名返しの迷宮

名返しの迷宮 第6話「第5章」

石畳のひび割れから風が吹き上がり、古い屋敷の前庭を撫でた。柱の一つには、かつて誇り高く翻っていたはずの家紋をかたどった彫刻が半分だけ残っている。深く刻まれた溝に沿って、赤い筋が薄く走っていた――縫い目のように、一方の端からもう一方へと続いている。トオルはその赤を見て、思わず息を呑んだ。何度も目にしてきた印だが、ここではそれが「古傷」に近い。時間と行政の摩耗があらわにした痕跡だった。

石畳のひび割れから風が吹き上がり、古い屋敷の前庭を撫でた。柱の一つには、かつて誇り高く翻っていたはずの家紋をかたどった彫刻が半分だけ残っている。深く刻まれた溝に沿って、赤い筋が薄く走っていた――縫い目のように、一方の端からもう一方へと続いている。トオルはその赤を見て、思わず息を呑んだ。何度も目にしてきた印だが、ここではそれが「古傷」に近い。時間と行政の摩耗があらわにした痕跡だった。

「ここが、リゼットの――元の屋敷、か」
ミュイが小声で言った。彼女の耳は地面の匂いを拾い、瓦の崩れ具合を読み取る。ノアは重たい溜息をつき、セラは石に残された小さな文字を指で辿った。トオルは四人の顔を順に見た。いつもなら自分が先に答えを出してしまう。机の上で、赤い採点ペンを手に自分の意見を押し付けていた昔の癖が、胸の奥で疼いた。

だが今日は違う。ここには人がいる。名をめぐる軋轢の現場だ。勝手に答えを与えれば、取り返しがつかない。能力のルールが彼の言葉を掣肘したわけではない。教壇での習慣がまだ働こうとするたび、トオルは自分でその手を止めた。問いを出し、黙って聞く。それが今、何より大切だと彼は知っていた。

「私は行く」リゼットが前へ出た。彼女の鎧は使い古されたが手入れが行き届き、盾には擦り傷が刻まれている。顔は引き締まり、目は屋敷の扉に釘付けだった。「この屋敷に、私の血の名が残っているはずだ。証があるなら、取り戻す。見張りや市の役人に気付かれる前に――」

「無謀だ」ノアが即座に言った。「長官の番兵が巡回してる。仮名を配った奴らだ。正面から突っ込めば、君一人じゃ済まない」

「私一人でやれると思ってない」リゼットは淡々と答えた。「だが、盾なら必要だろう? 盾は、前に立つ。私は盾だ。家名が戻るかどうかは別として、守るべき者がいるなら守る」

ミュイが屋根越しに周囲を見回し、低い声で報告する。小柄な身体が隠者のように動くと、トオルは彼女の観察眼に安心を覚えた。セラは顔を伏せ、何かを祈るのではなく、記録帳のページをめくった。彼女の指先は、名を記すときの手つきとは全く違う。そこには「聞いた人」と「状況」を残すための慎重さがあった。

作戦は単純だった。裏手の庭園を通り、崩れた地階に降りる。そこで屋敷の古い帳簿や黒焦げの名札、あるいは行政が残した封印の印章を見つけ、証拠を確保する。証拠があれば、名を返すための交渉材料になるだろう――ただし、トオルはすぐに自分が「材料」を使って誰かに答えを押し付ける危険を感じ取った。だから彼は、最初から自分を「回収者」ではなく「証人」に置いた。観察し、仲間の一つ一つの証言を重ね合わせること。それだけが彼に残された安全なやり方だった。

庭園に入り、瓦礫の間を慎重に進む。蔓草が古い石段に絡みつき、そこに幾つもの黒鉄の小札が落ちていた。それは行政が魔物に付けた識別札とは異なる、もっと重く、鈍い光を帯びたものだった。トオルはそれを拾い上げて指先で触れた。鉄は冷たく、縁には小さな打刻があった。打刻は削られて曖昧になっているが、文字の名残りがそこにあることは確かだった。まるで誰かが消された「家名」を隠そうとしているかのようだった。

