聖女薬店

聖女薬店 第15話「第十三章 王都への招致」

朝の海は、まだ昨日の熱を引きずっていた。塩の匂いが、港町イリュオスの石畳に残っている。リリア・フォルテは小さな布袋を肩にかけ、店の戸を最後に振り返った。扉の内側にはチョークで書かれた簡単な処方箋が何枚か貼られている。成分、温度、時間。どれも彼女が人に渡すときの約束だ。こうして書かれたものだけが、彼女の手で再現性を持って送り出される。

朝の海は、まだ昨日の熱を引きずっていた。塩の匂いが、港町イリュオスの石畳に残っている。リリア・フォルテは小さな布袋を肩にかけ、店の戸を最後に振り返った。扉の内側にはチョークで書かれた簡単な処方箋が何枚か貼られている。成分、温度、時間。どれも彼女が人に渡すときの約束だ。こうして書かれたものだけが、彼女の手で再現性を持って送り出される。

「本当に行くのか?」

背後でマルコが息を詰めた声で言う。十五歳の少年は、いつもの破れた革の首輪をぎゅっと握っている。目が揺れていた。リリアは微かに肩をすくめて答えた。

「行く。私が行ってこそわかることがある。恵果院に聞いて、記録を見せてもらう。赤い瓶のことも、聖痕のことも。町にいるだけでは、手が届かない真実があるかもしれない」

マルコは黙った。言葉に出来ない思いを胸の内に収めるように、裏拳で自分の膝を叩いた。幼馴染はそのまま振り返って店の奥へ戻っていく。イレナはすでに人手の整理で動き回っていた。リリアは深呼吸をして、布袋を締め直した。布袋の中で、赤い小瓶が網に擦れる音がする。拾い上げたときから、彼女はその小さな瓶を離すことができなかった。香りを嗅いで、指先で栓を確かめて、布袋に仕舞えば安心した。

港までは見送る人々が並んでいた。常連の母子、酒場の老主人、薬を頼みに来た足の悪い鍛冶屋。誰もが、リリアを見つめると簡単に笑顔を作れなかった。彼女はそれを受け止めた。自分がここを離れることが、誰かの安心を削ぐかもしれない。けれど、ここで得られるものが町全体を救う糸口になる可能性も確かにあった。

船は大きく揺れた。船底を抜けて来る潮風がリリアの頬を冷やす。目を閉じると、浅い眠りを奪う忙しさの日々と、夜中に書き残した調合メモが浮かんだ。彼女は前世で覚えた一連の手順を、そのままここでも繰り返している。だがこの世界では、薬は奇跡と混ざり合い、権力に操られる。リリアは、その境界を見極めるために王都へ行くしかないと思っていた。

到着したのは昼を過ぎた頃だった。王都は港町よりも遥かに大きく、建物は石と鉄で組まれ、空気は紙と油と樹脂の匂いが混ざっていた。恵果院の建物は都の中心近くにあって、重厚な門扉の上に古い紋章が刻まれていた。使者は黒い外套を着ており、表情を変えずにリリアを迎えた。同行するのは役人風の男と、細面で眼鏡をかけた中年の研究者。名前を聞く前に、研究者が軽く会釈した。

「リリア・フォルテさんですか。歓迎します。私はセラル。研究部の補佐をしている者です。恵果院ではあなたの調合法について――興味を持ちました」

リリアは唇を引き締めた。歓迎の言葉に含まれる乾いた空気を、彼女は感覚的に拾った。ここは研究と保存を謳う場所だが、同時に国家の資源を管理するところでもある。セラルの言葉は悪意ではない。しかし、受け止め方は無数にある。

建物の中は思ったよりも整理されていた。書架が規則正しく並び、標本棚が無機質に光るショーケースに収められている。石の廊下に足を踏み入れると、そこかしこに記録と標本の匂い――乾いた紙、保存液、植物の干し草の匂いが混じっていた。セラルは案内しながら、いくつかの部屋の扉を開け、簡潔に説明をした。

