例外修復譚 第2話「第1章」
朝はいつもより薄い灰色をしていた。修道院の屋根に積もった雪が、数日の暖かさで溶けかけている。空気は重く、吐く息が白くならずにすぐに消えてしまうような、不思議な薄さがあった。リゼは寝台から這い出すと、まだ冷たい床板に足をかけて、躊躇なく廊下へ出た。八歳の小さな身体に収まった彼女の頭の中は、二十九歳の男だった前世の癖でいっぱいだった。観察する。記録する。変数を洗い出す。前世の仕事は、あるものの差分を見つけては正すこと――ゲームの不具合を探し出すデバッガーだった。その記憶と手順が、生っぽく残っている。
朝はいつもより薄い灰色をしていた。修道院の屋根に積もった雪が、数日の暖かさで溶けかけている。空気は重く、吐く息が白くならずにすぐに消えてしまうような、不思議な薄さがあった。リゼは寝台から這い出すと、まだ冷たい床板に足をかけて、躊躇なく廊下へ出た。八歳の小さな身体に収まった彼女の頭の中は、二十九歳の男だった前世の癖でいっぱいだった。観察する。記録する。変数を洗い出す。前世の仕事は、あるものの差分を見つけては正すこと――ゲームの不具合を探し出すデバッガーだった。その記憶と手順が、生っぽく残っている。
廊下の先では、いつものように子どもたちが列を作って朝の集会へ向かっている。修道女たちは頭巾を下げ、歩幅を揃える。子どもたちの足音は規則的だが、リゼにはどこか一つだけずれて聞こえるものが混じっている気がした。彼女の手のひらには昨夜貼った付箋の感触がまだ残っていて、その端に鉛筆で書いたメモの点が脳の中で点滅している。エナ・存在の不一致。差分を取る。ログを残す――それが先だ。
鐘が鳴った。低く重い第一打が空気を押し、瓦屋根の雪が一瞬だけ震えた。リゼは数え始める。仕事のくせは直らない。一打、二打、三打。規則正しく、五打で終わるはずのところに、ほんの短い余韻が付け足された。六つめの、確かに余分な一打。耳には届かないほど小さな違いでも、前世の自分ならログに取っただろうと彼女は思った。だが周囲の誰もその余分さに顔をしかめない。イレーネはにこりともしない。子どもたちはただ整列を崩さずに歩いた。
リゼの視界の端に、薄く赤い弧が残るように見えた。赤い括弧――それはまだ彼女の中で言葉にならない警告のように繰り返されることだった。画面の端に出た赤い警告の残滓。前世で見たログの一行と、いま目の前にある声とが、どこかで繋がっている気配があった。
「リゼ、今日は手伝いに来てくれるかしら」
シスター・イレーネの声がした。彼女の掌には青白い針金で結ばれた小さな鈴が載っている。光が当たると針金は淡く光り、鈴は氷を割るように澄んだ音を立てた。イレーネはそっと名簿を広げ、指先で一行をなぞる。指が止まったのは、エナという名の行だった。生年月日欄は白く空いている。誰かがそこを意図的に空けておいたように見えた。
名簿。名前は存在を結び付ける識別子だ。登録された者は照合され、制度の内側に組み込まれる。登録されなければ、扱いは別になるかもしれない。前世の彼――リゼの中に住むもう一人の記憶――はそういう文書の扱いに敏感だった。だからリゼには、そこに空白があるということが危険に見えた。
午後、荷車が来た。黒い三角の札を胸に下げた係員が名簿を確認していく。「カレン・アルト、移送。マルク・レンナー、移送。セラ・アルト、滞留。エナ……エナ、該当記録なし」その声は無邪気に淡々と響き、空気の端がぴりりと裂けたようだった。エナはそこにいる。毎朝パンを受け取り、青白い針金の鈴をいじる。だが公の記録はそれを認めない。存在しないとされること。それは規則の隙間を利用した別の処理かもしれない。
