竜相棒 第9話「第八章 王都への帆、夜景の幕」
蒼は、一つの問いに頭を占められていた──王都で何を見るべきか、そして誰と行くべきか。里の基盤は整いつつある。ミオは昼の空気を裂いて飛び、鱗の艶が日に映えていた。だが蒼の手の中にはまだ、銀の鈴の冷たさと、先日塔内で見た石碑の刻印が残っている。答えは王都にある。彼はそれを確信していた。
蒼は、一つの問いに頭を占められていた──王都で何を見るべきか、そして誰と行くべきか。里の基盤は整いつつある。ミオは昼の空気を裂いて飛び、鱗の艶が日に映えていた。だが蒼の手の中にはまだ、銀の鈴の冷たさと、先日塔内で見た石碑の刻印が残っている。答えは王都にある。彼はそれを確信していた。
倉庫兼診療所の扉を押すと、イネスが鉄と革の匂いを漂わせていた。彼女は鍛冶場から戻ったところで、作業前掛けを肩にかけたまま、鞍の縫い目を指で確かめている。夜間の護衛に備えて、竜に負担をかけない装具を改良していたのだ。
「出発はいつだ?」イネスが訊く。素っ気ない調子だが、瞳は真剣だ。
蒼は銀の鈴を掌に転がした。澄んだ金属音が指先を震わせる。音は──いつもミオの落ち着きを呼ぶ。だが、鈴は単なる慰め道具ではない、彼はそれを知っている。石碑の文様と一致した時から、重みを増した。
「準備が整えば、すぐにでも。だけど、証拠を持っていきたい。魂石の流通ルート、竜具院の設計図の断片、それから──」蒼は言葉を切る。彼はあまり多くを語りたがらなかった。言葉にすれば計画は現実になり、現実は人を危険に晒す。
そこへロルフが入ってきた。湿ったマントを翻し、机に古い巻物と小さな錠前を置く。彼は疲れた年長者の顔つきをしているが、目だけはまだ鋭かった。
「王都行きの手引きだ。これがあれば、下層から少しは潜り込める。だが覚えておきなさい、あの街の法と利権は重い。紙一枚で人の居場所が変わる。」ロルフは淡々と告げる。彼の手には、先日奪った竜具院の出荷帳のコピーと、魂石積載の航路図がある。そこには王都へ向かう船団の記録が明記されていた。
蒼はページを指で辿った。魂石はただの資源ではない。村の子どもが痛みに声をあげるように、竜の群れは鈍く、確実に弱っていく数字が並ぶ。蒼の胸が締めつけられる。彼は小さな声で、ルールを繰り返した。
「共鳴契の条件を忘れてはいけない。相手の同意、直接接触、契約は一体だけ──それと禁止。意志を奪ってはいけない、他人を殺傷させるために使ってはいけない、売買の証拠にしてはいけない。」
イネスは眉をひそめる。「君はそれを本当に守るのか? 王都で人が困っていたら、契約で何かできるのでは──」
蒼は否定する代わりに、ミオの額に触れた。子竜は首を傾げ、蒼の手に顔を押し当てる。そこには言葉に出来ない信頼がある。蒼は自分の胸の奥にある誘惑を知っていた。あの力は便利だ。だが代償がある。使えば使うほど、直近の記憶が薄れる。身体は疲労に支配され、寿命が削られていく。里を守るための力が、いつか蒼自身を奪いかねない。
「同意がなければ、俺は動けない。強制は出来ないんだ。」
その言葉を聞いたロルフは、紙をぐっと握りしめる。「だが同意を引き出すのは、言葉や鱗の触媒だけでなく、信頼だ。蒼、お前はその信頼を作ってきた。王都での戦いは違う。そこでは言葉も紙も買われる。だからこそ、証拠を集めて法と民意で叩く必要がある。」
蒼はうなずいた。仲間たちの顔が、一つ一つ彼の決意を押し固める。
午後、市場へ出かけた。アルマに繋がりがあるという話をロルフがしていた。蒼は行商の一角を辿ると、布張りの屋台でアルマが薬袋を並べていた。彼女は薄手の帽子を深くかぶり、目だけが機敏に光る。蒼が近づくと、アルマは無邪気な笑みを向けた。