「ここが基礎解析室、標本の保管庫。向かいが生体反応の観察室です。リリアさんには基礎解析室の資料と、生体反応の記録の一部を見てもらいたい」

彼らが案内したガラス棚の中に、小さな彫刻のようなものが並んでいた。石で作られたように見えるが、表面には微かな光の波紋が刻まれている。セラルは、リリアの指先がそれに触れないように視線を向けた。

「これは――聖痕の一部ですか?」

リリアの声は低かった。石のように見えるが、微細な溝と光の痕跡が、生命の流れを可視化したように見える。これを触媒として、何かが繋がるのだ。彼女は自分の胸の奥が冷たくなるのを感じた。聖女たちの持つという「聖痕」は、確かに存在する。だがここにあるのは、祭壇の飾りではなく、技術の断片だった。

セラルは書類を一枚差し出した。古い管理台帳の写しで、そこには赤い小瓶の形状と登録番号、出所の記録が並んでいる。リリアの心臓が一つ大きく跳ねた。あの小瓶――彼女が港で拾ったものが、ここに記録されている。

「これは、王都の古い記録。保管と使用の履歴が残っています。いくつか不明点もありますが、あなたの持つものと一致するようです」

リリアはその場で紙を受け取り、指先で触れた。紙には年記と一行だけの注釈がある。「儀式補助材――部分保存」。その意味は容易に想像できた。胸の内に、冷たい針が差した。小瓶を拾ったあの日の匂い、微かな暖かさ、指先に残ったぬくもりが蘇る。あの瓶は、偶然に拾った「薬瓶」などではない。どこかで、人の流れを変える役割を持っていたのだ。

セラルは視線を逸らさずに言った。

「リリアさん、できればあなたに実際に一つ、解析を手伝って欲しい。こちらに持ち込まれた、保存組織の試料があります。直接見て、触れて、あなたの視点からの判断を聞かせてください」

その言葉は丁寧だったが、誘いでもある。リリアは一瞬ためらった。調合視は便利な道具である一方、彼女の代償を確実に引き出す。ここで使えば、貴重な情報が得られるだろう。だが、記憶は消える。素材は変わる。右腕の皮膚は、少しずつ白い瘢痕を広げつつある。彼女は紙袋の中で赤い小瓶を確認した。栓は固くしまってあり、液体は暗紅色に光る。

「条件は守る」

リリアは言った。声にはふるえが無かった。彼女はいつも通り、手順を重んじている。セラルは軽く頷いた。

解析室は小さく、机の上には薄い布に覆われたトレーが載っていた。トレーの上には、小さなガラス管に入った保存組織、そして標識のついた薬瓶が二本置かれている。標識には「風枯れ由来」と黒い文字で書かれていた。保存組織は死んでいるわけではない。微かな脈動を示す細胞の塊だ。彼らはそれを「患者の代理」として持ち込んでいた。セラルの顔にわずかな期待が宿る。

リリアは机の前に座ると、まず三項を書き始めた。成分、温度、時間――紙にペン先を走らせると、筆跡が震えるのが自分でもわかった。成分欄には現在使用可能な候補とその理由、温度欄には保存温度と反応温度、生体に触れる際の上限、時間欄には反応持続時間と安全マージン。書き終わると彼女は紙をテーブルの上に丁寧に置き、セラルに向かって言った。

「これを第三者の記録として残してください。私の調合行為は、必ず書面で明記する」

セラルは静かに頷いた。彼は油性のスタンプを取り出し、書類の端に印を押した。官庁の手続きは、どこでもこうして形式を重んじるのだとリリアは思った。手続きは、後で誰かが否認できないようにするための欠片だ。

次に、リリアは「患者」と「原料」に同時に触れるための準備をした。保存組織を包んだガーゼに自らの掌を添え、もう一方の手で候補の薬瓶を取り上げる。手の感覚が研ぎ澄まされる。彼女はいつも通り、原料が持つ匂い、温度、そして微かな電位差を指先で確かめるように触れた。これが調合視の発動条件だった。患者と原料が同時に彼女の掌に収まった瞬間、視界が薄く歪んだ。

色が引き剥がれるように、世界の輪郭