夜、リゼは言い訳を作って作業室へ忍び込んだ。鍵は緩く、引き出しの中に名簿はあった。羊皮紙の匂いが立ち上る。彼女は慎重にページをめくり、エナの行を見つけた。生年月日は確かに薄く、右端にはかすれた分類印。指先が震える。リゼは写しを作ることを本能で選んだ。原本が消えても、自分の手元に残せば差分は検証できる。前世の手順はここでも生きていて、外付けにコピーすることが安全の基本だと教えてくれている。
鉛筆の走る音が小さく部屋に響く。彼女は自分のノートに、度々書き付けてきたルールを改めて呟いた。自分の能力についての、断片的な記憶だ。名前はつぶやきになると落ち着き、心の中に再び秩序が生まれた。
「直接観測した事実だけを扱うこと。発動には紙に書き出すこと。原因は三つまでに絞ること。修正は最小限に。同じ対象を二度修正してはならない――」
その最後の一行を彼女はゆっくりと読み上げ、指でページの端を押えた。前世の彼が触れた言葉の欠片が、ここで生きている。能力の名は《例外処理》だった。リゼはそれをまだ完全には理解していないが、ルールだけは断片的に覚えている。さらに、彼女は思い出したはずのないことまで覚えていた。複数の人が同じ事実を証言すれば、彼女の負う代償を分散できる――という例外があること。その分散は可能だが、受け取った者にも不可逆の欠損が生じる、ということ。記憶を分け合えば責任も分かち合えるが、代価は確かに誰かの中に残るのだ。
その事実を知っているということは、すでに誰かがこの能力の倫理的重さを決めていたことを示している。彼女は紙に三つの原因を想定した。エナ本人の証言。手首の生誕印の欠け。名簿の「該当記録なし」。これが揃えば、例外処理の発動条件を満たすように見える。だが、何を「最小の修正」とするか。そこにはいつも選択の重さがある。直せば誰かの記憶が薄れる。直さなければ誰かの居場所が奪われる。
リゼは鉛筆を止めた。夜更けの静寂が彼女を包む。能力を使うことは、簡単なことでない。前世の彼女が残した最後の夢の断片は、誰かを直したときに自分の記憶が消えるという、冷たい取引を告げていた。二つの記憶を失う夢を見たことがある。あるいは、同じ対象を二度直せば、その対象の名前が自分から消え去るという規則のことを。誰かを守るために名を失うこと――それが自分にとってどんな意味を持つのか、八歳の身体ではまだ量り切れない。
コピーを布袋にしまい、リゼは深く息をついた。彼女はまだ子どもだが、守りたいものがある。エナがもし「記録されていない」ことで別の場所へ運ばれるなら、それを誰かが証言して食い止めることが必要だ。だがこの修道院の仕組みと、王都を動かす規則の力は、簡単には覆せない。だからまずは、ログを残す。観測を重ねる。人の証言を集める。例外処理は一人でやるものではなく、むしろ危険を分担するための道具だと、彼女の中の二十九歳の記憶は囁く。だが分担には代価があるということも、同じく囁く。
窓の外、鐘はまた余分な一打を混ぜて鳴った。空の端に赤い括弧がちらつく。リゼはエナの側へ寄り、静かにその小さな手を握った。「明日、もっと確かめるよ」と囁くと、エナはぎこちなくも安心したように頷いた。リゼの中の別の自分が、何かを保存する最後の衝動に突き動かされる。前世の彼が事故の時に残した生存者ログを保存していたように、ここでも記録を残すことが最優先なのだ。
夜が深まると、彼女はノートの隅に小さく四角を描き、「確認対象:エナ・存在の不一致」と書き加えた。紙に残した文字の圧は、彼女にとっての盾になる。目に見える記録がなければ、制度は存在を奪うことを躊躇わない。だが記録が一つでも外に出れば、誰かがそれを読んで証言することができるかもしれない。複数の証言が集まれば、例外処理の代償を分散する道も開く。受け取る者が不可逆の何かを失うという代償を覚悟できるか、それは別の話だ。だがリゼは、少なくとも選択肢を作ることはできると考えた。
翌朝、列が門を抜けて街道へ向かう。荷車は子どもたちを乗せ、黒い三角札が風に揺れた。イレーネは何事もない