罪冠の和平王 第24話「第22章」
薄霧が渦巻く谷の底に、古びた石造りの祭壇が現れた。五本の白い杭が円を描き、その中心に鉄と黒金属で組まれた箱が据えられている。箱の表面には見慣れた五角形の凹みがあり、そこへ一枚ずつ罪札が嵌められる構造だ。だが今夜、凹みの一つだけが空いていた。その空白に沿うように、杭のうち四本は深く沈み、一本だけ細い割れ目を作っている。欠けた一本が、何かの名残を示しているようだった。
薄霧が渦巻く谷の底に、古びた石造りの祭壇が現れた。五本の白い杭が円を描き、その中心に鉄と黒金属で組まれた箱が据えられている。箱の表面には見慣れた五角形の凹みがあり、そこへ一枚ずつ罪札が嵌められる構造だ。だが今夜、凹みの一つだけが空いていた。その空白に沿うように、杭のうち四本は深く沈み、一本だけ細い割れ目を作っている。欠けた一本が、何かの名残を示しているようだった。
ノアは静かに指先で自分の手をなぞった。習慣は消えていなかった。夜ごと、彼女は仲間の人数を数える――一、二、三、四、五。指の動きは抑えられたが、今のノアの瞳は震えている。兄弟を思う目、それと同時に、自分がかつて握った短刀の冷たさを忘れない目だ。
「ここが、君の言った場所か」
ユルゲンは祭壇の端に寄りかかり、上着の裾で泥を拭きもせずに言った。薄く笑う顔は朝靄に溶けそうだったが、目だけは乾いて光っている。彼は右手の掌に一枚、薄い金属の札を載せて見せた。裏面が淡く赤く光っていた。
「装置は単純だ。五つの凹みのうち四つに正当な罪札を嵌め、最後の一つに血の印を落とせば、導線は閉じる。血は結ぶ。血は記録を固める。空席――死の証印が一つあればよい。君の弟の登録はこの箱の中で消える。君がその代償を選べばな」
言葉は冷たく、しかし優しい。ユルゲンはノアを知っている。彼女が何を恐れるか、何を守るためなら自分を汚すかを、彼はわかっていた。だからこそ口先は巧妙に甘い。彼は諦めさせるのではない。選ばせるのだと言った。選ぶのは君だ、と。
ガルドが前に出て、手の甲で短く咳をついた。彼の角の先にはまだ焦げ跡が残り、指は灰で黒かった。ガルドの瞳は静かに燃えている。イオは白衣の裾をぎゅっと握り、唇をかんでいる。セレネは額に汗をにじませ、だが顔は強張っていた。マヒロは、風にさらされた黒い輪をちらりと見せながら、石の祭壇にゆっくりと歩み寄った。彼の左腕は今のところ、六つの輪を数えている。夜の静けさの中で、その輪が微かに疼く音さえ聞こえそうだった。
「ノア、君の弟のことを聞こうか」ユルゲンの声が低く落ちる。彼は一枚の札を差し出した。札の裏面には、小さな文字で罪状が書き込まれている。だがそれは――少年の名前と、夜の密使として運んだ刃物の記録だけではない。そこには「消去済み」の印が捺してある。ユルゲンはそれを指で撫で、やや嘲るように続けた。
「ここにあるのは、記録の移行だ。弟は一度、国家の監視下に置かれた。消えるべきだ。だがそのためには、血が必要だ。血が一つ欠ける。四人で、そして一つの空席でね」
ノアの顔色が一瞬で変わった。彼女の喉を何かが詰まって上下する。指を一、二、三、四、五と動かすたび、胸の中で何かが壊れそうになるのを彼女は感じた。数えることは習慣であり呪縛でもあった。四人目の空席。四本の杭の沈み。全てが連動して頭の中で図式化される。彼女の過去はその数と一緒に開いていく――裏切りと服従、命令と逃亡、短刀を握った夜。
「できるんだろう?」ユルゲンは柔らかく言った。「君はまだ証人だ。君がやるだけで終わる。誰かを奪えばよい。仲間でも、見知らぬ者でも。血は血だ。弟は消える。君は自由になる」
