竜相棒 第4話「第3章」
蒼は夜の闇を吸い込むようにして軒先に身を潜めた。冷たい風が屋根瓦をなで、遠くで犬が一度、低く吠えた。目的は単純だった。証拠を持ち帰ること。竜を道具に仕立て上げる流通のその現場――倉庫の奥に眠る書類と破片を手に入れ、村に見せられる形にする。それだけで里の人々が動く材料となり得る。だが蒼は知っていた。何もかもが想像以上に危うく、小さな勝利が血の代償を要求することを。
蒼は夜の闇を吸い込むようにして軒先に身を潜めた。冷たい風が屋根瓦をなで、遠くで犬が一度、低く吠えた。目的は単純だった。証拠を持ち帰ること。竜を道具に仕立て上げる流通のその現場――倉庫の奥に眠る書類と破片を手に入れ、村に見せられる形にする。それだけで里の人々が動く材料となり得る。だが蒼は知っていた。何もかもが想像以上に危うく、小さな勝利が血の代償を要求することを。
「監視はどうだ」
イネスの囁きが耳元で短く、だが確かに響いた。鍛冶屋見習いの指は鋭く、夜の暗さに慣れている。ロルフは裏の路地から建物の配置を確かめ、月明かりで指示を出す。蒼はミオを背に抱え、銀の鈴を皮紐で首にくくりつけた。その鈴は――慰めのはずの小道具が、やがて証拠の断片と結びつくとは思わなかった。だが今は証拠だ。蒼は鈴の刻印を思い出す。かすかな刻みが、あの箱のマーキングと同じだと。
「まず一つ、確認しておく」蒼は低く言った。声は風に溶けたが、言葉は仲間へ届いた。「僕らは傷つけない。証拠を取るだけ。逃げられなければ撤退する」
「分かってる」イネスの返事は鋭く、安心を与えた。ロルフは黙って頷いた。彼の目は過去と現在を秤にかける様子だった。
倉庫は港に近い古い倉の一角だった。木の扉は古び、鉄の鎖が二重に巻かれている。イネスが用意した細い器具が鍵穴に滑り込み、カチャリと音がした。扉は静かに開いた。
中は金属と油の匂いが立ち込め、機械工房の残り香が混ざっていた。大きな木箱が幾つも並び、その側面には見慣れた刻印。蒼の手が震えた。鈴の刻印と同じ文様が、そこにあった。刻印は簡潔で、竜の鱗を象ったような渦模様と小さな十字が組み合わされている。箱の隙間からは黒い粉末がこぼれ落ち、触れるとそれは粘りを帯び、薬品のような臭いを放った。
「魂石の粉だ」ロルフの声が震えた。彼は倉庫の奥へと手慣れた足取りで進み、古い書類の束を引っ張り出した。紙は油と煤で汚れているが、書き込みは鮮明だ。蒼は騒がないように息を殺し、文書に視線を落とした。そこには実験の記録と図面があった。
「鱗燃焼実験――小型炉、第三収束試験。サンプル:若齢竜鱗A-13、燃焼温度X、出力量Y。副産物:灰中に高密度エーテル残留。魂石片に接触すると出力増加、対象個体の生体反応は激烈――痛覚反応増幅、行動抑制、鱗の脆化を伴う――」
蒼は読み進めながら背中に冷たい吐息を感じた。行為ははっきりしていた。鱗を燃料にし、魂石の断片で出力を強化――相手の生命そのものを道具として取り出す技術。図面には炉の縦断面図が載り、中央に鱗の投入口、下部に微小石を投じる槽が描かれている。槽の注記に小さな文字で「分霊抽出」と走り書きがあった。
「こんなことを」イネスの声が小さくなり、鋼の鍛冶場で鍛えた腕が震えているのが見えた。ミオは箱の匂いを嗅ぎ、体を縮めた。その青い瞳が蝋燭の火のように揺れ、怖れを映している。
蒼はミオの側にひざまずき、指先で彼女の前脚の鱗に触れた。古い契約がある。彼らは一度心を通わせ、互いの同意を交わしている。共鳴契は強制を許さない。蒼はそのことを改めて口に出して確認する。「いいか、ミオ。これから僕と一緒に動く? 本当に、君の意思で」