「これか」リゼットが近づき、トオルの手元を見て唇を噛んだ。黒い札を手に取った彼女は、札に自分の掌をそっと当てた。鋼の冷たさが皮膚を刺す。彼女の顔に、小さな震えが走る。

「うちの名字――もう跡形もない。市の記録では、私らは"治安保持の協力者"という名目で、その……仮名を配る側に回っていた。家は国に従って町を守った。その代償に、私らは自分の名を渡したのだと聞いてる」リゼットは低く、しかし確かな声で言った。「私はそれを恥だと思っていた。身内を守るために、他人の痛みを認めなかった。今でも、許せないことがある。だから、私は取り戻す。どんな方法でもいいから――」

声の端に、怒りと優しさとが混じる。トオルは彼女の目を見た。そこには幼い日の誇りと、憂いが同居していた。彼は教師としての古い本能に抗い、ただ一つの言葉を胸に抱いた――「問い」。まずは何がその選択を生んだのか、誰がそれを決めたのか、当時の証言を聞かねばならない。彼は三つの観察点を思い浮かべながら、静かに口を開いた。

「リゼット、君が盾になるって言った。その言葉に、いくつかの証拠を重ねたい。君が当時、どんな決断をしたか――それを聞きたい。家の記録は、君ひとりの経験だけじゃない。使用人の証言、役所の文書、君の兄弟の記憶。三つ以上の事柄が必要だ。僕はそれを揃える。だが、君自身が、君の名をどう扱うかは君が決めるべきだ」

リゼットは驚いて顔を上げた。彼女の目に一瞬、怒りが戻る。だが次の瞬間、それは柔らかい安堵に変わった。

「わかってる。私にとって"返ってくる名"が口先の慰めじゃないってことは、君が言わなくても知ってる。あなたは私に名を押し付けないって言ってくれた。そこまでなら……協力してやる」

その言葉だけでトオルは救われた気がした。彼が答えを差し出す前に、相手が拒むことで、彼自身の記憶を守られたのだ。誤った名を口にすれば一つの記憶が消える。しかし拒絶は代償を免れさせる。彼は胸の底で冷たい汗を拭った。

庭園を抜け、崩れた地下室へと降りる。石積みの壁に沿って、古い箱や巻物が並んでいた。埃まみれの帳簿に指を滑らせると、古い筆致の行が目に入る。そこには確かに――「家名」としての文字はない。代わりに「補助者名」「管区管理者」「徴発協力」といった硬い語が列挙されている。役所の言葉は冷たかった。だが隙間に、手書きの小さな走り書きがあった。震えた線で「守った」とだけ書かれている。その下には「子どもには恥と教えないで」と書かれているように見えた。

「使用人の記録がある」セラが静かに指摘した。「これは妻のものかもしれない。読むべきだ」

ノアが唇を噛んだ。「だがこれを公にすれば、長官にとって都合が悪い。俺たちはもう、ここで証拠を運び出せるか?」

「移動させるのは簡単じゃない」ミュイが低く答える。彼女の視線は入口の方を向いていた。外は、いつもの巡回ルートにあり、簡単な罠で周囲を固められている。だが彼らが地下で帳簿を繰る間に、そこに足音が近づいてきた。鉄靴の乾いた音。長官の番兵か、それとも市の巡査か。

「気配が近い」リゼットが刃をチラリと見せる。しかしその刃を向ける先は、侵入者ではなく、地下室の奥、鉄格子の向こうで揺れる影だった。格子の裏側には、薄汚れた衣服を纏った数人の影が寄り添っていた。彼らの肩には黒鉄の札が幾つもぶら下がっている。首筋には、かつて人を識別するために用いられたはずの文字の痕跡がある。だが瞳の奥にあるのは、獣のような鋭さではなく、恐怖と渇きと、人間のものだった。

「彼らは……?」トオルが呟く。赤い縫い目が、格子の影を薄く縁取った。白い角文字が一瞬、空気に浮かぶように見えたが、それはすぐに波紋のように縮んだ。トオルは能力を働かせようと手を上げた。観察し、記憶を三つ以上揃え、他者の証言を得て――それがルールだ。しかし彼が観察を始める前に、リゼットが前に出た。

「出てきて。声を上げろ。あんたらを傷つけるつもりはない。ここ