「王都を見たいかい、蒼君?」彼女の声は軽やかだが、それは誘いにも似ていた。「古い友達がいる。獣医団にね。彼らは昔の書物を隠してる。だけど──王都は大口の鷹が多い。気をつけるのよ。」
アルマは差し出した小さな紙切れを蒼にそっと渡した。そこには人の名前と住所、夜に会える茶屋の名が書かれていた。蒼はそれを受け取り、ぽんと胸の内にしまい込んだ。アルマはさらにこう言った。
「銀の鈴はね、ただの鈴じゃない。君が思っているよりも多くの意味を持つ。だがそれは、王都へ行って自分の目で確かめてごらんなさい。」
その言葉は暖かくも、どこか計算めいていた。蒼は疑念を抱きながらも、アルマの手の中にある古びた包みから透ける古布の紋様を見た。どこかで見覚えがある模様で、それが心に小さな震えを与える。
帰り道、蒼は里の路地を抜けると、遠くの波の匂いが鼻を打った。港へ向かう船が近い。ロルフは蒼に港の出航情報を示した。王都行きの便は週に二便。次の便は三日後だという。三日──その間に更に証拠を固める時間がある。
だが、その夜、イネスの家に行く用事ができた。彼女は蒼に呼ばれて、家の奥座敷へ入った。そこに座るのは、かつての兵士の面影を残す中年の女だった。イネスの姉だ。彼女はかつて兵隊の一員であり、街で名のある者の護衛を務めていたという。
「姉貴か?」蒼は声を抑えつつ訊く。イネスは苦笑したが、表情は固い。
「そうよ。もう戦地にはいない。私がここにいるのは、妹が何を選ぶかを見届けるためよ。」姉はイネスの肩に手を置く。彼女の瞳には誇りと不安が混じっていた。
イネスは小さく息を吐いた。「私、行くよ。里を守るために。家族を守るために。けど──姉さんには心配かけたくないんだ。」
姉は黙ってイネスの手を強く握った。「お前が決めるなら、私が背中を守る。だが一つだけ覚えておきなさい。戦いは鍛冶や技巧だけじゃない。人の心を動かすんだ。君が持つ信念で人を動かすことだって、武器になる。」
その言葉が、イネスの表情を柔らかくした。蒼は二人のやりとりを見て、胸に暖かいものが広がる。仲間の覚悟が、確かなものになる瞬間だった。
夜、蒼は寝付けずに外へ出た。空には星が少なく、遠方に王都の灯りが滲んで見える。だが目に映る灯は、宝石のように冷たく、蒼には距離を感じさせた。彼はポケットから銀の鈴を取り出し、そっと鳴らしてみる。音は、里の屋根を渡り、ミオが寝床で首をねじるのが聞こえた。
眠気が薄れる瞬間、蒼の頭に小さな違和感が走った。昨夜の細かい出来事の順序が飛んだ。誰かの髪の匂い、屋台の色、ある鳥の鳴き声──直近の日のいくつかが、ふっと霧のように薄れている。契約の代償は静かに、しかし着実に彼の内部を浸食していた。
翌朝、出航の日が迫る。仲間たちとの打ち合わせで、蒼は行程を口頭で説明する。王都では下層から接触を試み、獣医団の旧記録を探す。アルマの茶屋で夜に会合を持つ。ロルフは法廷に持ち込める書類を整理する。イネスは護衛と現地での物資確保を担当する。ミオは──もちろん同行する。蒼はミオと共に空へ上がり、町の屋根から王都へ向かう案を検討していた。
出発の朝、里の人々が見送りに来た。子どもたちが手を振り、老いた医師が小さな薬袋を手渡す。蒼は胸が熱くなり、言葉が出なかった。代わりに、彼は銀の鈴をミオの首に一瞬だけ返した。子竜は反射的に鳴き、安心したように蒼に頭を擦り付ける。契約は一つだけ。蒼はその重みを改めて噛みしめる。
船は帆を上げ、潮の匂いを運んだ。陸がゆっくりと遠ざかる。蒼は甲板で立ち、手すりにもたれて王都の方向を見た。遠い壁と塔が、沈みかけた朝日にうすく輝いている。胸の中の不安と決意が渦を巻く。
三日後、王都の夜景が蒼の目の前に広がるだろう。だが彼は知っている。夜景が美しいほど、