村勇者 第19話「第17章 喰らいの縁(えにし)」
石段を登り切ったところで、傾いた石の影が風に鳴った。切り立った遺跡はその頂で静かに息をしているようで、辺りの空気まで重く、ひんやりとした湿り気が肌を這った。青い結晶がぽつぽつと二人分ほど、苔の間に顔を出している。昼でもない、夜でもないような薄明の時間。誠は言葉を失った。生の熱はここにはない。代わりに、冷たく澄んだ光――世界の奥底から漏れるような青い輝きだけが、こうして確かに存在していた。
石段を登り切ったところで、傾いた石の影が風に鳴った。切り立った遺跡はその頂で静かに息をしているようで、辺りの空気まで重く、ひんやりとした湿り気が肌を這った。青い結晶がぽつぽつと二人分ほど、苔の間に顔を出している。昼でもない、夜でもないような薄明の時間。誠は言葉を失った。生の熱はここにはない。代わりに、冷たく澄んだ光――世界の奥底から漏れるような青い輝きだけが、こうして確かに存在していた。
「ここ……だな」
大村清の声が低く響いた。彼は城で見せる威厳を薄め、素朴な旅人の表情で周囲を見回している。リオは石の裂け目に落ちている粉を指先で摘み取り、眉を寄せた。
「鉱石の粉ですよ。ここのものと同じ性質です。掘り出した跡が向こう側に伸びている。運搬路も残ってる」
「碧の印の痕跡は?」誠は尋ねる。問いに彼の声は震えなかった。震えないのは自分でも不思議だった。感情が削られていく実感はある。だが意思はまだ固い。
リオは小さく首を振った。「ここでの儀式の頻度は減っています。だが完璧に止められたわけではない。誰かが結晶を持ち込んで、何度か試している証拠がある」
茜は石壁に触れていた。鍛冶仕事で傷ついた指先に、この石の冷たさが似合わないほど細い震えを送る。彼女の目は、子供の頃に祖母から見せられた古い模様を思い出しているように険しかった。誇り高い鋼の匂いが彼女の周囲に残っているようで、誠はその匂いを嗅ぐ度に、守らなければという本能的な衝動を強くする。
「碑文があるはずだ」と茜が言った。「刻まれた文様と一致するかもしれない。私の家に伝わる文の、断片が――」
彼女は言葉を切った。目の端に、まるで呼びかけるような亀裂が見えたのだ。誠もその方向へ視線を向ける。遺跡の中心部に向かう石造の通路が、微かに光を集めている。
「行きますか」誠は短く呟き、手に握った火かき棒に視線を落とした。木は茶色く擦り切れている。先端の金具は前世の消防用具を思わせる形のままだ。いつも鞄の底で重く、彼の行く先を問い続けるもののようにあった。
「誠」茜が肩に手を置く。彼女の掌はあたたかかった。誠は自らの掌が茜の手をどう受け止めるべきか、一瞬考えてから、無意識にその熱を確認した。だが、彼の心はいつものような胸の高鳴りを示さなかった。感情の鋭さが鈍っている。大切なものを守るために何かを失っていく――その事実は、まだ痛む。だが痛みは遠く、薄れていく。
「無理はするな」と大村清が言った。言葉は助言なのか、命令なのかはわからない。だがその言葉に込められた重みは、ここまでの道のりで何度も彼らを救ってきた。
「わかってます」誠は答える。――だが、わかっていることと、やめられることは違った。
通路の入り口で、誠は立ち止まった。石版が道を塞ぎ、古代の文様が風化しながらも力を宿している。そこに刻まれたのは、単純ではない文字列と、火を象った紋様。その中央に配置されたのは、小さな焔の意匠と、その周囲を取り巻く輪だ。茜の指先が震えた。
「これ――」彼女はそれを、指先で辿りながら唇を噛んだ。「これ、私の家にあった文様と同じ……ここで刻まれているのは、刻印の基本形。『火の律』の一部よ」
