竜相棒 第6話「第5章」
朝の霧が村を薄く包んでいた。屋根の茅に朝露が光り、遠くの森の縁で一筋の白い煙が立ち上る。蒼は小屋の戸口に肘をつき、ゆっくりと息を吐いた。今日という日の始まりを、心の中で一つずつ数えるようにして――里の防衛、陽動、移動経路の確保、そして何よりミオたち竜を傷つけさせないこと。
朝の霧が村を薄く包んでいた。屋根の茅に朝露が光り、遠くの森の縁で一筋の白い煙が立ち上る。蒼は小屋の戸口に肘をつき、ゆっくりと息を吐いた。今日という日の始まりを、心の中で一つずつ数えるようにして――里の防衛、陽動、移動経路の確保、そして何よりミオたち竜を傷つけさせないこと。
「計画はこうだ。徴発隊の本隊を南の谷に誘導する。そこには古い湿地がある。重騎兵は足元を取られて動けなくなる。こっちは別働隊で里の北側の隠し道を整えておく。移動は夜明け前だ」
イネスが膝を抱えて前に立ち、顎を引いて蒼を見た。短い刃物の手入れをしながら表情は真剣だ。鍛冶屋見習いの手は荒れているが、その目は鋭い。
「非致死的な拘束具は、昨日試作した通りだ。鞍と兼用できる。鱗を傷つけない長繊維の縫い目、急所を押さえない固定。捕縛したらそのまま布で目隠しして、声帯を刺激しないようにする。蒼さん、竜はパニックになると何するか分からない。あなたの力で落ち着かせられるなら――」
「落ち着かせる。そうだ。だが前のことを忘れるな。『共鳴契』には条件がある。相手の同意が必要だ。触媒が要る。俺は一度に一体しか契れない。使うたびに、直近一日の記憶が薄れる。身体にも疲労がたまる。寿命が削れる」
蒼は自分の声に少し冷たさを感じた。言葉にしているうちに、胸の奥の何かが疼いた。契約の代償は現実であり、理想という言葉だけで押し流せるものではなかった。
ミオが小屋の影から顔を出し、青い瞳で二人を見上げた。鱗の一つ一つに朝露が滴っている。まだ子竜らしい丸みが残る体を彼は少し丸め、蒼に寄り添うように鼻先を伸ばした。
「ミオ、今日は君が重要だ。君にほかの子竜たちを促してもらう。直接契約は君だけしかできない。だが、君が落ち着けば、仲間もつられて落ち着く。理解したか?」
ミオは小さく鳴き、首を短く振って頷いた。行動で同意を示す。蒼はその頷きを見て、手袋を外し、慎重にミオの側に膝をついた。冷たい鱗が指先を触れ、蒼の掌に細かな振動が伝わる。触媒は直接の皮膚接触だ。彼の内側で、いつもの獣医としての冷静な手順が働く――同意の確認、触媒の確認、意図の明確化。
「ミオ、落ち着いて。君の声でみんなをまとめて。危険が来る前に安全な場所へ導いてほしい。分かるな?」
小さな鱗の温もりが伝わり、ミオの心が柔らかく開いた。蒼は両眼を閉じ、できるだけ短く、はっきりとした心の言葉を紡いだ。共鳴というよりは、相手の不安に寄り添うことを選んだ。命令ではなく、提案として。
その瞬間、視界の端が薄く揺らぎ、胸の奥に重い倦怠が差し込んだ。使い慣れた痛みの形だ。契約は結ばれた。蒼はミオの心の波を受け取り、同時に自分の体の一部を差し出したような感覚に襲われる。
「いい、行け。ゆっくり、低く。怖がらせるな」
ミオは軽く羽を震わせ、空気に体を乗せた。彼の背にある未熟な翼膜が朝日の下で薄く透ける。周囲にいた幼竜たちが、ミオの声に応えるように、巣穴から出てきて草むらの先へと誘導される。蒼はその通りに動く体を見つめながら、次の指示を口に出した。
「イネス、君のチームは南の小径に偽の痕跡を残しておけ。ロルフ、徴発隊が来たらその隊長に古い補給書類を見せられるようにしてくれ。村人たちは煙の罠の準備を。アルマから貰った薬草の香を燃やして嗅覚を混乱させるんだ」