ミオは小さく、短い咆哮を返し、蒼の掌に額を寄せた。合図だ。触媒は直接の皮膚接触であり、鱗はその触媒にもなり得る。蒼は手をミオの首根にしっかりと置き、心をわずかに開いた。共鳴が訪れるとき、世界は鈍色のベールを一度透過して、細い糸のような感覚が心に繋がる。ミオの不安、鼓動の速さ、羽ばたきのリズムが蒼の内側へと流れ込んだ。
許可がある。合意という形がそこに確かに残る。蒼はルールの重さを噛み締める。共鳴は相手の意思を消し去らない。命令ではなく、情緒の同調。だからこそ互いに信頼が必要だった。蒼はミオの意思を読み取り、彼女が望むのは逃げること、走ること、飛ぶことだと感じ取った。
「行くぞ」蒼はささやくと、ミオは短く咆え、屋根へ跳び上がった。二人は屋根伝いに移動し、倉庫の通路を離れて上方へと駆け上がる。蒼の腹に落ちる疼きがあった。契約の代償はきまぐれに現れる。使用する度、直近一日の記憶が薄れるという小さな代償がある。今も契約の痕跡が後頭部の奥でざわつき、昨日の記憶の端がぼやけているのを感じた。まだ大きくはないが、危うさがある。身体にはほのかな疲労と微細な刺痛が広がっている。これも代償の一つだ。蒼はそれを無視できないと分かっていた。
上空へ出ると、月が雲の切れ間に鋭く顔を出していた。蒼はミオの首に掴まり、空を見下ろす。初めての飛行訓練は、倉庫での潜入の直後に――逃走のために――行われることになる。蒼が選んだのは安全に地面を離れるための最小限の飛行だ。ミオはまだ飛ぶことを恐れている。鱗の傷跡が筋肉の動きをぎこちなくしている。
「目をつぶらないで、風を見て」蒼は肩越しに伝える。触媒はもちろん体表接触。ミオは短い鼻鳴らしで答え、胸を高くして息を整えた。二人の間に流れる静かな共鳴は、命の鼓動を合わせ、羽ばたきのタイミングを教える。蒼の心はミオの筋肉の感覚に入り込み、どの瞬間に翼が跳ね上がるかを伝える。だが伝えることと操ることは違う。蒼は常にその違いを忘れないようにした。
「一、二、三!」イネスの合図と同時にミオが跳んだ。風が二人を抱きしめ、身体が一瞬の真空を通り抜ける。ミオの翼はぎこちなくも確かに空気を捕らえた。蒼は身体全体でその感触を受け、ミオの恐れを宥める言葉を心の中で送った。共鳴は言葉ではなく、感情の波だ。ミオはそれを受け、羽ばたき方を自分で調整した。二人は屋根の列を滑るように抜け、空っ風が頬を切った。
下に見える倉庫の中から足音が上がる。誰かが異変に気づいたのか、向こうの扉が開く音。蒼の心臓が早鐘のように鳴った。イネスが小さく唸り、ロルフが何かを呑み込んだ。撤退のタイミングだ。蒼はミオに強く触れ、次の指示を伝えた。触れるたびに体内の違和感が鋭くなる。皮膚の下に小さな裂け目が増えたような感覚――これも代償だ。長く続ければ回復困難になる。だが今、選択の余地はない。
「左だ、屋根の谷を越えて、運河の方へ」蒼は声を張らずに命じる。ミオは流暢に反応し、二人は街の影へと滑り込んだ。追手の声が屋根を渡って届く。黒い人影が倉庫前に複数、集まっているのが見えた。彼らはブローカーの手先だ。蒼は彼らの目を避けながら、低空を飛び続ける。風が冷たく、ミオの体温が手に伝わる。彼女はまだ若い。だが空を駆けるその姿は、静かな誇りを放っていた。
運河へ落ちる寸前、ミオは奇妙な鳴き声をあげた。銀の鈴が小さく耳元で響く。月光を受け、鈴の表面の刻印が微かに浮かび上がる。蒼は足元の箱の刻印を思い出し、それがただの紋章ではなく、通信か合図の類である可能性を確信した。だが今は逃げること。足音が近い。追手の一人が屋根伝いに跳び、真っ黒な影がミオの後方を遮った。
「やれ」小さく、イネスの声。彼女は地面で火花を散らしながら罠のような装置を仕掛け、追手を足止めする。蒼は視線を投げつけ、共鳴の余波でミオにより強く飛ぶよう促した。ミオは応じて加速し、二人は林立する倉の谷を抜けて広場の向こう側に逃げ込んだ。