誠は文様を見る。火の律——その言葉は、彼の胸にあるいくつもの断片を揺らした。古い資料で断片的に見た言葉。村で見た古文書の断片。だが全体像はまだ見えていない。ここまで来た理由が、少しずつ形を取り始める。
「碑文を読む」と大村は言い、鋭く周囲を見回した。「読み取れるなら、読んでくれ。だが用心は怠るな。ここは碧の印の儀式場だ。生半可な気持ちで来る場所ではない」
茜は小さくうなづき、そのまま碑文の溝へ手を滑らせた。触れた瞬間、石が微かに震え、青い光が文様の切れ目から漏れた。誠は本能的に金属の耳触りのような音を聞いた。遠くで、眠りのような低いうなりが響く。
その音に、皆の表情が一瞬で硬くなった。リオは顔を横に振り、身を低くする。
「聞こえた?」彼は小声で問う。誠は小さくうなづいた。背筋に冷たいものが走る。過去に彼らが見聞きした、夜に現れる魔物たちの鳴き声とは違う。もっと古びた、世界の骨の奥からの音だ。誰かが名前をつけたとすれば、それは――喰らいの唸りだ。
「ここが……その中心に近いのか」大村が呟いた。彼は読み取り用の布を取り出し、碑文の断片を擦る。数分の後、文字が浮かび上がった。古語で刻まれているが、茜が解読するとき、言葉はゆっくりと姿を表した。
「『焔をもって縛り、芯を以て護る。捧げられし炎は世界の律を再現す。然れど贖(あがな)ふ代償、個の記憶を以て……』」茜の声は震えていた。途中で言葉を止める。そこまでで、碑文は風化により欠落していた。
誠は息を呑んだ。彼の喉の奥に、昔聞いた消防の誓いがよみがえる。あの時、仲間を守るために取った無数の小さな行動。だがここに書かれているのは、それらの行為が何か大きなシステムの一部であり、守るために何かを捧げることが要求されるということだ。守ることと捧げること。その間に、彼は立っていた。
「個の記憶を以て……」リオが繰り返した。「それは、あなたが使ってきた代償と酷似している。村で起きたこと――記憶が薄れる現象と符合する」
誠は火かき棒に視線を戻す。棒は今、ただの古い道具のように見える。村にいるとき、彼は誓いを口にし、棒を地に突き立てた。そのときだけ、焔は彼の手で振るわれ、村を護った。だがここにある碑文は、それがどういう意味を持つのかを、別の角度から示している。護りは世界を維持するための力かもしれない。だがその代償は――個人の記憶だ。
静寂の中で、茜が顔を上げた。目に入る光は、鋭く、決意で光っている。
「あなたは、それでも使い続けるつもり?」
誠は黙ったまま、棒を握りしめた。手の中の木の感触が、まるで過去の別れを思い出させる。感情が鈍った今でも、守るべき者たちの顔は残る。だが細かな記憶が消えていく。子どもたちの誕生日のこと、ある母の笑い声の調子、そんなものが幾つか風に吹かれて飛んでいった。彼はそのたびに胸が締め付けられた。だが締め付けられるだけで、感情の輪郭は薄れていった。
「選べるなら、それがいい」誠は静かに言った。「だが選べないときがある。火事のとき、溺れている子がいるとき、誰かの叫びが届いたとき、俺は――動く。止められない」
茜の顔に怒りと哀しみが混じった。彼女は誠の腕を掴み、目をじっと見据える。
「あなたが止められなくても、私たちは止める。私たちだって守る。誠一人で全てを背負わないで。もう、みんなで決めるべきよ」
その言葉に、誠は微かに笑った。笑いはあざけりではなく、苦笑だった。
「君たちがいれば、どれだけ楽か」彼は言った。「だが、その楽は俺が作らなきゃいけない時もある」
大村は割って入った。「今は議論の時間ではない。ここは碧の印の遺跡だ。敵は既に動いているかもしれない。私情は後で整理する。しかしだ……誠、お前は自分の限界を理解しているか?」
その一言に、誠の胸に鋭い痛みが走った。限界。彼は確かに、限界を超えて幾度も能力を使ってきた。村を守るたびに身体は一時的に衰え、記憶が抜け落ちた。だが彼はそれで