イネスは布袋から巻物を出し、地図に短い線を引く。ロルフは浅黒い顔で頷き、先日渡された古い紙袋を胸に抱えた。アルマは影のように現れて、蒼の手に小瓶を押し付ける。薬草の香がほのかに柑橘のように鼻をくすぐった。
「使い方は前に教えた通りよ。燃やすと一時的に先端の嗅覚を鈍らせる。犬や追跡者には厄介なはず。だが逃げられる者を眠らせるほど強くはない。あくまで混乱を誘うためのもの――お前さんはいつも大げさに大事なことを訊くからね」とアルマは肩をすくめるように笑ったが、その目は厳しかった。
計画は細かく、だが単純だった。北側に隠し道を整備し、竜たちをそこへ誘導する。南側には偽の獲物と足跡を作り、徴発隊をおびき寄せる。追跡犬には嗅覚混乱を仕込み、重騎兵には湿地の罠を掘る。捕縛具は非致死でなければならない。竜を道具扱いする彼らの手に渡さないために、捕獲はあくまで拘束して退けることに用いる。
夜明け前、村は静かな戦場になった。人々は息を殺し、蒼の合図で動く。蒼はミオと呼吸を合わせ、心の中で彼と合唱するように一つのリズムを作った。契約は一体だけだが、相互の信頼は連鎖する。ミオは他の幼竜たちに寄り添い、彼らの不安を吸い取るようにして歩幅を合わせた。
徴発隊の先触れは山道を下る砂の音で分かった。馬の蹄の乾いた音。鉄の当たる音。蒼は手を上げ、最初の合図を送る。イネスとその仲間が、事前に仕掛けた稲わら人形を動かし、動物の群れを装って道の一番外れに投げ出した。煙がぽつりと上がり、香が風に乗る。犬が嗅ぎ取って首をかしげる。
徴発隊が入ってきた。装束はくすんだ藍、胸に竜具院の紋。隊は三十人ほどの小隊で、二列に分かれ馬を曳き、竜の徴発のための契約書類と縄を肩に下げている。隊長が高い鞍の上から地面を睨み、叫び声とともに犬を放した。
だが犬たちは、村人の仕込んだ香に惑わされる。鼻を鳴らし、方向を見失い、ひゃんひゃんと不協和音を上げた。先に作られた足跡と騒ぎは計画通りに隊の注意を引き、彼らは南へ向かう。湿地の手前で足元がぬかるみ始める。重い鎧が湿に沈み、馬が嘶く。
「今だ」
蒼は短く叫び、隠れていた村人たちが動く。捕縛具は素早く、だが丁寧に仕掛けられた。騎手が踏ん張る隙に、イネスたちが網を投げ、馬の足元を滑りやすくする布を撒いた。騎手が転倒し、仲間が振り返ると、別働隊が古い補給書類を掲げて近づいてきた。ロルフが大声で補助金の支払いを請求するような口調で叫ぶ。書類は古いものだったが、徴発隊の下級隊員の中にはそれを確かめる者もいる。混乱に乗じて村人たちは非致死的に数人を拘束した。殴る者は誰もいない。押さえ込むだけの力で、河北の常套手段を使っていく。
だが、湿地を抜けて南へと誘導したはずの主力は、そこで足止めを食らった。泥に嵌まり、馬がもがき、長柄を振るう。徴発隊の隊長は怒鳴り声をあげ、森林での補給を命じる。蒼たちの陽動は成功した。村は息を呑んだが、歓声を上げるほどではない。徴発隊の一部が足止めされている間に、竜たちを安全に移動させる時間を確保した。ミオは任務をやり遂げ、小さな胸を上下させながら近づいてきて、蒼の肩に頭をもたげた。
だが、蒼の身体は重かった。契約の代償が、確実に現れていた。手指の先に冷たさと小さな刺し傷のような感覚。胸が圧迫され、さっきまでの数時間の記憶が断片化し始める。今朝の地図上の線が、一瞬にして霞んだ。
「蒼、大丈夫か?」イネスが駆け寄る。彼女の顔には生気が戻っているが、その目は不安で揺れていた。
「大丈夫だ。少し座りたいだけ」蒼は顔を少し横に振った。声に力が入らない。契約を解いた後、いつもこんなふうに思考の端が切り取られる。記憶の一部が薄れる感覚は不快で、だが彼が今最も恐れているのは、忘却の先にあるものだった――大事な誰かの顔、あるいは誰かに託