その「自由」は、ノアにとってどのようなものか。弟の罪が帳消しになり、国を行き来する資格が戻り、二人はいつものように地図の端で穏やかに暮らせるのか。ノアの頭の中に、幼い頃に母が編んだ布団の匂いが差し込んだ。弟の笑い声が。だがすぐに、目の前の短刀の重さが浮かんだ。彼女が人の背後へ回り、風の音で息を止めた夜のこと。誰かの喉元を狙い、指先に汗がにじんだこと。命を奪った先に何があるのか。奪ったあと、どれだけの静けさが残るのか。
ノアは唇を噛みしめた。掌の内側に痛みが走る。彼女の中で、二つの声が争っている。一つは弟を救いたいという切実な声。もう一つは、仲間たちと過ごした日々の温もりを裏切れないという声。四人目の空席を作ることは、仲間のうちの一人を――彼女が長い間数えてきた「五本目」を――消してしまうことだ。
「ノア」マヒロの声は静かだったが、広場に確かに響いた。「君の手で誰かを殺すことが、弟を救うというなら、それは私の許容を越える。私は、人が自ら自分の罪を語り、償いを望むときだけ、罪を受ける。奪うのは違う。命を奪われた者は、もう語れない。君の弟が消えるために、誰かを消すことは、僕のやり方ではない」
ユルゲンは一瞬、眉を細めた。だがすぐに口角を上げ、冷たい笑みを作る。「理想主義者だ。君のような若者が正義の言葉を並べるのは素敵だ。だが現実は甘くはない。装置は数時間で稼働する。もし稼働すれば、君の弟だけでなく、この谷の人々にも瘴気が回る。選べ、マヒロ。誰を救い、誰を見捨てるか。君は王になるのか、魔王になるのか――選ぶのは君だ」
ユルゲンの言葉は雷のように重かった。「王になるのか、魔王になるのか」、その枠組みはマヒロの胸を締める。彼が拒むのは、力を独占し、誰かのために誰かを犠牲にすることだ。だが「選べ」という強制は、別種の暴力である。ユルゲンはそれを知っている。だからここまで来て、彼はノアに個人的な折衝を持ちかけた。弟のことを見せ、ノアの選択を即断させようとする。
ノアは一歩後ろに下がった。膝が震える。だが彼女の目は濁らなかった。彼女は短く息をつき、その指を静かに折った。五本指のうち、四本目を強く押す。習慣は逆流する。彼女は仲間の数を数えるのではなく、自分が守るべき五つの命を改めて数えていた。
「私は――」ノアの声は砂を噛むようにかすれた。「弟を愛してる。そりゃそうだ。だが私が彼を救うために誰かを殺すなら、その誰かの声は消える。私はそれを選べない」
ユルゲンは失望を滲ませ、だが同時に面白がるように言葉を続けた。「では見届けよう。君が拒むなら、装置は自動で動く。弟の罪は消えない。それを主張するのか。苦しむのは君だ。もしくは……」
ユルゲンの言葉は止まった。陰影が動いた。石造りの控え室の隅から、扉を開けて人が出てきた。少年は手錠で軽く縛られ、疲れ切った顔をしていた。胸には薄い黒い輪が、ほのかに浮かんでいる。ノアの視線が一目で弟に届いた。その瞬間、彼女は自分の胸の中で何かを切り離した。計算機のように冷たい思考が働く――犠牲になるのは自分か、誰かか、あるいは何か別の方策か。
弟は遠慮がちに前に出た。彼の目はノアを捜していた。兄妹の間に、言葉のない交換があった。弟は口を開いた。
「姉さん……俺は、消したいんだ。もう、全部。俺を守れるなら、姉さんがどうやってもいい。殺してくれ。そうすれば、俺は消える。姉さん、お願いだ」
その言葉は観衆の胸を刺した。弟の瞳には、祈りと恐怖が混じっている。自分が消えることを恐れない者にとって、消されるという選択は赦しに見えるのかもしれない。だがマヒロはすぐに理解した。弟が無理やり消えようとしているのは、兄妹の絆に絡まった深い絶望の証だ。ユルゲンはその絶望を利用している。
「君がそう望むなら――」ユルゲンは淡々とした声で言った。「私が手を貸してやる。だが覚えておけ。死は戻せない。記録は消える。しかし、それで君が自由になるわけではない。消えた者の声は