は誠の手を強く握る。誠はその温度を頼りに、ぼんやりとした無形の喪失を埋めようとした。
だが、ただ失っただけでは終わらなかった。掘削現場の残骸を調べた冒険者の一人が、現場の木片を持って管理室に駆け込んできた。埃にまみれた板の片。そこには古びた金属プレートの一部が打ち付けられていた。小さな数字が刻まれているが、その数字は他のプレートと微妙にずれている。三十二のはずが、そこには「??」のような欠けた刻印とずれた彫りが見える。
クルムが板片を取り上げ、古い石のような目でそれを吟味した。「これは……人為的な改変の痕跡だ。階数表示を操作した跡。これで、誰かが特定区画への関心を消し去ろうとした可能性がある」
ミカが動いた。ポケットから小さな赤い鍵を取り出し、板片に近づける。鍵は不意に震え、微かな振動を発した。ミカの掌に汗が浮かぶ。顔色が一瞬で変わった。
「これ……」ミカは言葉を詰まらせる。「家にある箱に合うはずの……でもまさか」
その反応を見て、誠の胸の内にまた別の不協和音が生じる。赤い鍵の存在は、ここ数日の空気を変えつつあった。だが今、その鍵が板片に反応したという事実は、事態をただの工事反対運動から陰謀へと押し上げた。
重機のエンジンが止まり、監督が